2007年10月7日日曜日

「私たちの世界の<記憶>の現在・・・ クリス・マルケル『レヴェル5』をめぐって」石田英敬 『沖縄 暴力論 2007』東京外国語大学大学院国際協力講座編、pp.138-141

私たちの世界の<記憶>の現在・・・
クリス・マルケル『レヴェル5』をめぐって

石田英敬


1. 死、記憶の迷路、仮想世界
 クリス・マルケルの『レヴェル5』は幾重にも衝撃的な作品である。ここに問われているのは、現代世界における<記憶>の存在の様態であり、<喪>と<死>のテーマ系であり、<他者>や<死者>たちとのコミュニケーションや、<他なる歴史>の問いである。プログラム、ゲーム、インタフェイス、編集、データベース、ドキュメント、アーカイヴといった記憶テクノロジーをめぐる問題系のおよそ全てが、私たちの<記憶のオントロジー>の問題として提起されている。
 「狂った神」が人間をして造らせた「玩具」が映し出すイメージの流れ、最初の道具の作り手であるネアンデルタール人からすれば幻覚の世界にしか見えぬ思考、映像、幻影の流れと語られる、「電脳空間(サイバースペース)」への入り口から『レヴェル5』は始まっている。コンピュータ・ゲームの「プログラム」を書いていた男<夜のアリクイ>の記憶を求めて、女<朝のウサギ>はコンピュータに向かう。「小説(ロマン)」を書いていた女の喪の仕事とは、恋人がやり残していったゲームを完成させること・・・、「沖縄戦」をテーマに、「歴史」の「プログラム」を書き継ぐことだ。<朝のウサギ>はコンピュータ・モニターに語りかける。スクリーンは亡くなった恋人の記憶との<インタフェイス>であり、喪のキャメラ・アングルを通して、こちらの不在へと語りかける。私たちはこの女から<死>の奥行きを通して<不在のロマンス>を語りかけられるのだ。
 <不在>-の/との-<顔の間(interface)>から、私たちは彼女の「喪の仕事」に、「歴史」の「証言」や「想起」や「想像」が重ねられていくさまを追うことになる。女の<喪の物語>が、コンピュータの<界面(interface)>を通して、実世界から「仮想世界」へ、「歴史」から「ゲーム」へ、ゲームのプログラムと歴史の不可逆性へと「問い」が迷路のようにつながるのに付き従いながら・・・。

2. クリス、あるいは、「物語=歴史」の召喚
 自己同一性の喪失と化身の世界への没入、データと記録、ドキュメントと証言、さまざまにカテゴライズされた映像(証言、報道、アーカイヴ映像、現地ルポ、etc.)が混然とした、映像のアーカイヴをかたちづくるサイバースペースの宇宙・・・、あらゆるデータは、デジタル・アーカイブをとおしてアクセスされ、「戦争」は「ゲーム」の姿をしてまず現れる。「沖縄」はまず「捨て石」という「囲碁のゲーム」の構造をとってまず立ち現れる。証言、撮影、インタビュー、そのように「アーカイヴ」の構造をもって、「記憶」はまず現れてくるだろう。サイバースペースにおいては、歴史もヴァーチャル化されてストックされ、「物語」は引き出される仕組みになっているのだ。「実世界」の「運命」を変更することも可能であるはずだ。しかし、それこそが「ゲーム」であるわけであろうからだ。そのような「ゲーム」の「恣意性」の想定はしかし、この「ゲーム」には通用しないことがすぐ分かる。別様のゲームへと、このゲームはつながっているのである。
 「編集」のエース「クリス」がこの「物語=歴史」に召喚されるのは、彼女が「物語」を「語る」のを支援するためだ。「Tokyo Today」にならされていた日本に通暁したこの手練れのシネアストも、この国の「戦争」の「忘却」から「想起」への道のりへと呼び戻されることになった。沖縄のドキュメント、証言、それらの映像を、クリスの「つぶやき」の「オフ・ヴォイス」が先導してゆく。
 OWLという仮想リンク(サイバーリンク)の神経ネットワークは他者の思考を読むことも可能だ。「レベル5」のコミュニケーションを求めて、他者の物語との一致は「死」によってしか到達し得ないのか。「沖縄戦」という「他者の歴史」の記録へリンクし、その「記憶」を、「失われた恋人」の「記憶」と重ねること。自己の同一性を失って仮想空間へと転位し、化身たちのコミュニケーションをとおして「死」のコミュニケーションへ分け入ろうとすること。
「死者」たちの「匿名の」コミュニケーション、(「自己を失った者達」のコミュニケーション)、仮死のコミュニケーションをとおして、コミュニケーションを求めるということ・・・。死者たちとコミュニケートするためには、「私」もまた「死んでいる」のでなければならないのではないか、と・・。
「戦争」の記憶、「幽霊」に満ちた島、沖縄。 大島渚による対馬丸の追悼の映像・・・。
「ローラ」という「仮の名前」も「別離」の歌の題名だった。私の足音が聞こえますか?女はログインを重ねていくうちに、彼女は記憶の迷路のなかに、自己を消えさせていく。

3. 絶対的「受難=受動性」の歴史
 クリスの低くつぶやくようなオフ・ボイスと、女の語りが織りなしていくのは、「沖縄戦」の絶対的「受難=受動性」の「物語=歴史」である。
 うずくまり飛びかかろうとするような動物のかたちをした島、西欧の歴史に初めて記述が登場するのは、ナポレオンが英国人船長から聞いて激怒したという「小さな奇妙な島、武器を持たない住人による平和の島」「大砲すらないのか」「戦争はない、彼らには興味がない」
 絶対的な「受動性」と沖縄の「受難」・・女の「私の苦しみ」と「沖縄の受難が」が重ねられ(「沖縄わが愛」)、現在から記憶への道筋を辿ることになるのだ。そこに編集され語られるのはことごとく、自ら「受難」を引き受けざるをえなかった者たちの「絶対的受動性の歴史」だ!ひめゆり部隊、証言 集団自決
白旗の少女
 「戦いが終わっても人々が死に続けた世界で唯一の場所」、「日本人でもなかった人たちが日本人であるために死んだ島」「生きて捕虜になのは恥とされ」人々が死んでいった島、「期待されたことをなすべく」「ナポレオンを打ち消すために、何千もの人々が殺し合った」と女が語る、「絶対的受動=受難」の「歴史」!
 迫害の「語り」、自死さえも、「強いられた」受難の歴史。
 そこでは、映像さえもが「加害者」である。カメラによってさえ「撃ち殺された」自死者たち!自らを「殺す」ことを強いられたことによって、かろうじて「映像」が残っている者たちの「映像」とは何を語るのか?
「神はつねに迫害された者と共にある」とユダヤのラビを引いて女はいう。「歴史」や「映像」の語りとは、まさにこのような「能動的な支配の言説、支配の映像」なのではないのか。
 しかし、未来の人類学者は言うであろう。二〇世紀末にはコンピュータこそ、「あなたの記憶」、あなたの生を見守る「守護神」であったのだと。 
 女は悟る。彼女が解いていたのは、「単独性」のパズル、歴史の不変性のパズルだったのだと。金城少年、集団自決の島、慶良間諸島、そのクライン・ブルーの下で少年の記憶を見守る「空色の」観音像。あるいは、平和通りの「戦争の寡婦たち」・・・。これらすべては、つねにすでに書かれていた「受難」の記憶なのか、「天使」のみがその「記憶」の鍵を携えて去っていったのか?

4. 戦争/イメージ
 しかし、どれだけの「イメージ」が「戦争」を語ってきたのだろうか。演出された「硫黄島の星条旗」、それに耐えられず狂ってしまった男、戦争の度に呼び出される火炎に包まれた男「ギュスターヴ」。戦争はイメージのレトリックだ。プロパガンダでもある。「ジャップ、サルとの戦い」、「鬼畜米英」との戦い。戦争の映像とは、記憶を直視しないための修辞なのか。記憶を直視せよ、あの戦争を直視せよ、そのために「証言する」のだと牧師は言う。歴史の絶対的な不変性を直視せよ、それこそが「ゲーム」が行き着いた先の「知」ではないか。
「私」の記憶とはコンピュータへの入力の痕跡に他ならず、「私」自身もイメージに過ぎず、私自身が他者たちの記憶へと辿りつくためには、そのイメージの裏側の世界へ消え去る以外にないではないか。そして、あなたも忘れていくだろう、あなたの「記憶」も薄れていくだろう、そして私の「像」はやがてぼやけていって、ついには消え去ることになるだろう。そう、それこそが、「像」の宿命なのだ。記憶の運命なのだ。そのようにして消え去ることで、女は記憶を語り尽くしたのだろうか・・・。ローラが消え去ったローラの痕跡、それを見出すクリス。

5. 「受動性の歴史」は可能なのか?
 さて、この映画を見終わったなら、あなたに問うてみたい。なぜこの「映画」と「沖縄」なのか、なぜこの「映画」と「集団自決」の歴史記述の問題なのか、と。
 皆さんにもぜひ考えてみてもらいたい。
 私が思うに、そこには、<歴史叙述>と<記憶の保全>をめぐる存在論的係争がある。
 この作品を通して、クリス・マルケルが提起しているのは、絶対的な<受動性=受難(パッション)>の歴史とは何なのか、絶対的に受動的=受難的な物語および映像とは何か、という問いだからある。この「問いかけ」の射程はじつに大きい。「歴史教科書」から、「集団自決」の記述が消されていくことの存在論的なステークもまたそこには露呈している。私たちの物語が、そして私たちの映像が、<大きな主体>の物語としてしか書かれないとしたら、「歴史」とは勝者の物語、「ナポレオンの物語」でしかないとしたら、そのときには「沖縄戦」は決して本質的に語られることはないだろう。武器を持たぬ絶対的な平和ゆえにナポレオンを激怒させた島は、歴史の語りの「捨て石」として置き去りにされ、沈黙と忘却のうちにとどめ置かれることになろう。
 しかし、私たちの記憶のアーカイヴにおいて<他者の歴史>、<他なる歴史>は可能なのか、と問うてみよう。その絶対的な平穏に近づくためには、幾つもの<喪>の作業を経由し、自己を喪失し、名前をも失って、自らも死の受動性を帯び、この世界から消え去ることによって、その先にようやく到達できるのかもしれない、その<歴史の場所>・・・。そのような絶対的な<受難>の点とは、私たちがいまある世界の条件にとってどのような意味をもたらし続けている記憶の地点であるのか。そして、その場所を消し去ろうという力が抹消しようとしている<問いかけ>とは一体何なのか。この伏してうずくまるドラゴンの島は、私たちの歴史のあり方をめぐる<存在の法廷>に、私たちの記憶を召喚することをやめていないのである。