2008年6月1日日曜日

「公共空間の再定義のために(1)二〇〇八年の政治メディア状況」、『世界』、岩波書店、No.779, 2008年6月号, pp. 71-80

公共空間の再定義のために(1)

二〇〇八年の政治メディア状況

  

 「政治」が見えない

 「いま政治が見えない」と感じている人は多いのではなかろうか。
 ついこのあいだまでは政治は -- 少なくともそのある部分に関して -- 良くも悪しくもメディアに露出していた。そのスペクタクルのこれ見よがしの演出は視界の向こう側へ滑るように消えていき、私たちの眼差しはいま幕のようなものに曖昧に遮られている。内閣の劇の突然の中断、そして議会の劇も「ねじれ国会」などと中途半端な命名をうけて宙づりにされ打ち捨てられているかのようだ。党首討論を見ても楽屋裏の罵り合いにちかい。政治の論理が起動しない。私たちが目にしているのは、政治空間の宙づり状態である。
 私たちの前には、政治の構図の全体的な崩れがある。(1) ネオリベラリズムや新保守主義やナショナリズムのあからさまな言説が、行き詰まり、口ごもり、言説場自体が吃音しているかのような「イデオロギーの終焉」状況がある。(2) 世界各国で政治のアクションを主導していた「改革」のナラティヴの途切れがある。(3) 登場人物の不在とあからさまな役者不足がある。テレビ画面を通り過ぎていくのは、ときにおどおどとしときに苛立ち、いずれにしてもカメラの中に入ることには逃げ腰のフクダという人物であったり、シャイというよりは横柄、ポーカーフェイスというよりは仏頂面のオザワという人物であったり、いずれにせよ”後ろ姿”としての人物たちである。(4) 事実連鎖の「筋」が見えない。安倍内閣時の自殺やスキャンダル、決して解明されたことのない首相の突然の辞職、防衛省疑惑、その後の「大連立」協議の経緯、などなど、数々の出来事が未解明のまま置き去りにされてきた。
 近い過去の構図が一瞬のうちに崩れ、政治のキャンバスがぐちゃぐちゃの状態なのである。じっさい私たちのいったい誰が、日本の一年後の政治の姿を正確に予想できるだろうか。
 新聞記事は切れ切れの筋書きを点描している。テレビカメラは、アングルを決めかね、テレジェニックな登場人物を探しているふしもある。誰も新しい構図を描けない、曖昧な政治の空白に私たちは対面しているわけだ。
 だが、ここで手をこまねいているのはとても危険である。予想できない出来事が触媒となれば、一挙に禍々しい構図が立ち上がるいやな気配もある。ナショナルな政治表象とは別の位相を泳いでいる「そのまんま」や「橋下」のような人物たちの点在を見よ。そうした”顔”は、現在では孤立したよくわからない”歪んだ染み”の姿をして私たちの視界の片隅に位置しているが、フォーカスを絞りこんである角度から眺めれば、アナモルフォーズの技法で描かれたグロテスクな顔のように、新しいポピュリズムの光景がそこから浮かび上がるかもしれないのだ。
 私たちにとっていま必要なことは、この政治が見えない状況そのものを見すえることである。いま目の前にある空白の政治空間そのものを描き出して考えてみるべきなのだ。そして、どうしたらもっとよく政治が見えるようになるのか、どうしたらメディアはまっとうな認知マップのなかに政治を呼び込むことができるのか、と問うことだ。それが、本稿にいう、「公共空間の再定義」に向かうことである。
 これから述べるのは、いま私たちの「メディアの鏡」をとおして世界を覗くと、「政治の問題」がどのような姿をして映っているのかについて、あくまで状況論的な一考察である。
 「公共空間」とは、ここでは、ごく単純に、メディアを通して「公共の事がら(=政治)」を議論するための報道と言論による媒介空間のことであると述べておこう。三回の分載となるが、(1) 私たちが政治を考えるうえでの公共空間の現況をマクロにマッピングするのが今回、(2) 日本の現在の状況に引きつけて論ずるのが次回、(3) そして、規範論的な観点から「公共空間」の再定義について見通しを述べるのが第三回、だいたいそのような構成を予定している。

Ⅰ 過渡期の政治状況

 
 政治が見えないというわりには確実に見えていることがある。それは現在がまさしく政治の「過渡期」であるという事実だ。 ヘーゲルのミネルヴァの梟ではないが、 一つの時代が終わろうとするとき、それまでの世界の成り行きはむしろよく見える。そこから考え始めることがおそらく重要だ。
 冷戦の終結とともに立ち上がり1990年代から現在までおよそ20年間続いてきた世界秩序 -- それがグローバル化の秩序である -- が確実に一つの区切りを迎え、次の段階に向かっているとみるべきだ。四つの兆候からそう思われる。

 ()戦争秩序の破綻。

 湾岸戦争からボスニア・コソボの旧ユーゴスラビア紛争へ、そして、9.11の同時テロ事件をへて、アフガン・イラク戦争へと進んできた -- 今回来日が実現できなかった哲学者アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる大著『〈帝国〉』(2000)以来、様々なかたちで議論されてきた -- 〈帝国〉の秩序の破綻が露わになった。多国籍軍による「警察行動」(湾岸戦争)、「介入の権利」にもとづくNATO軍による「人道的な空爆」(バルカン紛争)、そして、イラク侵攻にいたる国連決議をめぐる延々たる国際論議、「正戦」の主張、冷戦終結後の一連の出来事は、国民国家を超えた〈帝国〉の主権秩序の確立に向かうプロセスを描き出していた(私たちの国では、この「主権秩序」問題は、「国際貢献」や「憲法九条」問題として議論され、本誌に掲載された小沢論文にまで及んでいる)。しかし、いま私たちの前にあるのは、戦争状態の出口なき泥沼化である。〈帝国〉の主権秩序の「大空位」がもたらされ、ボルヘスの短編小説のように〈帝国〉の地図は切れ切れの断片となって アフガンとイラクの「現実界の砂漠」 に舞っている。むろん、それは平和を意味しない。

() 生政治の破綻。

 世界中あらゆる階層の人々に市場原理への懐疑が拡がってきた。現在すでに広く共有されている認識は、ネオリベラルな「統治」の破綻である。人々を「生かし」、人口の「生」を再生産し管理・統治する、ミシェル・フーコーのいう「生権力・生政治」の現代的あり方が作動しなくなる。人口の高齢化や医療危機の現状は、まさにそれを示している。「社会国家」を形作ってきた各国で福祉国家の解体が進み、人々が上昇するリスクの前に立たされる。 第一世界のなかにある第三世界、メビウスの帯のように連続した社会の富裕化と貧困化のプロセス。「新しい貧困」の発達と人口のプレカリアート化(フリーター、パートタイマー、日雇いなど、不安定な就労形態の増大)、ネオリベラルな「改革」が、行き着いた世界の悲惨である。私たちの国では、官僚国家への不信と、市場原理への懐疑が同時にすすんで出口なしの状態にちかづいている。

() 表象による統治の破綻。

 各国の政府が依拠していたメディアを通した「表象の政治」が機能しなくなってきた。資本の流れと情報の流れのなかに身をおくことで、「ガヴァナンス」を演じてみせる「統治型権力」が、この間、各国の長期政権を特徴づけてきた。こうした、資本の流れの制御(「規制緩和」、「自由化」、「競争原理」の導入という「改革」の実行)、情報の流れの制御(メディア・コントロール)、統治表象の演出(「指導力」の発揮)という政治的合力の形成が難しくなった。
 同時に、「自由化」を補完する「ナショナリズム」のベクトルも担保しにくい状況も生まれつつあるように見える。「小さな政府か大きな政府」か、「改革か抵抗」か、「自由化か規制」か、といった分かりやすい二者択一を、政治が描けなくなってきた。「テレビ国家」の表象政治を成立させていた情報秩序に変化が生まれつつある。

() 主体性の危機

 情報通信テクノロジーはますます人々の生活世界を包囲するようになり、時間の断片化、コミュニケーションの非場所化、文化産品による人々の意識の消費者化が侵攻している。こうした一連のプロセスがもたらす寄る辺なさの感覚、「象徴的貧困」が露呈しつつある。
 社会のなかに自己の像の表象がない、場所がない人々が増えてきているのではないのか。 現在のようなコミュニケーションの分棲(クラスター)化がさらに進むとマスメディアが成立しなくなる。 それほどまでに「公共空間」の解体が進み、社会のなかに自己の表象を持たない人々の発生である。最近のテレビや広告を見ていると、必死に平均的大衆を探し求めていることが分かる。
 以上の(1)から(4)の論点は、もちろん相互に結びついている。政治、経済、市民社会、公共空間、生活世界、という、社会領域の分節化が綻び、うまく巡らなくなってきているのではないか。世界化のサイクルが一巡りし、別の回転を始めているのではないのか。
世界の別の回転
 じっさい、今年は、世界的な規模でこの別の回転が進行しつつある。
 予備選が行われつつあるアメリカ大統領選挙は、まさしく〈帝国〉の世界秩序の新たな政体構成をうみだすプロセスそのものであるように見える。アメリカでは06年の中間選挙以来ブッシュ政権のレイムダック化が進み、イラク戦争からの撤退、経済のリセッション、格差の拡大と新しい貧困(国民皆保険問題など)、ネオコン秩序からの転換が政治的テーマとなっている。女性やマイノリティがキャスティングボートを握る、ネグリ・ハートのいう「マルチチュード」の代理表象ともいうべき「オバマ現象」は、空前の広告費用を投じた究極のスペクタクル政治として繰り広げられている。
 九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけて先進各国に成立した長期政権がここに来ていっせいに退場した。イギリスのブレア労働党政権、イタリアのベルルスコーニ政権、日本の小泉政権などである。だがどの国もその後を描ききれていない。ブレアから政権を受け継いだイギリスのブラウン政権、ベルルスコーニに取って代わったが短命に終わったプロティ政権のイタリア、遅れてきたネオリベラリズムのフランスのサルコジ政権、そして日本と、各国とも立ち止まりや揺り戻し、足踏みの状態だが、これこそまさに世界同時的に経験されている「過渡期」である。
 アメリカに主導された世界秩序、各国で共通したネオリベラリズム型の統治、共通フォーマットのメディア政治、こうした世界システムがいっせいに問い直され、政治の構成そのものが組み替えられる時期に私たちは今差しかかっているのである。

笑劇の反復

 過渡期には「反復」がつきものだ。マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』ではないが、「時代(ルビ:エポック)」が更新されるときには、「二度目」の出来事や人物たちが「笑劇」とともにやってくる。じっさい、今日私たちは、まるで一九九〇年以降の近い過去が巻き戻されているかのような光景を目の当たりにしている。
 アメリカ大統領選挙におけるクリントン1(ビル)とクリントン2(ヒラリー)の反復。日本の二度目の政権交代前夜における小沢1と小沢2の反復。プロディ1とプロディ2、ベルルスコーニ1・2とベルルスコーニ3。一回目ではあっても、フランスのネオリベ化の歴史的遅れを取りもどすかのように、既視感にみちたメディア露出により離婚したり結婚したりを繰り返し“自己反復”を重ねるフランスの新大統領サルコジ・・・といった具合に登場人物の反復にも事欠かない。
 とくに日本の現状にはそれが顕著である。冷戦終結、湾岸戦争、バブルの崩壊、細川政権、「政治改革」、金融危機、「失われた十年」、「構造改革」、・・・ 五五年体制崩壊以降のこうしたすべての問題系が呼び戻され、「自民党政権の終焉」が再び繰り返されようとしている。この国が、政治を新たにリセットするためには、過去二十年の「時代」を反復することによってしか次の段階へと移ることができないのかもしれない。
 じっさい、フクダ自民党は九三年の自民党支配の終わりと延命を反復しているし、オザワ民主党は「政権交代」と「政界再編」を反復している。フクダと「オザワ」の「自社さ政権」を裏返しにしたような密室「大連立」劇は、ルイ・ボナパルト的なクーデタの笑劇さえ思わせる。その後、党首間ののしりあいや愁訴劇に終わったのもまさしく笑劇だ。そして、総選挙後の「政界再編」がまことしやかに口の端に上っている。政局とは幾分かはつねに芝居ではあるだろう。だが、それが真の変化を卵のうちに殺す茶番であってよいはずはない。
 他方、メディアの方も、過去の公共空間の配置を惰性的に受け継ぎ、受動的に反復してよいわけはない。いま政治を見極めるためには、何が違うのか、どのようにちがった場面を政治が生き始めているのか、メディアはどのようなシフトをひき、どのようなアジェンダの配置のなかに政治を呼び込むべきなのかをはっきりさせるべきである。

Ⅱ  公共空間の転換期

 グローバル化とは何よりも情報〈の/による〉世界化だったはずである。「グローバル経済とはリアルタイムで地球規模でひとつの経済として機能しうる経済」であり、「世界経済が情報コミュニケーション技術という新たなインフラストラクチャーによって真の意味でグローバルになったのは 二十世紀末をまって」 (Manuel Castells The Network Society) である。冷戦終結を起点にして現在にいたるまで形成されてきた情報の世界秩序もいま転換期を迎えている。

 世界市場化と画一化

 冷戦終結を境に、情報の流れはリアルタイムで世界を結ぶ情報通信技術の発達とともに急速にグローバル化した。衛星回線の開放、通信ネットワークの民営化、軍事技術だったインターネットの開放、情報端末機器の急速な発達、多チャンネル化により、世界に流通する情報は爆発的に増大した。
 しかし、流通のグローバル化は、決して情報の多様化や取材源の拡大、発信者の多元化を意味しなかった。むしろ逆である。情報のグローバル化とは、情報の流れの回路の世界的一元化であり、情報マーケットの世界化と、情報内容の画一化、均質化である。
 世界のニュースの流れに最も大きな変化を経験したのは、影響力の最も大きなメディアとしてのテレビである。いうまでもなく映像の影響力は言語を超えて、国際世論を生み出す力が強い。
 よく知られたことだが、グローバルなテレビニュースのあり方を大きく変えたのはCNNの湾岸戦争報道だった。二四時間の地球ニュースは、湾岸戦争を最初の「リアルタイム戦争」と化した。爾来、BBCWorldFoxNewsAl-Jazeeraなどの「グローバル・メディア」の時代が到来し、世界の出来事の解釈と意味づけのヘゲモニーを握ってきている。CNNの湾岸戦争、Al-JazeeraFoxNewsのアフガン・イラク戦争という具合に、グローバルメディアをとおして、〈帝国〉の世界秩序は書かれてきたのである。だから、メディア・コントロールは、現代世界においてもっとも重要なヘゲモニー戦略である(石田・西谷ら『アルジャジーラとメディアの壁』参照)。
 伊藤守(『テレビニュースの社会学』参照)は、国際ニュースの世界的な配信の体制について、ニュースエージェント、メディア資本、テレビ局という三つのレベルから説明している。世界でのニュース配信についていえば、ロイター、APAFPの国際通信社三社に事実上コントロールされ、第一次情報が供給されている。これを「ビッグ・ファイヴ」と呼ばれる世界の主要メディア資本が、各国の新聞、テレビ、ネットに配信している(Bagdikian: The New Media Monoply参照)。こうした資本と情報配信体制のうえに、CNNBBCWorldNews Corporation BskyBFoxNewsといった衛星国際放送が成り立っている。情報のグローバル化とはこうした寡占資本による配信体制なのである。
 ニュースの世界化は、ケーブルテレビの発達、衛星放送の普及、それに伴う多チャンネル化をとおして、こうした資本と配信体制の世界的な寡占化の強まりのなかで九〇年代以降進行してきた。他方、各国では、市場化の進行によって、国内テレビ局の民営化および放送内容自体の「民営テレビ化」が進行した。

 グローバル秩序と〈イメージの力〉

 国際メディアの主たるプレイヤーはもちろんアメリカを中心とした西欧諸国であり、二〇〇一年に世界市場に輸出されたテレビ番組のうち、娯楽番組の九〇パーセント、テレビドラマの九一パーセント、テレビ用映画の八七パーセント、子供番組の八七パーセントが、西欧諸国の制作によるものであった。そのうち、娯楽番組の八五パーセント、テレビ映画の八一パーセント、ドラマの七二パーセント、子供番組の六〇パーセントがアメリカ製であった(Paterson & Sreberny: International News in the twenty-first century参照)。ニュースおよびドキュメンタリや教養番組などの事実(ルビ:ファクト)番組に関していえば、ロイターのような国際通信社とBBCをもつイギリス、そしてNHKをもつ日本の存在によって、アメリカの圧倒的なシェアがかろうじて緩和されるにとどまっている。
 こうした寡占化と一極集中によって、西欧先進諸国とくにアメリカによる国際世論のコントロール力は冷戦終結後飛躍的に増大したといわれる。一日二四時間世界各地からリアルタイムでニュースがテレビ放送されつづけるグローバルメディアの時代にあって、ローマ帝国のラテン語に匹敵する、〈帝国〉の文化支配の武器は英語というよりはむしろ〈イメージの言語〉である。そして、イメージ外交によるアジェンダコントロールに向けた、国際世論のマーケッティングを最も意識的に追求し成功を収めたのは他ならぬアメリカ政府である。
 バグダッドの空爆に飛び立つ爆撃機の映像と、飛来するミサイルや爆撃の様子が同時中継され、「戦争」が番組としてプロデュースされる。湾岸戦争以後、ボスニア・コソボ、9.11同時多発テロ、アフガン・イラク戦争と、「テレビの戦争」の時代をグローバルメディアが主導してきた。ピンポイント爆撃による「クリーンな戦争」、「人道的介入」、「人道的救済」、「介入権」、こうした「正しい戦争」は、「同時中継」された映像と音声によって正統化されてきたのである。旧ユーゴスラビア紛争における「人道的空爆」の例を思い浮かべてみよう。こうした「人道問題」への焦点化こそ、まさに「北大西洋」の「防衛機構」というNATOの変質を不問に付すことに貢献した。NATOは、「北大西洋」を超えて、バルカンでもアフガニスタンでも作戦を展開する軍事同盟へと変貌したのである。
 情報の世界秩序とは、この意味で、〈イメージの帝国〉の形成であったといえるのである。だからこそ、〈帝国〉の覇権をめぐる戦いは、九一年の湾岸戦争以来、「イメージのなかの戦争」として戦われてきた。テレビニュースの時間に合わせて敢行された9.11同時多発テロが〈帝国〉秩序に対する「イメージの報復戦」として企てられたイメージ〈による/を通した〉攻撃だったし、そもそも現代における「テロ」とは、「非対称な」世界情報秩序に対する挑戦であり、「イメージ戦争」における「正規戦」である。中東のグローバルテレビ局Al-Jazeeraを生み出したのも、こうしたイメージの覇権をめぐる世界情報秩序の問題だし、「大量破壊兵器」のフィクションも、戦闘服に身を包んで戦闘機で降り立った「リンカーン艦上のジョージ・ブッシュJr」のハリウッド的演出もすべて同じ世界イメージ戦争の位相に位置している。
 情報のグローバル化は、世界の情報の流れを意味論的にも一元的に管理する効果をもたらす。世界の出来事の文脈がそのように管理・統御されていく。
 寡占化された世界的な配信体制の流れにしたがって、世界の出来事の意味づけはベクトル化され方向付けられていく。ニュース・アジェンダが、そのようなメディア力学にもとづいて、分類され、世界の出来事の主従文脈の階層化が決められていく。この文脈に沿わないもの、この分類項目に合わないものは、当然ながら、まったくリプレゼンテーションを持たないか、マージナルな扱いをしか受けられない。「南」のニュースは、エピソード的なもの、暴力や民族紛争や、エキゾチックなテーマをのぞけば、ほとんど存在しないも同然とされる。発展途上の従属国であればあるほど、自分の力で世界の情報をフォローする能力をもたないから、ますますグローバルな情報秩序に依存するようになる。隣国の事情を知るにもニュースの国際市場を経由する以外ないというわけである。

 ドメスティケイトされる公共空間

 他方で、先進国をふくむ国内ではどうか。ここでも情報の氾濫は幻想であり、「ニュース内容の均質化」の傾向が増大した、と多くの研究者は述べている。増加する傾向にあるのは映像として人目を引くが「ソフト」なニュース・ストーリーであり、「ライフスタイル・ジャーナリズム」と呼ばれる生活情報系ニュースの比重が増したことが指摘されている。
 アメリカではニュース視聴者の国際ニュースへの無関心が低く、その理由は国際問題についての背景情報を持たないことによるという(Paterson & Sreberny前掲書参照)。事実報道番組の伝統のあるイギリスでも、発展途上国を扱ったドキュメンタリ番組が一九八九年から一九九九年の十年間で半減したといわれる。「硬い政治や国際ニュースよりは、犯罪や消費生活もの」が、「時事番組」のなかで増える傾向にある。「ドキュドラマ」化も指摘されている。このように「メディアの壁」によって、各国のニュースは国内向けに仕切られていることになる。
 じっさい、各国内で進んだのは情報のフォーマット化された内向化である。一九九〇年代には、テレビをめぐるメディア環境の世界的な転換が起こっている。ケーブルテレビなど多チャンネル化や専門局化への移行、衛星テレビによるグローバルメディアの登場によって、ナショナルな地上波テレビが危機を迎えた。一国的な総合テレビはインフォメーション(情報伝達)のメディアとしての力を失ったのである。それは「公共放送」の危機でもあった。公共放送が国内のテレビコミュニケーションを文字通り仕切っている時代が終わった。ナショナルなテレビの時代の終わりである。
 情報(インフォメーション)でのヘゲモニーを失った国内テレビは視聴者との接触(コミュニケーション)に活路を見出そうとする。各国の総合テレビは、スポーツ、エンターテインメント、ビジネスといったソフトニュースへの傾斜を強めていく。視聴者とのコンタクト、番組参加、関係性の構築などに番組づくりの重点が移動していくのである。
 テレビがテレビ自身を語りリアリティを作り出していく、記号学者のエーコの言う「ネオテレビ期」へとテレビ文化が移行していく。テレビはどの国においてもバラエティー化への傾斜を加速させ、外部世界や社会への眼差しを失っていく。
 グローバル化はすでに述べたように情報の市場化であり、ニュースの均質化とともに、スポーツイベント、エンターテインメントのグローバル化と統一フォーマット化が進んでいく。じっさい、テレビドラマだけではなく、娯楽番組、リアリティショー、などバラエティージャンルのライセンス化は急速に発達し、各国で放送されている番組は、じつは「世界共通」のライセンス番組であるというケースはますます多い。「クイズ・ミリノネア」や「サバイバー」が世界共通の番組であることを皆さんは知っているだろうか。 

 メディアによる統治

 そして、ついには、この情報の流れにそって、政治そのものがフォーマット化するという事態が生じた。これが、「テレビ国家」と私が呼んだ各国の政治のメディア体制フォーマットである。
 情報の世界化によって拡大していく市場原理、拡大していく情報圏と一方向にベクトル化されていく情報の流れ、他方でドメスティケート(内向化=馴致化)されていく国内の情報空間、こうした公共空間の成り立ちに依拠したのが、イメージによるガヴァナンスをおこなう、各国共通のメディア型権力の成立を招いたのではなかったか。
 ヨーロッパ諸国のテレビの民営化をとおして、エンターテインメントの王国をつくることと、規制撤廃、市場原理化と自己利益誘導を組み合わせていく戦略に長けた「メディアの帝王」ベルルスコーニを見よ。マードックの帝国と手を結び情報資本主義の流れを統御することで長期政権を築いたブレアを見よ。〈帝国〉の秩序と国内の〈統治〉の歯車をかみ合わせ、「改革」のパフォーマンスを繰り広げてみせること、これらは一貫した情報政治のアジェンダである。メディアを押さえることが、権力の源泉である時代を私たちは生きてきた。

 情報秩序の再組織化

 では、ネットの方はどうか。
 1990年代以降の情報のグローバル化は、もちろんインターネットの形成期でもある。情報コミュニケーション・テクノロジー(ICT)の革命なしに今日のグローバル化はない。しかし、およそ十五年間にわたって、およそあらゆる情報が投げ込まれネット上に浮かぶようになった結果、現在起こりつつある事態とは何だろうか。
 インターネットの第一期とは異なり、現在進行しつつあるのは、ネット環境の「再組織化」である。そしてネットに限らず、あらゆるメディアがICTをプラットフォームに再組織化されていく。グーグルに代表される検索エンジンによって、グローバル化した世界の情報が技術的に秩序づけられていく。まさしく「セマンティック・ウェブ」と呼ばれる技術によって、意味論的に秩序づけられていくのである。グローバル化の意味論(セマンティクス)自体が、ウェブの組織原理の技術的再編と重なっていく。喧伝されているWeb2.0とは、そのようなウェブの再組織化の動きなのである。
 ネットが基盤となって公共空間の再編が進んでいく。じっさい、放送と通信の融合にしても、新聞とネットとの連動にしても、ウェブを基盤として他のメディアが組織されなおされていくことを予告している。「公共空間」の大きな変容のモーメントがそこには見えているといえる。現在いえることは、放送・活字とネットという三次元の「公共空間」へと移行しつつあり、ネットは、グローバル化世界を意味環境化する基幹テクノロジーとして機能し始めているというぐらいである。
 ネットへの移行はマスメディアのゆるやかな解体を伴っている。「情報はタダ」という時代をまえに、大メディアはビジネスモデルの不在に頭を悩ませている。アクセス数における「ショートヘッド」(アクセス数の集中する数少ないサイト群)の位置を占めるべく大メディアは競争を繰り広げている。 他方、確実に発達したのは、マーケティングの技術である。政治自体の「情報テクノロジー化」である。ネットがもたらしたのは、「情報空間の組織の仕方」自体が「政治の実践」となる時代の到来である。
 ネットにおける「公共空間」の可能性の問題については、第三回でやや詳しく論ずる予定である。
 
      *
 
 以上、グローバル化した世界の〈情報秩序〉と〈政治〉との関係の大ぶりの見取り図を今回は素描してみた。戦争とともに形成されてきたグローバルな情報秩序の綻びがある。内向化され消費文化に浸されてきた人々の意識の危機がある。さらに情報基盤の技術的組み替えが進んでいる。それらは現在起こりつつある公共空間の転換期を示している。
 次回は、日本のメディア状況にフォーカスして、政治とメディアの界面を論じてみる予定である。