2010年3月1日月曜日

ベルナール・スティグレール「二〇世紀型「消費主義」が終わった:象徴的貧困と資本主義の危機」(聞き手、解説 訳 石田英敬)、『世界』、岩波書店、No.802, 2010年3月号, pp. 178-185

「象徴的貧困」と「資本主義の危機」

  
ベルナール・スティグレール
石田英敬(インタビュー・訳・解説)

Ⅰ 二十世紀型資本主義の終焉
石田 二〇〇八年のいわゆる「世界金融危機」をどう見るかからまずお聞きしましょう。

スティグレール 20078月にサブプライム問題が拡がったとき、これはそもそも「金融危機」ではない、もっと飛躍的に重大な危機であると私は述べたのでした。当時、これは一時的なもので、技術的な問題である、金融のシステミックな危機である、などいろいろなことが言われましたね。われわれの立場は、それとは対極で、この金融危機は引き金に過ぎないとい見方でじっさい不幸にもそのとおりになった。とくに20088月以後、リーマン・ブラザーズの破綻以後、世界中の証券取引市場の大暴落となった。
 とりわけ、注目したいのは、二十世紀の資本主義の歴史的な銘柄が軒並み大暴落したことです。私たちが「炭素エネルギーの時代」と呼ぶ、炭化水素をエネルギー源とし、内燃機関の発明による自動車を基幹産業として、高速道などの道路網の整備と国土開発が組み合わさり、さらにそれらが文化産業による消費生活の振興と一体となった「二十世紀型資本主義」の時代が終わったということなのです。じっさい、それは1908年ヘンリー・フォードがフレデリック・テイラーの経営理論を具体的に実行に移したことに始まる「フォーディズム」的生産による工業品の大量生産と、「万人が消費者になるべきだ」という考えにもとづいてハリウッド映画やラジオ、レコードの文化産業をとおした「アメリカ式生活」によって消費を拡大しつづけるという産業的組織化モデルの終わりを示しているのです。
 19世紀の資本主義は、プロレタリア化した生産者が一方におり、ブルジョワジーが産業的機械化とプロレタリアによる労働から利潤をえるというモデルで成り立っていた。マルクスが資本主義の崩壊を予言していたのも、こうした産業モデルでは、市場は飽和化へといたると考えたからでした。「利潤率の傾向的低下の法則」とマルクスが呼んだ問題です。しかし、ヘンリー・フォードは、このマルクス主義による「資本主義の終焉」に対する回答であったのです。「消費」を生み出すことによって、資本主義を発達させるという20世紀初頭におけるひとつの「新しい資本主義」の発明であったのです。
20世紀をとおして、ヨーロッパにも、日本にも、このアメリカ発の産業モデルが輸出されとくに第二次世界大戦後の世界で大きく開花しました。ヨーロッパでは「繁栄の30年間」と呼ばれ、日本では「高度成長期」と呼ばれた。そして巨大な消費社会が生み出されました。

Ⅱ「リビドー経済」と「マーケティング」
石田 その「消費社会」の終わりの兆候が現在いたるところに観測されています。これは単に不景気だから人びとが「消費しない・消費できない」というのではなくて、消費と欲望との関係の成立条件自体がもはや自明でないという時代に入ったということではないのでしょうか。

スティグレール そうなのです。消費が生み出されつづけるためには、「絶えざるイノベーション」が必要です。それがヨーゼフ・シュンペーターのいう「創造的破壊」です。これは経済が「使い捨て性」に基づくということです。「くず」を作ることによって「消費」をつねに次々と生み出していく。例えば 、今年モバイル端末Blackberryを買った人が、次の年には、もうそれは旧いからとi-Phoneを買わなければと思うように、次々に「時代遅れ」をつくり出していく。さらにそれが個人の行動を変化させることと結びついている。個人の行動様式をつくりだしていた古典的な枠組み、つまり家族だとか、宗教とかその他の精神的な組織、学校やそれ以外の国家の組織、あるいは政治的行動モデルから、20世紀を通じて人々の象徴生活が切り離されていった。その変化をつくり出したのはマーケティングの力で、マーケティングが、次第に人々の生活を成り立たせているあらゆる「象徴の生産」をショートカットしていく。人々の生の様式を生み出すこと、それをフーコーは「生政治」と呼んでいたのですが、それがマーケティングの力に移管されるようになった。そして、なぜなら、象徴生産の「制度」(ピエール・ルジャンドルの意味で)は、人々の心的生活の枠組みを生み出していたものですが、フロイトの用語でいう「リビドー経済」を成り立たせているものであったのです。
 フロイトの1920年の理論では、「リビドー経済」とは、性的なものであろうと、攻撃的であろうと、本質的に自己中心的で反社会的傾向をもつ生物学的な欲動を、人間的な意味をもつ生のエネルギーに変換することで成り立つとされるものです。「リビドー」とはフロイトの意味では「欲動」を「変換」して「社会的備給(投資)」に変えることで生まれるのです。「欲動」が本来的に自己中心的なものであるのに対して、「欲望」はそれを他者志向的な傾向へと変化させることで成りたつものです。それは必ずしも「博愛的」というわけではないのですが、「構造的に社会に向けられている」という意味です。「他者が必要かつ還元し得ないものであることを条件に成立するのが「欲望」であり、「リビドー経済」なのです。この原理は、シャーマンであろうとアニミズムであろうと、あらゆる人間社会の基礎にあると私は考えるのですが、こうした「リビドー経済」のない社会はない。ただ唯一の例外が、現代社会なのです。現代社会は、ある意味、リビドー経済の破壊のうえに成り立っているとさえいえる。欲動をリビドーのエネルギーに変換するためには、フロイトが 家族構造と呼んだものを初めとしてじつにいろいろな文化の枠組が必要である。そうした構造は、例えば日本ではアメリカとは違うとか、そうした文化や社会にしたがって差はあるのですが、そうした、象徴制度が、マーケティングによってなし崩しにされ、映画やテレビ、ゲームやアニメ、ネットなどの文化産業によってショートカットされてしまうようになった。

Ⅲ「象徴的貧困」と「投機資本主義」
石田 あなたのいう「象徴的貧困」は、文化産業の支配やマーケティング技術の行き着いた先に起こる人々の「生きうる象徴環境」の破壊ということですね。

スティグレール その通りです。文化産業によるリビドーの捕捉は、そもそもハリウッド映画産業の成立とともに発達したフォーディズムの条件であったのです。つまり大衆のリビドーを伝統的な象徴制度からそらせて、消費生活のなかに呼び込むことによって、大量生産と大衆消費の資本主義が成り立ったわけです。例えば、子供から親へのリビドーの流れ、家族的共同体や学校を通した文化の形成へと流れていたリビドーと昇華の回路を、大衆メディアが媒介する消費の生活へと転移する必要があったわけです。しかし、次第にそれが加速していくようになると、リビドーを生み出す装置自体の破壊へと向かうようになった。学校のような社会的な教育機関を精算し、家族を精算しという具合に、象徴制度をつくっていた文化の構造を根絶やしにすることになった。それが全面的な「象徴破壊」を招いた。それこそが私が「象徴的貧困」と呼んだものなのです。
 レーガン、サッチャーの「保守革命」以後、市場にすべてを任せればよい、象徴の制度を根絶やしにしようという圧力は増大してゆきました。情報革命やグローバル規模でのメディア統合はそれを加速させたのです。
 「企業家」の消滅
 そして、その結果こそ、2008年に人々が目にしたことです。幾つもの理由からそうなのです。第一に、資本主義は、シュンペーターがいう永続的イノベーションを第一とするもので、物をつねにより速いサイクルで時代遅れにすることで成長してきた。そのためには、たえずつねに、人々の行動をそれまでよりも速く変化させる必要があった。第二に、資本主義はいつもますます「短期的視野」にたつものになった。とくに1970年代以降、資本主義は、とくにアメリカの「保守革命」、つまりレーガン、サッチャー以後、そのドグマとは、社会の産業生産を組織するのに国家はもはや必要ない、マーケティングがじかにそれを組織するのがよい、国家は解決ではなくいまや問題であると、レーガン、サッチャーは言ったわけですが、産業生産の組織化は、マーケティングをとおして市場に100パーセント任せておけばよいとなったわけです。それこそが破局的なその結果を生んだのです。
 とつぜん人々は気づくことになった。例えば、資本家は今日では、「投資家」ではなく「投機家」となってしまった。「投資の資本主義」はもはや実質的に成立しなくなっている。資本主義がひとたびマーケティングに領導されるようになったとき、その戦略的マーケッティングは「企業家」によって行われるのではなく、株主によって雇われた「マネージャー」によって行われるようになるのです。「企業家」とはマックス・ウェーバーが1905年に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いていた、またシュンペーターが1912年に『経済発展の理論』でまだヘンリー・フォードをモデルとして描いていた存在だったのですが、レーガンの保守革命とともに「企業家」の人物像が破壊されてしまった。「企業家」とは「長期的視野」でものを考える人間であるのに対して、「投機家」とは「長期的視野」を一顧だにせず「短期的視野」でのみ物を考える輩である。例えば、ヘンリー・フォードは長期的タームでものを考える人でした。その当否はともかくとして、彼にはアメリカについての、単に社会的だけでなく技術的にも長期的な変革のビジョンを持ち合わせていました。
 しかし、保守革命以後、資本主義の時間性の組織は、「ウルトラ短期主義」になった。「投機家」に依拠するようになり、金融資本主義が生産による資本主義から全面的に自律化したものとなったのです。
 産業活動の基礎は時間なのですが、資金が短い期間で回収できないとなるとすぐに資金を引き上げて、別にうつす。「海賊」のように、土地にやってきてあるものを略奪し、女子供をさらい男は殺ししつくして何もなくなると別のところに去っていく。同じように今日資本主義は破壊者になり、投資家は投機家と化してしまったのです。

Ⅳ 中産階級の消滅と中毒化社会
石田 日本では高度成長期には「一億総中流社会」などと言われ、中産階級の国ということがさかんに言われたのですが、あなたのいう「保守革命」、日本でいう「ネオリベラリズム」の支配以後、「不平等社会」の進行があります。他方、精神的な荒廃と様々な「中毒現象」が社会問題化してきている。

スティグレール 消費者サイドも企業家と同じだからです。消費者とはますます構造的に「無責任」な存在にされていくのです。マーケティングによって、消費者とはいかなる責任感もないものと化すのです。じっさい責任の感覚があるとすれば、こんなに消費するのは危険だとあるとき思うはずでしょう。自分にとって危険であると同時に将来の環境にとっても危険だと判断するはずです。そしてそれ以上もはや消費しようとはしないはずです。 
 しかし10年ほど前から、アメリカでとくにそういう出版が盛んですが、マーケッティングは、大人の「幼児化」を全面化したという研究が発表されています。アメリカでは「幼児化 (kinderisation)」と呼ばれている現象が広がっています。アメリカから始まって世界中に広がっています。子供たちがいまでは人びとの行動様式を決める決定者の役割を果たすようになってしまった。子供をとおして大人に行動を指図するという状態になっているのです。マーケティング・モデルとはこうした社会のベクトル化の役割を果たしているのです。
 危機の現象の第三の特徴は、ドナルド・レーガンによる保守革命と同時に、東側陣営の崩壊が起こり企業は給与生活者を搾取することになんの躊躇いもなくなった。すべての人びとを競争させてもいい、アメリカ、アジア、ヨーロッパ、アフリカというすべての大陸を競争させていいとなった。結果として、世界中で全体的な貧困化が引き起こされ、世界中で中産階級の貧困化が広がった。かつて「中産階級」と呼ばれていた人々はもはや中産階級でなくなってしまったのです。

石田 日本でもそうですね。

そうですね、ヨーロッパでもそうです。世界中同じだと思います。フランスでも、イギリスでも、住民の貧困化が進んでいます。サラリーと生活費との関係がとても貧しいものになっている。サブプライム問題はその結果です。「消費主義」の行き着く先なのです。「消費主義」は、中産階級を厚く生み出すのでなければやっていけないものでした。ところがレーガニズムは、イノベーションと社会との調整を行うのは市場のみであるとしたので、各国でなにもかもが競争という状況を生み、その結果が、「債権の証券化」の発明にまでいたったのです。アメリカではアパートを40年の返済で買うことができる。しかし、まず人々はそれを支払うことはできないという意味で返済不能であると同時に、40年たてば何の値打ちもない安普請であるという意味でも救済不能です。返済不能を隠す数学的システムが導入され、「サブプライム」で「偽の長期」を作り出すことが行われたのです。
 他方で、短期的視野がますます支配的になり、エネルギー資源に対する投機で、「石油危機」がサブプライム危機の直前に起こりました。1バリル150ドルに達していました。これはシステム的な問題でしたが、単に、金融システムの問題ではなく、すべての資本主義の全システムの問題だったのです。消費型資本主義のシステムが文字通り崩壊したのです。
「消費中毒社会」と「精神のエコロジー」
 危機の、もう一つの側面は、この金融資本主義の有害性がとつぜん露わになったということです。CO2の環境破壊問題の浮上のように、産業モデルの限界が明白になった。コペンハーゲンのCOP15は大変不幸にも失敗に終わりましたが、大変深刻な事態です。ネオリベラリズムのイデオロギーが隠して金融資本主義の偽りが突如明らかになることで、一種のショック状態に陥り巨大なモラル低下に見舞われているともいえる。
 しかし、単にモラル(志気)の低下だけでなく、イモラル(不道徳的)といってもよい、嘘つきでマフィア的、横領や窃盗と同じような資本主義のあり方の不道徳性が明らかになったともいえます。
 また、とくに若者たちがマーケティングの標的にされ、精神的な危険にさらされている。アメリカでは15パーセントの子供たちが「注意力不全症候群」に見舞われているといわれる。フランスでは15パーセントの成人が肥満症を抱えていて第一の成人病理といわれています。もちろんそれは心理的な問題と関係している。消費の「中毒症」もあるわけです。
 ですから、「精神のエコロジー」を前面に掲げる必要を私は説いています。じっさい2008年の危機のポジティブな結果とは、「産業モデルの転換」ということだと思われる。今日、サルコジ仏大統領でさえ消費主義モデルは終わったと認めている。「消費のなかの居心地の悪さ」については、あらゆるひとがそれをみとめている。あるいは、他方で、景気回復、景気刺激などが唱えられ、グリーン・ニューディール、環境の経済などもさかんにとなえられている。それは私もよいことだとは思います。私もそれには賛成です。
 ただ、私は、いまの優先課題は「教育」だと考えています。そして「生活」です。再生可能エネルギー、環境に有害でない新素材、そうしたものを開発する計画が必要なことは論をまたない。しかし、そうしたプログラムを実行に移すためにも、新しい「生の様式」、新しい「生き方」を作り出すことこそが必要です。
 とくに、「欲求不満(フラストレーション)」に依存することのない「生の様式」を発明することです。1970年以降の「栄光の30年間」以後とくに支配的になった消費社会の生活は、「欲求不満」の消費主義でした。そして、それは「中毒的消費」と呼ばれるような消費をも引き起こすようになった。フランスでは「中毒化社会」が語られています。消費する必要もないのに消費する、消費する必要はないと分かっていても消費する以外に何もないので消費をやめられないという中毒状態です。「消費」依存症になっている、ヘロインやコカインや合成薬物の中毒患者と同じです。そうした中毒から回復するためには、「解毒治療」が必要です。世界的規模で焦眉の課題となっています。「精神の解毒治療」の問題を立てないかぎり、私たちはこうした問題から脱することができないのです。それは、「象徴制度」を再構築することによってしか可能にならない。「教育の計画」をやり直すこと、「政治の計画」を再建すること、「文明の大言説」を復興することが必要なのです。それを現在の政治家、経済人たちはまだ見ようとしていない。また人文科学にとっての課題とはまさにこれです。哲学とか文学とか以前には人文知と呼ばれていたものの再定義とはそれです。

Ⅴ「新しい産業モデル」と「寄与の経済」
石田 では、こうした資本主義の歴史的危機に対してどのような処方箋を考えるべきでしょうか。どのような新しい産業モデルを発明できるという希望があるでしょうか。

スティグレール 私の考えでは新しいテクノロジー基盤と情報コミュニケーション環境のうえに「象徴制度」のかたちを作らなければならないのです。それはかならずしも「公的な」と呼ばれる象徴制度ではないかもしれないのですが、私たちのArs Industrialisではそれを可能にする新しい産業モデルを構想しようとしている。 その象徴制度は、経済的アクターともなりうるのです。ヨーロッパの紀元1000年頃には大規模の象徴制度のイノベーションを引き起こしたのはシトー派修道会でした。私は宗教の回帰には否定的ですが、精神的なものの回帰の可能性は信じている。しかしまずそれは象徴制度であると同時に経済的な制度だったのです。シトー修道院は新しい経済を発明したのです。修道院は、例えば水車のシステムを発明し修道僧たちは当時の企業家であったのです。16世紀以降のブルジョワジーのように自分の富のためではなく、キリスト教の世界で言う貧しい人びとのための新しい事業、精神生活を発達させるための技術的産業的モデルの発明であったのです。
 その後、1213世紀のブルジョワが、そのやり方を回収し、ルネッサンス以前の「経済ルネッサンス」である13世紀の繁栄の時代を生み出した。修道僧の役割は技術面でとても重要なものであったのです。
  私たちは現在「寄与の経済」というものについて集中的に考えているところです。「寄与の経済」とはまず「リビドー経済」を生み出すものです。ウィキペディアが代表例ですが、ウィキは非常に大きな価値を生み出している。だれもがウィキを使っている。人びとに時間を稼がせその活動を活性化させ、したがって経済的価値を産みだしています。たとえば50ユーロ支払う必要があるとなれば誰でもが喜んで払うでしょう。しかし、ウィキの原理は、課金をしないというものです。それは、「贈与の経済」、「時間の贈与」からまず成り立っている。しかも純粋な悦び、寄与することの悦びの原理でなりたっているのです。それは「社会性」の価値の再評価でもあります。フロイトにおいて、それは「昇華」と呼ばれる原理です。キリスト教では「神への愛」と呼ばれているものです。アマルティア・センがいう「潜在能力(capability)」アプローチも、私たちの考えではやはり「リビドー経済」に関わっている。センは、「脱プロレタリア化」を目ざしてもいる。消費の資本主義は、全面的なプロレタリア化であるのです。なぜなら人々は「作り方の知」そして「生き方の知」をも喪失していく。ところがセンが主張するのは、人びとに作り方の知、生き方の知を再び与えるべきということなのです。
 人びとの新しい働き方、例えば、ウィキのような「寄与」のテクノロジーを発展させ、ソーシャル・ネットワークなどの技術を上手に発達させ、社会性の技術基盤を革新して、例えば「スマートグリッド」のように環境と社会性と情報基盤の整備とを結びつけることで、新しい「寄与の経済」を生み出すことで初めて新しい資本主義の姿が見えてくるはずなのです。

解説
 現代フランスを代表する哲学者ベルナール・スティグレールが展開してきた「象徴的貧困」論については、すでに本誌でも二度インタビューが行われてきた(「象徴的貧困というポピュリズムの土壌」、『世界』、No.752, 20065月号、および、「批評の危機という象徴的貧困」、『世界』、No.773, 20081月号)。昨年一二月に東大情報学環で開催された国際シンポジウムのために来日した機会に、二〇〇八年の「世界金融危機」を踏まえて、今回「資本主義の現在」をめぐって話を聞くことにした。スティグレールのいう「象徴的貧困」とは、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった世界の悲惨を指す言葉である。現在の産業社会の行き詰まり、投機資本主義のもたらした惨禍、「消費の終わり」の兆候、日本でもあらゆる階層に拡がりつつある様々な「中毒」現象、「不平等社会」・・・こうした一連の産業的、文化的、精神的な、「全面的な危機」をどう捉えたらいいのか、その問いに答えるのが現在の私たちの思想の課題である。スティグレールは五年ほど前からARS INDUSTRIALISという任意団体を立ち上げて、哲学者、経済学者、文化人、産業家たちと、資本主義の産業モデルの改革を掲げて運動を実践している。現代の哲学者たちが「経済」について語らないのはおかしなことだ、と日頃語ってきた彼のことだから、二〇〇八年以後は、経済学批判を旺盛に展開しつつあり、二〇〇九年初頭には冊子『新政治経済学批判のために』(ガリレー社、未邦訳)、さらにARS INDUSRIALの論集『成長不全と決別するために』(フラマリヨン社、未邦訳)などを刊行して、「寄与の経済」にもとづく資本主義のための新しい産業モデルを提唱している。本インタビューでも、「欲望の経済」を含めた「一般経済学」が、スティグレールの大きな見取り図をかたちづくっていることが分かるはずである。



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