2006年12月20日水曜日

『知のデジタル・シフト — 誰が知を支配するのか?』石田英敬編、2006年刊 A5判並製 282頁 定価(本体価格 3200円+税)



知のデジタル・シフト

  まえがき  石田英敬

 ホモ・サピエンス・サピエンスという人類の学名が表しているように、<人間>と<知>とは切りはなしえない関係で結ばれている。<知>を生み出したのは<人間>だが、<人間>を生み出したのも<知>である1。<人間>と<知>との不可分の関係は、人類の歴史をとおしていくつかの大きな転換を経験してきた。道具と言語の使用、文字の発明、学問や宗教や政治や法の成立、近代文明を生み出した活字、本、印刷技術の発達、19世紀以後の写真、電信、電話、フォノグラフ、レコード、映画、ラジオ、テレビなどアナログ・テクノロジーの発達、そして、コンピュータと情報コミュニケーション・テクノロジーの登場・・・。<知>の<転換(シフト)>は、人類文明の<時代(エポック)>を画してきた。そのサイクルは加速し、いまでは<人間>が<知>の変化に追いつかないほどのスピードで事態は進展しつつあるように見える。
 本書が照準するのは、私たちが現在経験しつつある<知のデジタル・シフト>である。すなわちコンピュータの<デジタル・テクノロジー>がもたらしつつある、<人間>と<知>の関係の<大転換(シフト)>である。
 コンピュータ革命やデジタル革命についてはすでに多くのことが言われてきた。その多くは単純なバラ色の未来学的、産業的、技術決定論的考察でありうんざりするほどだ。他方、<知>は、そのような技術的動向には左右されないのだという超然とした保守的態度もある。多くは人文学者や文科系研究者に見られる態度だ。しかし、これほど無知で蒙昧な態度はない。<知>そのものを滅ぼすことにそれは通じるからだ。
 本書は、デジタル・テクノロジーがもたらした<知>の条件の変化をまともに受け止めたうえで、それが何であるのかと問う企てである。
 私たちの時代において、<知>と<人間>との関係はいったいどのあたりにあるのだろうか。デジタル・テクノロジーは、知をどの部分において変化させ、何をもたらすのだろうか。人間の文明のどの部分に働きかけ、何を発見させ、何を可能にしているのだろうか。そして、このテクノロジーにはどのような創造的な活用法があるのか。
 私たちは日常的にパソコンを使用し、検索エンジンを使い、携帯などのコミュニケーション機器を使いこなし、デジタル化したテレビやチャンネルサーバを使用している。ある部分は、従来からの知的活動の延長上の活動だし、他の部分は一見、それとは関係のない、あるいは知とは異質の活動であると考えられている。しかし、よく考えてみれば、あるメディアの水準、すなわちここでのデジタル・メディアの水準からみれば、まったくちがった姿があらわれてくる。
 とくにすべてをデジタルな計算に置き換えるディジタル技術の出現によって、およそすべての文字、音声、映像に関わるすべての記録活動が、一挙に同じフォーマットで扱いうる「情報」へと姿を変えることになった。これは、人間の「記憶」が、全面的にその成立条件を変えるようになったことを意味してはいないだろうか。
 電信(テレグラフ)の登場以来、人間と「時間」との関係に大きな変化が起こった。「リアルタイム」の問題だが、「知」を成り立たせていた人間の「記憶」に加えて、「知の時間」にも大変化が起こった。グーグルなどの検索エンジンを使えば、ほとんど「光の速度」に近いスピードで、文字を「読む」ことが可能である。あるいは、すくなくとも、目標とする「文字列」に到達することが可能である。このとき、あらためて、「書く・読む」とは何かが問われることになる。これはまた、「映像」記録に関しても同様である。
 そして、当然、<人間>を中心に組み上がっていた<知>が変容を起こすことになる。
 
 人文知の危機
 本書は、そのような大変化の姿をとらえて、現在起こりつつある<知>の変容を明らかにしようという最初の試みである。とくに念頭においているのは、文字ベースの知、広い意味で「人文知」あるいは「教養」を扱ってきた人びとである。どちらかというと、いわゆる「文科系」と呼ばれる領域で仕事をしてきた人びと、そうした分野の読者、さらには、いわゆる「人文書」に関わってきた人びとである。なぜ、それらの人びとを強く意識して本書を企画したかといえば、ひとことでいえば非常に大きな危機感を私たちが持っているからだ。
 ここに集った執筆者たちは、情報テクノロジーとの界面において人文知にかかわる研究に従事してきた中堅あるいは若手の研究者たちである。この分野で仕事をしていると、<知>の条件が日増しに大きな変動に見舞われていく姿を目の当たりにしている。それは<知>の基盤を掘り崩しかねない大きな変化であると同時に、従来活字ベースで培われてきた<知>を拡張しその可能性をさらに発展させる大きなチャンスでもある。しかし、書物の知に閉じこもっている人びとは、それをまっとうに正視しようとする知識も勇気ももたず、それゆえに、巨大な認知的ポテンシャルを秘めたテクノロジーは、<知>を単に平準化しむしろその認識の可能性を閉ざす方向へと使用が限定されていってしまう。そして、それこそが<人文知>ひいては<人間の知>の窒息をもたらすのである。いまや、そのようなテクノロジーとのギャップを解消する方向へと向かう時である。そのためには何が起こっているのかを断片的であっても正確に知る必要がある。そのような危機感から本書は企画されたのである。


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本書の構成
 20世紀の後半のディジタル・テクノロジーの革命は、人間の<知>の成立条件を全く書き換えてしまった。
 第一部では、この知の変化を描き出すことが試みられる。
 まず「知のディジタル・シフト」を人間の<知>の一般的な問題系のなかに位置づけることが試みられる。まず、石田論文が、人間の知とテクノロジーとの関係の全史を振り返りつつ、ディジタル・テクノロジーと知の問題を位置づける。
 インターネットは、あらゆる知識を雑然ととりこんで相互にリンクした項目からなる巨大な百科事典でもある。ウィキペディアのような、更新可能ですべての読者に開かれた万有百科の企ても存在している。あまりにも有名なディドロ・ダランベールの「百科全書」は近代を生み出した巨大な「啓蒙」の運動であったように、「エンサイクロペディア」は時代と社会の<知>の里程標でもある。吉見論文が、「エンサイクロペディア」に注目することで、ディジタル・テクノロジーの時代における<知>について展望する。
 それでは、ディジタル・テクノロジーが可能にした産業と知の関係についてはどうか。知識産業とディジタル・テクノロジーとの関係をとらえることは、私たちの時代における<知>の変動の実体にせまる重要な道筋である。情報機器と広告をめぐって水島論文が、この結びつきを明らかにする。
 そして、科学と情報と技術との関係が、あらためて市民社会との関係で問い直されなければならない。その観点から科学情報のディジタル化を問うのが境論文である。
 
 <知>のディジタル・シフトを考える手がかりは、もちろん、どのような新しい知の環境をディジタル・テクノロジーが生み出しているのかを知り、それがもたらす人間の経験の変化と知の変容をとらえるところから始まる。
 第二部は、その意味で、本書の核心的な部分である。
 私たちの研究グループの若手研究者たちが、多様なかたちで展開する研究開発や実験の最先端の現場を取材し、何が私たちの<知>を変化させつつあるのかを開発者、研究者、クリエーターとの濃密なインタビューをとおして明らかにしようとした。
 技術と人間との界面において何が起こっているのか。
 メディア・アーティストの藤幡正樹との対話は、人間の感性的経験とその知を変容させつつディジタル・シフトを明らかにする。知の創造と表現の活動をどのようにデザインすれば新しい可能性を開けるのか、研究開発の現状を明かすのが中小路久美代、山本恭裕との対話である。
 検索技術という知識発見テクノロジーのめざましい進化は、知の条件を書き換えつつある。MIMAサーチ開発で知られる美馬秀樹との対話は、この高度な知識テクノロジーを支える認識論的な基礎を明快に説き、一方における人間の言語と意味、他方における機械の言語と処理との関係を解き明かす。
 情報技術はあらゆるモードの記録を同じ計算技術で処理することを可能とした。実時間でしか視聴できずリニアーにしかアーカイブ化できなかった映像素材も現在ではノンリニアーな処理を施されメタデータを自動付与されて扱うことができるようになっている。こうした映像の検索技術とアーカイブの変化は、何を可能にし、人間の記録と記憶のどのような位相転換を引き起こしつつあるのか。NTTサイバーソリューション研究所とフランスINAthèqueの取材から解き明かす。
 さらに、ユビキタス技術がもらす知識と物と環境との変化、グーグルやブログをめぐる「ユーザ」の概念をおさえつつ、<知>の環境の大変化を探査し報告するのが本書の第二部である。

 これらを一読すれば、いかに私たちの知の条件が、その根本において大規模な変容を迎えているのかを読者は実感することができるはずだ。

 さて、問題はそうした変容をどのように位置づけ、どのような知の変容へと結びつけていくかだ。第三部では、とくに大きな変化を経験しつつあるイメージの存立条件とアーカイブの変容をめぐって、中路論文が表象と記憶の問題系を問い直す。さらに、水島論文が、空間の変容、都市の変貌、市民の位置を問い直す。
 そして、最後に、「人文知」の知識ネットワークを情報技術の環境へと転移させる研究開発に従事してきた第一線エンジニアが、自分たちの「知」の知識テクノロジーの開発の現場を証言する。

 無数に存在している<情報>を手軽に便利に労なく検索したり、本を読まずに手軽にすばやく必要な<知識>だけに到達しようとする者にとって、ディジタル・テクノロジーは<知の砂漠>への入り口である。彼/彼女の<知性>はビット化されて微分化され、<知の砂漠>のなかで「エントロピー的な死」を迎えるしかない。それが、情報テクノロジーによる人間の知の支配である。しかし、情報テクノロジーを上手に使いこなし、自分自身の<知性>のインテグレーションを創造的に推し進める<技術>を心得た者にとって、ディジタル環境はこのうえなく豊穣な<知の環境>としての姿を現すだろう。新しいテクノロジー環境の反省的な使用への問題提起が、本書の目的である。