2016年3月8日火曜日

デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉 Introduction

Dream and Power in the Digital Age
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉

          Introduction

            石田英敬


(注記: 以下の文章は、3月12日13日のシンポジウムの「イントロダクション」のために用意したテキストです。二日間にわたる討議の内容を予告するために事前に公開します。但し、当日、このままの形で発表されるとは限りません。





1 iii Digital Studies Conferenceとは?:〈知のデジタル転回〉を問う

『デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉』という総題でシンポジウムを開催するにあたって、
趣旨を説明します。
 昨年、私たちは、「知のデジタル転回」を標語に、東京大学出版会から、『デジタル・スタディーズ』全三巻を刊行しました 。
 他方、Bernard Stieglerの呼びかけで、2012年からDigital Studies ネットワークは、私を含む世界各国の理論家を結んで活動を展開して来ています。
(http://digital-studies.org/wp/call-for-digital-studies/)
 今後は、東アジアでも東京やソウルを結んで、「知のデジタル転回」をめぐる討議を、比較的定期的に組織していこうということで、「iii Digital Studies Conference 2016」として今回開催することになりました。
 Digital Studiesと「知のデジタル転回」については、上記のサイトや、また、『デジタル・スタディーズ』のマニフェスト的論考をご覧ください。

2 デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉

今回は、「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」をテーマに討議を行います。
 一般にはアーチストと呼ばれているクリエーターと、哲学者・社会学者・メディア理論家・記号学者で、デジタル時代のメディア・コンディションを問う「デジタル・スタディーズ」の試みです。
 それぞれすでに実績のある創造者・理論家ですから、時間の節約のために、業績の紹介等は割愛します。
 Creation & Critique 創造と批判・批評の認識論的・実践的循環性こそが、私たちの基本的な方法であり、その意味で、アーチスト・理論家がともに問いを立て省察することが、本質的に重要であると、私たちは考えてきました。
 今回掲げた〈夢〉は、漠然としたテーマではありません。ここで指されているのは、人間の生理的精神的活動としての「眠り」と「夢」の問題系です。「夢」のテクノロジー化を考え、「夢の危機」の時代(エポック)を問いたいのです。
 例えばですが、ここ数年、世界各地のシンポや講演会に出席すると、しばしば言及される本に、ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』 があります。この本の重要性は21世紀のキャピタリズムが、「眠り」の領域までも浸食し「睡眠の終わり」をもたらし、「消費主義が、個人化と個別化、機械のインタフェースと強制的コミュニケーションの技術からなる24/7の活動へと拡大している」(邦訳93頁)ことに警鐘を鳴らしたことにあります。
 たしかに、20世紀を通して発達してきた、文化資本主義の「注意力の経済」においては、「眠り」と「夢」は、唯一残された領域だった。しかし「24/7」の21世紀の資本主義において、コンピュータはユーザが眠っている間も、「スリープ・モード」で常時接続し、情報社会の「生の管理」が駆動しつづけている。
 さらにまた近年のDream decoding テクノロジーの発達に見られるように、マシンの「スリープ・モード」にヒトの眠りが接続され、私たちの眠りが「外部」化され、夢がスキャニングされ解読されるということも、起きつつある 。
 ヒトの「心(la Psyché)」が、マシンの「装置」と常時界面(インタフェース)をつくるという時代にまで、「24/7資本主義」の「制御(コントロール)社会」は進んで来たというわけです。

3.「スリープ・モードの生」と「夢解釈」

24/7のハイパー・コントロール社会では、「意識産業」や「記憶産業」として成立してきたテクノ・キャピタリズムによる「生活世界の植民地化」(ハーバーマス)が、「睡眠」と「夢」という「無意識」の領域にまで侵入している。21世紀におけるフーコーの用語でいう「生—政治」の問題が、別のかたちで浮かび上がってきている。
 「夢は欲望実現である」というのが、前世紀初頭におけるフロイトの定式でしたが、Dream decodingのようなテクノロジーによる夢の解読と、夢の知とは、どのような関係にこれから入っていくのかという、問題がそこからは現れて来ます。
 ヒトが夢みている間に、スリープモードのマシンが夢をダビング(二重化)していく、ということももはやまったく「夢物語」といえない。
 「睡眠」と「夢」において準備される「欲望」が、テクノロジックに書き取られて、別の回路に置かれる可能性が起こってくる(「夢のショートサーキット化」)。
 決してフロイディアンではない私が、最近、「フロイトへの回帰」を主張しているのは、「24/7のキャピタリズム」では、リビドー経済の「装置」がテクノロジックに完全実装された社会が近づいており、「夢」の「解釈」をめぐる認識論的な抗争(せめぎあい)が、これから拡がっていくだろうと予測しているからなのです 。
 

4. 「『夢と実存』への序論」(1953)

少し、本題から外れるかもしれませんが、
「夢と権力」というシンポジウムのテーマを考えたとき、私自身は、ずいぶん前に翻訳にたずさわったフーコーの第一著作を想い出していました。
 一般に、フーコーは1960年の『狂気の歴史』によってまさに「フーコー」になり、「精神医学」「臨床医学」「人文科学」「刑罰」といった「知」と「権力」の問題を扱ったのだと理解されてきたと思います。
 ところが、フーコーには、『狂気の歴史』以前の前史があって、その一つが、彼の処女作「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」(1953)というかたちで世に問われた仕事です 。
 20世紀にフーコーが立てた問いが、今日の世界では、さらに別の形で問われる必要がある。知と権力とテクノロジーの問題が、デジタル時代にはさらに強い強度で問われる必要がある。
 夢を権力や技術の問いの外部に置くことはもはや出来ず、「夢」、「心」、「権力」、「資本主義」をひとつの連続性において扱いうるような「思想の力」が求められているというわけです。

5. 「眠らない資本主義」と「破壊disruption」

もうひとつ、印象的な話題を提示しておきます。
  クレーリーの『24/7』の冒頭は、眠らない軍事訓練の話から始まりますが、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』 もまた、睡眠を破壊する「拷問」のテクノロジーの開発の話から始まります。カナダの大学で行われた「ショック療法」の研究。「昼と夜」の区別をズタズタにすることで、昼夜の「交替」が廃絶されて「ホワイトアウト」の世界が訪れる。人格が「初期化」される。1950年代に研究開発された拷問のテクノロジーが、ショック療法の「装置(dispositif )」としてチリやアルゼンチンの軍事政権によって「配備」されて、ミルトン・フリードマンの「保守革命」の実験を支えていったと述べられていることはご存知のとおりです。
 「拷問」とは単に残虐な蛮行であるだけではなく、心身に働きかけるソフィスティケートされた権力のテクノロジーである。それが「社会」を「初期化」することによって、「ネオリベラル」な実験に組み込んでいったと語られています。「監獄」がモデルとして機能したように。「拷問」や軍事的な「訓練」が、権力装置の「ダイヤグラム」として社会に遍く行き渡るようになる。次第に社会に目に見えないかたちで「浸透」して、「スリープ・モードの生」をコントロールしていく。
 Bernard Stieglerが最近語っているように、現在の技術革新は、シュンペーターの「創造的破壊」ではなく、「破壊的破壊」をもたらすことによってショックを引き起こし、そのDisruptionの効果が、現在の世界に大きな影を落とすようになった。
 以上が、あらかじめ導入しておきたい、今回の討議の問題論的背景ということになると思います。

6. Meta-Esthetics の問題系

24/7の資本主義におけるテクノロジー、知と権力、欲望と身体の問題系を討議するために、今回は二日間の二部構成をとりました。
 第一日目は、Creation 第二日はCritique、あるいは、Art & Theoryという構成になっていますが、単に便宜的ではない意味を簡単に説明します。
  ヒトのあらゆる感性的経験が、夢を含めて、digitalに裏打ち(redouble)されるデジタル・メディアの時代に、感性的経験が成立するメディア・コンディションを問う仕事をしてきた代表的なメディア・アーディストに参加をしてもらうのは理にかなったことです。
 そこで、Digital phenomenaが遍在化する今日の世界でEstheticsが成立する条件を問う、という目的で、第一日はMeta-esthetics をテーマに掲げました。

7. “Fujihata Anarchive”

第一のテーブルは、藤幡正樹さんの作品、とくに、最近完成された『Anarchive No.6 Masaki Fujihata』 を中心に組まれます。
 藤幡は、Media Art の創作をとおしてMedia conditionを問い続けてきた代表的なメディア・アートの担い手です。その数十年にわたる「作品の生」を、いま、anarchiveとしてさらに「作品化」する、とはどのようなことなのか、が問われることになるでしょう。
 そこには、archiveを通したmedia conditionの問い、archiveという構造体(architecture)の問い、そしてアーチストによって二重三重に裏返されてきたdigital media によるrepresentationをめぐる問いが問われている。そこには、一アーチストの「作品史」に留まらない、「メディア」の「技術の歴史」と「資本主義経済」と「政治と権力」をめぐる問いもまた書き込まれていることが分かるでしょう。
 あるいはまた、「夢」の問題もここではおそらく不在ではない。例えば、「モレルのパノラマ」ですが、原作「モレルの発明」 がすでに映画的なシミュラークルの存在論的な問いを問う作品ですが、それを作品化した「モレルのパノラマ」は、夢の夢の夢を生み出しつつスクリーンが裏返るような捻れた構造を生み出すことに成功している。
 Adolfo Bioy Casaresの原作と重ねて理解すれば、夢の「スクリーン」を「別の舞台« die andere Szene »」(フロイト)として提示して、感性的に経験(=クリティーク)する「発明」が、ここにはあって、さきほど言及した、Dream decodingの「現前の形而上学」の支配が進む中で、「夢」をめぐる「係争」に、一石を投ずる「技術批判」の射程を持ちうると思われもするのです。

8. The Formant Brothers

 第二のテーブルでは、昨年、結成15周年を昨年迎えた「フォルマント兄弟」に登場していただきます。
 彼らの仕事は、「声」というヒトにとって原初的で最も複雑かつ「内的」なメディアの今日における存立条件を問うことにあります。
 フッサールの「孤独な心的生活」の「メディア」ともいうべき「内面の声」が分節化する「音声学 phonetics」と「音韻論 phonology」の界面に、「構造主義」や「ポスト構造主義」と呼ばれた20世紀の人間科学は照準してきました。
 『声と現象』 のジャック・デリダは、「意識とは声であり La voix est la conscience. 」、「音素」とは「最もイデエールな記号 La phonème est le plus idéel des signes.」であるとしたが、19世紀末のフォのグラフ技術(phonographie)の発明による「声」の「亡霊化」が、ヒトの「音素」を発見させたのでした。
 「声」を録音再生しはじめたときに、「魂」の亡霊的「再生」も可能になった。ヒトは声の亡霊に付きまとわれるようになった。これが、20世紀的な「亡霊学 Hantologie」の問題です。
  「現在時で自分が話すのを聞く“S’entendre parler au present”」ことが、「孤独な心的生活」の「意識」と「魂」を息づかせる。「誰かが話すのを聞く」とは、誰かが「現在時で自分が話すのを聞く Entendre quelqu’un se parler au présent 」ことをつねにすでに伴っている。そのとき声の亡霊が付きまとい始めるのです。
 フォルマント兄弟のいう、音楽ではない「録楽」とは、すべからく、そのような「魂」を記録=再生する技術の配備と不可分の文化だというわけですが、私たちはまだ、その含意を十分には捉えきっていない。
 「それはかつて言われた。Ca a été dit 」という出来事の創出や、「今、亡霊が歌い出す」リアルタイムの亡霊経験を、兄弟が作品化していることの深い動機はそのようなところに求められるように思われる。
 デジタル化は、「声」の亡霊を人工的に生み出すことを可能にし、「人工知能」ではなく「人工魂」、「人工現前」とでも言うべき問題がそこから露呈している。人工音声が普及し、ボーカロイドが「普通に歌っている」世界で、あらためて声の亡霊性を問う「声の亡霊学」のクリティカルな射程がそこにある。
 そこからはまた、声をキーボードでリアルタイムで「演奏」するとはいかなる行為なのか。あるいは「声」を「伴奏」するとは如何なる行為か、など、の問い、さらには、音とは何か、音楽とは何か、という背景的な問いが問われることにもなるでしょう 。


9.ハイパー・コントロール社会

第二日は、「権力」と「政治」のサイドへと、私たちの討議は移ることになります。
 フーコーの用語でいえば、「生—権力」/「生-政治」や「心(サイコ)-権力」/「心(サイコ)-政治」の問題へ、権力のテクノロジー装置と「統治性」の問題へと向かうことになります。
 それはむろん、本質的なレベルで今日の24/7のキャピタリズムを問うことにつながるでしょう。
 まず、留意しておきたいのは、今回のシンポジウムを取り巻く文脈として、この催しが〈3・11〉5周年の直後に行われていることです。これは日付的には偶有的な符合ですが、しかし、偶然とは片付けられない関連も確認しておきたいと思います。
 ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』ともつながりますが、今日の世界は、数々のカタストロフィによぎられた世界です。21世紀の世界は、カタストロフィを契機にして、歴史が刻まれる。しかも、その速度が加速的に増している。
 その一方で、強迫的な「破壊的技術革新 disruptive innovation」(「破壊的」な「破壊」)が人々の社会生活に断絶をもたらし続けている。日本でも「日本経済新聞」のような経済紙でも「disruptiveな革新」の弊害に警告を発するようになってきている。 
 しかも、このカタストロフィのショックや破壊的イノヴェーションと、現代政治の極端な混乱は強い相関で結ばれている。
 こうした現代世界の混迷に、少しでも理解可能な理論的な見通しを与えることが、「デジタル・スタディーズ」のような、情報社会の基盤的批判の作業であるべきです。
 

10. Post〈3・11〉

  そこで、第二日の第三テーブルでは、カタストロフィの問題をまず取り上げます。私たちは二日前に〈3・11〉の5周年を経たばかりで、あの2011年の出来事は、Critical theoryにとって主要な試金石でありつづけている。
 それはいまや「記憶」と「忘却」の問題を提起し、「震災アーカイブ」と「記憶」の問題、災害の予知という技術的「予持」の問題や、「安全・安心」 の人口問題といったフーコー的ともいえる問題系、あるいは、「ショック・ドクトリン」が示したような、まさにネオリベラルな「実験」と「動員」が顕在化している。Brian Massumiらがいう「情動の政治」がじっさいに働いている。
 一日目との連続性も明らかで、例えば、「震災アーカイブ」について、藤幡正樹の「Voices of aliveness」 のようなクリティークを適用してみると、何が見えてくるか。私たちは、いままでとは異なったやり方で、「過去」や「記憶」と向き合うことになってきてはいないか。
メディア・テクノロジーによる「記憶」機能と「忘却」との関係など、問われるべき論点はじつに多い。

11. Catastrophe Studies

すでに、Kim Sungdo、Bernard Stieglerとは昨年の10月にソウルで討議しましたが、
カタストロフィの問題は、およそ次のような幾つもの断面を示しています。
1) カタストロフィの構造の問題:
 ソウル講演で、石田が「カタストロフィと冪乗則」について語った、プロパーに「予測不可能」な出来事の問題。
2) 「パニック」の問題も、そこからは派生している。あるいは20世紀に「集団心理学」として問われた問題。
3 ) 予知や予防、あるいは、SPEEDIのような災害のサイバネティクス化 シミュレーション化の問題
4) NHKの「震災ビッグデータ」が伝えたような、数理的データ処理のリアルタイム技術による痕跡捕捉の問題。
5) 記憶のポリティクスの問題。
など、です。
 これらは、Catastrophe Studiesの扱うべき問題系を示しているといえる。

12. 記憶と情動のポリティクス

3・11の震災の直後から、Brian Massumiは、”The half-life of disaster” (The Guarian Friday 15 April 2011)を書いて注目されました。それとは異なる文脈で、日本のNHKのディレクターである七沢潔は「操作された「記憶の半減期」 : フクシマ報道の 4 年間を考察する」 という論考を発表しています。
  これらは、メディアのリアルタイム報道、その記憶化、アーカイブの形成等、記憶のサイクル(「第一次記憶」「第二次記憶」「第三次記憶」)と、「住民 population」との関係を考えるための多くの課題を提示しています。
 今回は伊藤守の研究が、福島第一原子力発電所災害、東アジアの地政学、オリンピックという情動的な人口動員をめぐって、「身体、記憶への情動的権力の介入」の問題を提起することになるでしょう。


13. Contagion Studies

こうしたカタストロフィ研究や情動権力論と関連して、21世紀にはちょうど1世紀前にGustave Le Bon や Gabriel Tarde、そしてFreudを捉えていた「集団心理学」の問題が、別の形で姿を現している。
 19世紀末から20世紀初頭のアナログ・メディア革命の時代に、ファシズムの台頭の動きとも関係して、「集団心理学」が問われました。それはまた20世紀のマーケティング・テクノロジーとも連動したことも周知のとおりです。
 それから1世紀をへて、20世紀末以降のインターネット社会の到来以後の、コミュニケーションの問題を考えるうえでも、1世紀前の「集団心理学」の問いは問い直される必要がある。
 Jean-Pierre Dupuyが扱った「パニック」 のような問題も然り。Bernard  Stieglerが『デモクラシーに反するテレクラシー』以来問うている「人為的集団(foules conventionnelles)」(Freud)の問題、その「心理的-集団的個体化」の問題もまた、そのような問いを継続するものでしょう。
 今回の討議では、最近、韓国で「感染研究 (Contagion Studies)」の研究計画を立ち上げたKim Sungdo教授が、感染のコミュニケーション研究の方向性を提示してくれるはずです。
 「サイバーカスケード」や「エコーチェンバー」 のような議論は、もう少し歴史的射程を拡げて、「集団心理学」的な議論のパースペクティブの延長上で捉え直されることを求めている。
 Kim教授の「記号-人類学的展望」は、こうした大きな見取り図を描くことを準備するものであろうと思います。

14. Automatic Society  

最後に、「Hypercontrol とAutomatic society」と題して、第四テーブルでは、生活世界の全面的なデジタル化による「自動化社会 Automatic Society」の到来と24/7キャピタリズムの問題が、総合的に問われることになります。
 世界全体がデスクトップと化し、物たちがIoTによりリアルタイムでコミュニケートし合い、まさしく24時間中、ICTとのインタフェースにおいて営まれるようになったヒトの生。
 20世紀中葉のサイバネティクスから始まった、このメディアの「デジタル転回」に、私たちは、いかなる見通しを持つべきなのか、Hyper Control によるAutomatic Societyへのヒトの生の転位を、いかに理論化(=批判)していくのかが問われることになります。
 Big Dataと呼ばれる巨大なデータの収集とマイニング、解析、管理のテクノロジーが、「理論の終わり」の論争を呼び起こし 、「アルゴリズミによる統治性」が批判されるようになる。フーコーが前世紀に問うた統治性の問題の現在はそこにある。
 A. Rouvroy たちの論文のいう「解放のパースペクティブ」 は、どのようにしたら思考しうるのか、『制御と社会』 でサイバネティクス化していく世界を問い直した北野圭介の仕事や、そしてもちろん『自動化社会 1 労働の終わり』 でこの問題を正面から取り上げたStieglerの仕事を手掛かりに、「解放」のパースペクティブを描くのがこの第四テーブルということになります。

15. 批判理論の復権のために

私自身は、Digital Studiesに今日賭けられているものとは、批判理論の復権であろうと考えています。
 まさしく、デジタル革命による知のdisruptionは、人文社会科学の「破壊」をもたらした。「知のデジタル転回」を思考しえない知は、まさしく「思考停止」して、ショック状態に置かれているのだと思います。
 今日喧伝されている「人文社会科学の危機」の最も核心的な問題が、そこにある。
 そのために、Digital Studiesは、今日最も重要な知の挑戦なのだと考えているのです。


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