2010年5月10日月曜日

『現代思想の教科書:世界を考える知の地平15章』、ちくま学芸文庫、筑摩書房 384頁 2010年5月10日刊



総括と展望: 新しい人文知のために

 
 
 I  20世紀知の問題圏

 まず、私たちが辿ってきたテーマを簡単に振り返ってみましょう。
まず、私は、現代世界における知と世界との関係を「4つのポスト状況」という言い方で特徴づけました。すなわち、1. 私たちの世界は活字メディアによる文明圏が一区切りを迎え、「ポスト・グーテンベルク」状況に突入しているという認識、2.「近代」を作り出していた歴史的経験のプロジェクトが頓挫し、「近代」を支えてきた知と文化の階層秩序が崩れ去り、平準化した「ポスト・モダン」状況という認識、3. 「国民国家」を単位とする世界システムがひとつの終わりを迎え一国的な言語・文化が相対化をうける「ポスト・ナショナル」状況を私たちは生きているという認識、そして、4. 「人間」という認識のユニットが自明でなくなり、「人間」と「テクノロジー」との境界がゆらぐ「ポスト・ヒューマン状況」が一般化しているという認識でした。これら4つの「ポスト状況」の認識ですが、もちろん相互に深く結びついた関係にあり、同じひとつの巨大な問題圏についての四つの見取り図でもあると述べたと思います。
 そのような見取り図をもったうえで、私たちは、過去ほぼ1世紀のあいだに起こってきた知の変容と思想の運動のなかから、言語・記号の問題(2章、3章)、無意識の発見や理性批判の契機(4章)、文化相対主義や多文化現象についての認識パラダイム(5章)、マスカルチャーや消費社会のイメージや欲望の原理(6章、10章)、メディアや情報技術の問題系(9章、10章)、権力や社会の成立原理とその変容(7章、8章)、戦争や国家の変質と政治の原理の変化(11章、13章)、マイノリティや複数化する世界における解放実践のテーマ化(14章)などに焦点を当てて、それぞれの問題系について、重要な提起を行ってきた思想家たちの仕事を紹介し、どのような思想的な問いが問われ、どのような可能性が広がったのかを示してきたつもりです。
 いま各章で紹介した、すべての思想家の仕事を具体的に振り返って位置づける余裕はありませんが、さきほど挙げた「4つのポスト状況」という現代思想の巨大な問題圏との関わりでいえば、およそすべての思想家の仕事が、この見取り図のどこかに位置付き、その問題圏に働きかけ、強い影響を与え、問題の新たな配置を作り出してきたことが分かるはずです。
 例えば、<ソシュール>や<パース>ですと、言語や記号の問題を、「ポスト・グーテンベルク」的な方法によって研究し、現代の知への認識論的な衝撃を生み出したこと。それが、やがて人間の記号や象徴操作の知として「ポスト・ヒューマン」の問題系とも結びつき、また「文化」をモデル化する「構造主義」のような20世紀の文化理解への道を拓くことで、「ポスト・モダン」や「ポスト・ナショナル」という問題系とも響き合っていたことが分かります。
 あるいは、<フロイト>についてなら、西欧的な理性についての文明論的な批判を可能にすることで、「ポスト・モダン」や「ポスト・ナショナル」な思想の動向の源泉ともなりましたし、「無意識」の問いは、大衆社会における「社会的無意識」についての問いかけや「技術的無意識」の問題にまで拡張されて豊かな適用をうけてきたことは周知のとおりです。
 20世紀後半の思想家になりますと、彼ら自身が、「4つのポスト状況」についてそれぞれ明確な認識を持って仕事をしていきますから、かれらの思想がこうした基本的な問題圏の構図を共有し、それに働きかけることになっていきます。
 例えば、<フーコー>は、明確に「ポスト・ヒューマン」についての鋭い認識を持っていましたし、ナショナルな政治原理を「規律社会」研究にもとめると同時に、「生政治」や「生権力」という生命テクノロジーと結びついた「コントロール型社会」における「ポスト・ヒューマン」な権力を鋭く問う視点を準備していました。「理性」への懐疑(=私たちの整理でいう「ポスト・モダン」と響き合う)が彼の仕事の初期からの強いモチーフでしたし、フーコーの「言説理論」は、グーテンベルク圏を超える「アーカイヴ」の一般理論のうえに基礎づけられたものでした。その点で、彼もまた「ポスト・グーテンベルク」状況を自らの問いの出発点とした思想家でもあったといえるのです、
 このように、私たちが見てきた重要な思想家の仕事は、20世紀初めから21世紀初頭にかけての知の問題圏の基本的な構図との関わりにおいて成立し、その構図に働きかけることを自らの問いとしてきたと理解できる。<ソシュール>や<パース>や<フロイト>や<フーコー>という名前は、現代思想の巨大な問題圏をゆび指す<固有名>であるといえるのです。

あらためて、「思想」とは・・・
 さて、そこで、「総括」のための問題提起です。
 これは、本書の冒頭でも提起された問いなのですが、あらためて、いま再び問うてみたい「問い」があります。それは、他でもなく、「思想とは何か」という、単純かつ巨大な問いです。
 「思想」とは、まず端的にいって「考える」ということであり、私たち一人ひとりが世界の基礎付けを自分の思考によって行うことこそ、「思想」の経験であると、私は冒頭で述べていました。
 本書の各章をとおしてテーマを一巡してきて、再び、改めて、「思想とは何か」と問うと、「思想」という経験の内実が少しは具体的に分かってきはしないでしょうか。
 わたしが言いたいのは次のようなことです。 
 「私たち一人ひとりが世界の基礎付けを自分の思考によって行うこと」が「思想」の経験だ、と私は述べていたのですが、これは、つまり、さまざまな知の領域において探究されてきた問題圏を知り、そこにおいて、人間の存在にとって根本的な価値にかかわる問題とはどのようなあり方をしているのかを理解し、ひとり(「自分の思考」)で「世界の基礎付け」を試みる経験だ、と述べてきたわけです。問題圏は多様な拡がりをもち、知の領域は様々だけれども、それを知りながらも、ひとりで「世界を基礎づける」ことができるようになる、というところが重要なポイントだと思います。このような「自分の思考」による「世界の基礎付け」を、ここでは「総合」(英語でいうsynthesis)という言葉で呼ぶことにしましょう。「総合」とは、それまでに定立された複数の命題をまとめあげてひとつの命題に統合して定立することです。
 「考える」ということをとおして、私たちは世界を基礎付ける「総合」を行うことが、ほんとうにできるのでしょうか。できるとすれば、その「総合」を行う能力とはどのようなものなのか、どのような知なのか、そのことが、この「総括」セッションでは問われなければならない、ということになります。

II 「総合知」は、今どのようなかたちをしているのか

 本章を通して行ってきた、「現代思想の地平」のような講義は、まさに、「総合」をおこなう「知」とは、現在ではどのようなかたちをしたものなのか、という問いと直結しています。この問いこそ、この最終章に取り上げ考察すべき中心テーマであると思えてきます。
世界をラディカルに問う
 なぜなら、私たちが本書の各章を通しておこなってきた問題の辿り方は、私たちは、どの知の領域についても、それを「専門領域(ルビ:ディシプリン)」として究めようとしてきたのではなくて、そのいずれの専門家としてではなく、しかし、その領域において問われている人間や世界についての普遍的な問いとはなにか、を手がかりとして問題群を辿ってきたからです。
 もちろん、これは、広く浅く知るというような、ある種の知のアマチュア主義や、悪い意味でのジャーナリスティックな態度を推奨しようなどということではありません。そういう悪しき教養主義とは、まったく正反対の方向をめざしていると、すくなくとも私は考えています。めざされているのはむしろ逆です。私たちの「現代思想」の冒険を動機づけているのは、どこまでラディカルに現代世界を問うことができるのかという「ラディカリズム」の問いだからです。
 私たちの考察は、実に多様な学問分野において提起された問いを扱ってきました。言語学であれ、社会学であれ、メディア論であれ、精神分析であれ、文化研究であれ、それぞれの学問分野で問われた問いの学際的(ルビ:インターディシプリナリー)な連関こそが、むしろ、ここでは導きの糸となり中心的な考察課題になってきました。つまり、「インターディシプリナリーな問い」への照準がここでの一貫した特徴的アプローチであったということになるのです。しかし、すでに述べましたように、それは、あくまでも、「世界の根拠を問う」というラディカルな企てのための方法として、という条件下でのことなのです。

総合知の歴史的位相
 ここで少し、私たちが置かれている知の状況を確認すると同時に、歴史的パースペクティヴのなかに「総合知」の問題を位置づけて考えてみることにしましょう。
 私たちの現代においては、学問の世界においても専門化・細分化が進み、ひとつの分野での個別の研究からは、世界の成り立ちや人間が置かれている条件について一般論的な射程を持つ問いを立てるのが難しいという事情があります。このような世界にあっては、ひとは、たとえ、学者や知識人であったとしても、特殊な領域における専門家ではありえても、一般的な射程をもつ視点を持ちにくいということがあります。
 他方、歴史的に見れば、様々な領域知を総合するポジションを占め、知と世界との全般的な関係づけをおこない、人間にとっての普遍的な価値について問いを立てる役割は、従来、哲学者とか、思想家、あるいはひろく人文学者(ユマニスト 英humanist/仏 humaniste)によって担われていました。哲学 (英Philosophy/仏philosophie)や人文知(英Humanities/仏Humanités)とは、そのような総合的な知の営為であったのです。
 ところが、私が本書をとおして描き出してきた、現代思想の問題圏は、現代世界における哲学や人文知といった「総合知」の可能性について、パラドクシカルな構図を示しています。と言いますのも、本書で「4つのポスト状況」として描き出してきた診断こそ、<知>と<世界>と<人間>との関係をめぐる全般的な問題圏のマップでありながら、まさしく、従来の「人文知」、あるいは「哲学」の失効を診断する見取り図でもあるからです。
 「人文知」とは、ラテン語の「フマニタス(Humanitas)」を語源とする、ルネッサンス以来の知の伝統であり、文献と文化の研究をとおした人間の普遍的価値の探究を意味していました。「哲学」もまたよく知られているようにギリシャ以来の普遍的な価値の追求です。ルネッサンス以後の「近代」を考えれば、「哲学」は「人文知」の核(ルビ:コア)を構成する「知」のエートスと考えてよいでしょう。
 ところが、「人文知」によって基礎づけられる人間文化とは、私たちが描き出した「四つのポスト状況」との関わりでいえば、まさしく終焉を宣告された文化そのものの見取り図とぴったりと重なるものであるのです。
 すなわち、「人文知」は、ルネッサンスにおけるその成立以来、文献の正確で精緻な研究と読解にもとづく知であり、「グーテンベルク期」のコアになる知のことです。良き書物を正確に読み「教養」を高めれば人類の「普遍的な価値」に到達しうるというのが、まさにフマニタスとしての「教養」のあり方の基本です。じっさい、21世紀初頭の私たちでさえ、「古典」を読むことを推奨され、「良き書物」を読み「教養」を身につけることが、宇宙の真理に近づく道であり、人間としての完成に欠かせざる条件であるという「常識」を持ち合わせています。だからこそ、子供たちが本を読まないことを心配したり、若い人たちに「教養」が欠如してきたことを嘆いたりしているわけです。しかし、「ポスト・グーテンベルク」とは、こうした文化の前提条件がもはや自明ではない、という「時代診断」でした。
 「近代」はまた、「理性」の時代でした。「書物」の知を総合しているのは、「理性」であり、書物や活字は「理性」の住処であり、近代の学問は「活字」や「書物」を特権的なメディアとして、学校や大学を社会的な制度として、生まれました。「書物」の「作者( 英author/仏auteur)」になることが「権威(英authority/仏autorité)」であり、百科全書やヘーゲルの体系のように、世界の存在根拠は<知>として「絶対の書物」にまとめ上げられるべきものであったのです。文字の知、書物の知こそが、「上位の知」であり、文字を持たない文化や言語は「下位の文化」であり、「啓蒙 英 (Enlightenment/仏Les Lumières)」という「理性の光」の進行の物語のなかに編入されるべきものとされていたのです。「理性」の統合機能こそが、「知の総合」を可能にしていたのです。ところが、「ポスト・モダン」とは、そのような「近代」および「西欧」の「理性」への懐疑であることは、すでに本書をとおして見た通りです。
 近代における「人文知」は、「国民語」と化した「西欧語」によって担われました。「教養」は、ナショナルな言語で教育され、「古典」はそれぞれの国の「俗語」で書かれており、「国民文化」の形成が「古典的教養」の涵養と同一視され、制度や政治的カテゴリも国民国家単位で整備されました。近代における人文知は「ナショナル」なものと等価であったのです。クレオール化などの「ポスト・ナショナル」状況は、この前提を崩します。そして、普遍的な問いを「ナショナル」な境界を超えて作り出します。モノリンガル(単一言語的)な知が普遍性を持たなくなるという経験は今日いたるところで観察されています。
 「人文知」とは、文字通り、「人間」による「知」であったのですが、「人間」を「知」の中心的な主体とすることが、ますます自明でなくなったのが「ポスト・ヒューマン」状況であると述べました。「人間」が、良き書物を読み、教養を高め、国の言語や文化に精通し、理性を正しく行使するならば、「人間」は、かれの「理性」の力によって、自然や野蛮を支配し、理性的な秩序を打ち立て、世界を統治することができる、というのが、根本的なヒューマニズム(「人間主義」)の原理です。「人間の終焉」をめぐるフーコーの有名な診断に述べられたように、「人間」を知の配置の中心に据えた学の布置は、言語や記号や情報の知、あるいはさまざまな数理テクノロジーによって突き崩され、固有に「人間」によって基礎づけられる価値が浸食されているのが「ポスト・ヒューマン」状況であることはすでに見ました。
 このように「知による世界の総合」を担保していた「知の配置」が崩れた状況をこそ、私たちの「現代思想の地平」は指し示していたのです。

III <来るべきユマニスト>の条件:新しい人文知のために

 世界や人間の条件についての普遍的な問いを忌避し、領域知のなかに閉じこもるのでないかぎり、私たちの世界において、それでは、「総合知」の契機はどのようなところに可能性を見いだすのでしょうか。この問いをめぐる考察を示すことで、本書を通した講義「現代思想の地平」の結びとすることにしましょう。
 「<来るべきユマニスト>の条件」という逆説的表現をつかって、現在の世界における「総合知」の条件を列挙してみましょう。
 「知の大空位期」
 すでに見てきましたように、近代において知をまとめ上げる位置を占めてきた「人文知」の「支配」は現在では否定しがたく揺らいでいます。しかし、それに取って代わる、別の一般知が登場したということはできないのです。現在は、その意味では、「知の大空位期」とでもいうべき状態にあるといえます。
 この空白を埋めうるのが、「人間」の知でありつづけるとすれば、それは、「来るべきフマニタス」あるいは「新しい人文知」とでもいうべきものであろうと私は考えています。「人間」の知でありつづけるとすれば・・・という留保条件を付したのは、「人間」の知ではないタイプの知が、「人間」の代わりに「総合」を行う時代を私たちがすでに生き始めているからです。
 例えばコンピュータを使った数理的処理の技術にもとづく「機械の知」を考えてみましょう。現在では、情報技術を使った知の組織化は進んでおり、人工知能の技術にもとづいた知識創出なども広く研究開発されるようになってきています。それぞれの領域知のなかに「考える人」たちが閉じこめられ、インタフェースはもっぱら「機械の知」が担うという分業が一般化する傾向があるのです。これは現代人の生活においても同様です。それぞれの人びとは私的生活圏のなかに閉じこもり、インタフェースはメディアやコミュニケーションのシステムに頼って、一般性の水準において「世界を問う」努力を厭う世界に私たちはすでに生きています。
 しかし、人間が知の領域間のインタフェースをすべて計算論的理性に任せ、またじっさいの生活において人間の普遍的な価値の問いを問う役割を全面的にメディアに委ねることになれば、人間は自分自身の存在の最も普遍的な拠り所ついての認識の契機を失い、自らの思考と世界の成り立ちとの間に深刻な「技術的無意識」を抱え込むことになります。これは私たちの考察のなかでは、「ポスト・ヒューマン」という用語で描き出した状況です。
 そのように「人間が終わった」今日の世界において、しかし、それでも「人間」の知としての「総合」を試みるという逆説的な営みを現在では私たちは求められているのかもしれないのです。もしそうだとすれば、それは、「人間」の終焉以後、「人間」を<(ポスト)人間>として、知において「作り直す」ことを前提としたものでなければならない。そのような<人間>を思考しうる者を「ポスト・ユマニスト」あるいは<来るべきユマニスト2>といま仮に呼ぶとすれば、その条件とは、次のようなものとなるだろうと私は考えています。
<来るべきユマニスト>の条件
  1. まず、<来るべきユマニスト>は、メディア横断的な知を実践する者でなければならないでしょう。
 すでに述べたように、「人文知(フマニタス)」こそ「グーテンベルクの銀河系」の基礎づけた知であり、文字・活字・書物をメディア基盤とした知の体系こそが近代の文明を生み出したことはよく知られています。他方、私たちが見てきたように、「ポスト・グーテンベルク」状況は、今日の文明がもはや活字を単位としたメディア基盤だけには依拠していないことを表しています。であるとすれば、<来るべきユマニスト>とは、文字と書物の知を依然として基礎とすることに変わりはないとはいえ、他のメディア、他の記号技術のつくりだしてきた「メディアの成層」をも基礎とした知の持ち主でなければならない。彼/彼女は、いわゆるマルチ・メディアの知、横断メディア的な知を実践することができなければならないし、文字以外の「記号」・「情報」を認識の契機に組こんだ知の持ち主でなければならないでしょう。本書を通した私たちの講義の流れからいえば、記号学や記号論、情報学やメディア論が、「拡大された人文知」の主要な部分として組み込まれなければならないのです。
 2. 次いで、<来るべきユマニスト>は、ポスト・モダンな「理性への懐疑」にとどまることはできません。また理性批判のシニシズムに陥るべきではありません。彼/彼女は、ポスト理性の時代の「理性」の復権というパラドクシカルな「理性批判」の実践者でなければならないのです(しかし、おそらく、それこそが、真の意味での「理性批判」でもあるといえます。なぜなら、カントが言うような「批判」とは、「理性」とは何かを知ることであると同時に、その限界を画定することでもあるからです)。
 <来るべきユマニスト>のめざす「理性」は、「知」による統合と統御の限界を知り、「全体化」の不可能性についての認識でなければならないでしょう。それが「ポスト・モダン」という近代的理性への懐疑から得られた教訓だからです。今日、「理性」とは、ヘーゲルにおけるように知の全領域を全体的に体系化するものではなく、むしろ「間(ルビ:あいだ)」(=インター inter)の知、「インタフェースの知」、「横断的な知」として、立て直されることを求められていると考えられるのです。
 「近代的な理性」の批判以後の、この「理性」は、「全体化する」理性ではないが、全体的な「連関」についての「批判的理性」でなければならないでしょう。それは新しいタイプの「総合」を支える批判的理性として、とくに、認識と実践、科学と政治、知と権力といった、社会と知識とのトータルな関係を認識の視野に入れ続けるものでなければならないでしょう。また「普遍的な価値」(「民主主義」や「人間の権利」といった)をつねに「再発明」しつづける根拠でありつづけなければならないでしょう。
  3. <来るべきユマニスト>は、多言語的で多文化的な教養に依拠する能力の持ち主でなければならないでしょう。彼/彼女は、世界のクレオール化の担い手であり、人びとの多様でトランス・ナショナルな「公共性」の組織者でなければならないのです。「マルチ・リンガル」、 「クレオール」、「マルチ・チュード」など、本書で見た世界の文化のネットワークを生み出す概念が、<来るべきユマニスト>のキーワードとなるのです。
 4. <きたるべきユマニスト>は、自然と人工、生命と数理、リアルとヴァーチャル、意味と計算、情報と記号、それぞれの「間」の関係づけを行いうる能力の持ち主でなければならないでしょう。「人間」を「創りうるもの」として「再—認識」する知の担い手であり、人間を創りうる「ポスト・ヒューマンの知」から出発して<人間>を基礎づける「知」の主体でなければならないでしょう。このとき<人間>とは、認識の前提としての出発点ではなく、超越論的な源泉でもなく、むしろ到達点であり、「構成」されるべき「形象」として、再認識されることになるのです。
「考えるネットワーク」としての<人間>
 パスカルに、有名な「考える葦」としての「人間」という喩があります –
「人間とは一本の葦に過ぎない。自然の最も弱いものであるが、しかし、それは考える葦である。それを押し潰すには宇宙全体が武装する必要などなく、一片の蒸気、一粒の水滴さえあればそれを殺すことができる。だが宇宙がかれを押し潰したとしても、人間はかれを殺すものよりも気高いものである。なぜなら人間は自分が死ぬことを知っているのだから。宇宙の人間に対する優位を、宇宙は何も知らないのだ。」。
 宇宙の無限と人間の有限性との存在論的な対比、思考と自己意識にもとづいた人間の定義によって、有名な『パンセ』の一節です。「考える葦(ロゾー・パンサン roseau pensant)」というパスカルの表現を、「考えるネットワーク(レゾー・パンサン réseau pensant)」と言い換え、「<人間>とは考えるネットワーク réseau pensant」である、と表現してみると「ポスト・ヒューマン」時代の<人間>の姿が見えてくるように私には思えます。 
 じっさい「ポスト・ヒューマン」の時代においては、「人間」は、例えば「脳」をモデルにした「ニューラルネットワーク」という「ネットワーク」の比喩で考えられたり、「インターネット」のような情報の宇宙の「ネットワーク」との対比において語られることもしばしばです。そのような生命から宇宙にまでいたる情報の無限の「ネットワーク」のなかでも、自分自身の「有限性」を知っている「考えるネットワーク(ルビ:レゾー・パンサン)」として<人間>を再定義することこそが「ポスト・ヒューマン」の時代には求められているのだと思われてくるのです。
「非統合的な総合知」
 最後に、<知の横断>ということについて述べたいと思います。
 現代における<総合知>は、例えば、近代的な全体知の代表例であるヘーゲルの体系がそうであったように、統合的な総合による世界の基礎付けを行うことはできないのです。現在では知識の宇宙は、現在では宇宙と同じ規模にまで拡大しつつあります。情報化とかヴァーチャル化と呼ばれているのは、そのような知識をベースにした世界の出現のことであって、あらゆる事象がネットワークの中に組み込まれ、相互にコミュニケートしている。万物がそのままアーカイヴになる、そのような知の時代がもはや到来しつつあるのです。ボルヘスの「バベルの図書館」や、ライプニッツの「モナドロジー」の宇宙がそこには拡がっていると考えられます。
 <知>が、総合性、全体性への希求を持つとすれば、それは、文字通りネットワーク型の知、横断型の知を志向する限りにおいてなのです。どのような問いとのインタフェースをつくり、知の諸領域を横断し、どのように世界の問題圏とコミュニケートしていくのか、<知の横断>こそが、「考えるネットワーク」としての<来るべきユマニスト>の戦略であり、<非統合的な総合>が<新しい人文知>の冒険の軌跡となるのです。