2006年11月1日水曜日

「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 2006年11月号, pp. 153-161

テレビ国家(5)

ポスト・デモクラシーの条件 

            

 
 今回が最終回の連載を通じて、私が考えてきたのは、「象徴の政治」をめぐる問題である。私が「テレビ国家」と名付けた政治権力の現代的なあり方は、たんなるプロパガンダ、広告や広報、レトリックの次元を超えて「国家」および「政治」の本質にかかわる問題を提起していることを述べてきたつもりである。
 私は文化や社会における「シンボリックなもの」の研究を行ってきた研究者だ。しかし、「国家」や「政治」の成り立ちについて今日非常にジュネラルな問いが存在していると考えている。現在ほど「シンボリックなもの」の成り立ちが大きく変化している時代は、歴史的にも稀な時代である。そのとき「政治」はどのような変容を起こすのか、その兆候とは何か、どのような変化が起きつつあるのか、それを問うてきたつもりである。

民主主義とリテラシー

 いまさら繰り返すまでもないが、文字やイメージや記号や情報は、「政治」というカテゴリが成立するためにまさに中心的な問題なのである。政治が「ロゴス」の「支配」であるかぎりにおいて、いかに「像」から「論理」をとおして「原理」へといたるのか、「政治」と「イメージ」の関係の問いはすでに「政治」をギリシャにおいて基礎づけたプラトンの『国家』においてすでに述べられていた。
 『国家』第七巻においてソクラテスが語る「洞窟の比喩」を思い起こそう。人間は生まれながらに洞窟のなかに閉じ込められ手足を縛られて、外界から差し込む光が壁面に映し出す事物の「像」をみて、それが物自体であると信じている囚人たちのようなものだ、と。そこからポリスの統治の根本理念であるべき「善」のイデアにいかに至るのか。そこに、「像(イメージ)」と「論理(ロゴス)」と政治の基礎となるべき「原理(イデア)」とを結ぶ関係が、「国家」の「政治」の問いとして述べられていたのである。このように、「事物」の「像(イメージ)」から「論理」をへて「原理」へと向かう「政治」の論理をとらえる「判断力」こそ、「リテラシー(識字力)」と呼ばれるものであるはずだ。
 ところで、ギリシャ的「都市国家」ではなく「テレビ国家」に住まう現代人の「洞窟の比喩」とはどのようなものになるだろうか。私的生活の世界に閉じ込められてテレビの前に機械の技術を介して縛りつけられ受像機を通して「事物の像」を眺めている私たちの姿を考えてみればどうだろう。原理的にいえばプラトンにおけると同様に、私たちの「ポリス(国家)」における政治や論理と「像(イメージ)」との関係が問われなければならないはずだ。テレビの「像」と「国家」との関係はすぐれて「政治」の問題として問われるべきはずなのである。
 さらに、歴史的にもっと近い私たちの問いの系譜として、カントの「啓蒙とは何か」を思い起こしてもよい。近代的な「活字公共圏」が「民主主義」を生んだことはすでにひろく常識に属している。そして、「啓蒙」や「民主主義」と「文字」や「活字」をめぐる問いがある。カントにおいては、「啓蒙」を支える原理は、文字通り「リテラシー(文字批判力)」である。「理性の公的な使用」とは、「読む公衆を前にした学者としての理性の使用のことである」とされていた。この「啓蒙」の図式に述べられているのは、活字的公共圏による政治の成立である。これは、私たちが「書記国家」と呼んだ国家における政治理性の支配の原理を示したものだ。カントの図式において文字批判の代表的存在である「学者」や「教師」や「公教育」は、「啓蒙」の中心装置なのだが、今日学者や教師たちはそのような機能を果たし得ているだろうか。
 「テレビ国家」はメディア技術のレヴェルで「政治」と「リテラシー」の問題を提起している。十九世紀の写真や電話や蓄音機の発明以来、人類は人間が書く文字ではない、機械が書く文字を手に入れた。フォトグラフ、フォノグラフ、シネマトグラフ、という機械の「文字(グラフ)」の命名にそれは表れている。テレビ国家は「テクノロジーの文字」のリテラシー問題を提起しているのである。20世紀は映画やレコード、電話やラジオなどのアナログメディア技術という「テクノロジーの文字」を発達させ、それによってひとびとの「共同の生」を書き換えてきた。私のいう「シンボリックなものの大変化」とは、より具体的には、こうした二十世紀を通して進行したメディア技術の革命がもたらしたものだ。そして、現在の生において、もっとも支配的なメディアとなったのが、アナログメディアとしてのテレビであり、ディジタル・メディアとしてのコンピュータだということになる。
 ところが問題なのは、カントのいう「学者」が、「テクノロジーの文字」についての「知」と「リテラシー」を十分に発達させてこなかったことなのである。それゆえに、カント的な意味での「学者としての理性の使用」という「啓蒙」の図式が成立しなくなっている。
 「テクノロジーの文字」を前に、その論理を見抜き法則をとらえてコントロールする「批判力(リテラシー)」を生みだす「知」がなければ、「学者としての理性の使用」は不可能となる。「政治理性」の普遍的な批判という「学者」のレゾンデートルが失われてしまう。そして、政治における「論理」が希薄になり、社会から「啓蒙」が後退していく。グーテンベルグの銀河系において「人文知」(=教養 Humanities)というかたちで人間文化の「リテラシー」を基礎づけていた「人文学者(ユマニスト)」たちの責任はいま重いのである。

2 ポスト・デモクラシー

 テレビ国家を考えるうえで私が念頭においてきた議論に現在世界中で論議が盛んな「ポスト・デモクラシー」をめぐる論争がある。その背景には二十世紀を通して発達してきたデモクラシーが、まさしく先進民主主義国において終わりの兆候を見せているという認識の拡がりがある。
 私の議論からいえば、これは「ポスト・モダン」論の文脈とも結びつくものだが、テレビ国家における「民主主義の変質」を論じた際に述べたように、民主主義を生みだした「近代」の前提が崩れつつあるのではないか、という認識をめぐるものだ。近代的立憲主義の根幹に触れるような逸脱が平然とテレビ国家の「テクノロジーの文字」の「重ね書き」によって起きてきている。しかも、世界各国で拡がっていることの認識である。
 この論点は、イギリスの政治社会学者コリン・クラウチが言うような「ポスト・デモクラシー」論と共鳴する部分をもっている(Colin Crouch Post-Democracy, Polity Press 2004)。

 ●「デモクラシーの放物線」

 クラウチは、二十世紀の政治を通してデモクラシーが描いた「放物線」について語っている。
 普通選挙が一般化し社会権が認められ基本的人権の意識が浸透する二十世紀の歴史的プロセスは、ケインズ主義的政策、フォーディズム的生産による大量生産—大量消費のサイクルによる経済成長などと一致していた。アメリカおよびスカンジナビア諸国においては第二次大戦直前、その他の国では第二次大戦直後、つまり西ヨーロッパおよび北米のほとんどの国では二十世紀半ばを頂点として民主主義がひとつの頂点を迎える。これらの国々で二十世紀半ばには、人びとは「今日と比較すれば平均的教育水準においては劣るにも拘らず」、政府機関が使う言語とのギャップが少ない政治言語を使いこなし、能動的市民としての公共の生への参加が実現していた。投票率は現在よりも高く、収入に比して現在よりもずっと高価な新聞を購読して世論の高い水準を維持していたと、クラウチは述べている。
 しかし、その後の政策課題の複雑化と専門化、人々の生活の消費者化、政治参加の後退(投票率の低下)、労働組合など中間団体の組織力の低下など、二十世紀デモクラシーの放物線は下降局面を辿ることになる。そして1980年代後半以降の産業構造の変化、グローバル市場化、労働形態の非正規化をへて1990年代になると二十世紀のデモクラシーの「放物線」はボトムに近づくことになる。これが「ポスト・デモクラシー」期であって、デモクラシーの体裁は保たれるものの、福祉国家が後退し貧富の格差の拡大、政策決定の一部のエリート層への集中、市民の受動的な消費者化が進行して、政治不信と政治の消費文化化が進行するとされる。二十世紀を通じて「放物線」を描いたデモクラシー度が、「デモクラシー以前」の水準にもどる傾向を見せているというのである。
 私たちの国の政治史に重ねてみるならば、クラウチの見取り図が教えるところは重要である。なぜなら、「日本国憲法」が成立したのはまさしく二十世紀の「デモクラシーの放物線」が上昇する「頂点」の時期であり、その意味で二十世紀において世界が最も民主的であった時代の政治文化の申し子だからだ。それに対して、デモクラシーの「放物線」が下降し1990年代から2000年代にかけて「底を打つ」局面において、いま私たちの国に頭をもたげてきているのが、「新しい憲法」を制定しようという動きである。私たちの国は、世界に先駆けて(!)、「ポスト・デモクラシーの憲法」をもつ最初の国になろうとしている。
 クラウチもまた「ポスト・デモクラシー」の兆候として指導者の個人化、テレビを始めとしたメディア政治の進行、エリートによる支配などを挙げている。テレビ国家が準備しているのは、もっとも不平等でネオリベラルなエリートによる支配を正当化するための政体となる可能性が高いのである。

3 二つの文化資本主義

 現在ほどメディアが産業化し人々の生に影響を与えている時代はなかった。そして今ほどメディア関係者の社会的真価が問われている時代はない。権力のメディア化とメディアの権力とが結びつくとき、「ジャーナリスト」たちの覚醒がなによりも必要ではある。じっさい危機感を強めて、あるべき方向を真摯に模索している新聞・テレビ・ネットの関係者は数多く存在している。
 しかし社会的アクターたちの良識や規範意識に訴えるだけでは、現状を変えるためには限界があることも事実だ。現在起きつつある大変化を捉え、それを理性的に統御する方向を目指すためには、放送や通信を含む文化産業のあり方にじかに働きかけ、情報資本主義をコントロールする動きが起こる以外にない。
 なぜなら、テレビやネットなどを通じて、人びとの意識に働きかけ生をコントロールする情報資本主義の全面化こそ、現在の世界を支配している力だからだ。ところが情報社会の社会的ステークについては、「ウェブ2.0」にしても、「グーグル」問題にしても、情報秩序の問題にしても、テレビ放送の再編やディジタル化にしても、公共放送の問題にしても、文化産業の振興にしても、いずれも個々の事例はバラバラな産業的技術的な問題として語られても、「市民社会」の側ではそれが社会にとってほんとにどのようなステークをもたらしているのかについての認識は一般的に希薄であり、本質的な問いかけを受けることは少ない。専門家、テクノクラート、経済界の議論に委ねられているのが実情だろう。
 これは極めて危うい状況である。情報産業や文化産業こそ現在の資本主義の基幹産業であり、人びとの「意味生活」や「意識の生活」の成立条件にじかに働きかけることによって成り立つ産業(スティグレールのいう「ハイパー産業」)だからだ。それを統御するためには、情報産業政策や文化政策を含めた「情報社会」のあるべきグランド・デザインをめぐる社会的議論が必要である。

 ● 文化資本主義の論理

 私たちが「テクノロジーの文字」と呼んだ二十世紀が生みだしたアナログおよびディジタルのメディア技術は、人々の「意識」や「意味」の活動を「微分化」して計算処理することによって、「価値」を生みだす産業テクノロジーをもたらした。
 産業資本主義であれば、「自然」を資源として商品を生みだし、その加工による「差異」を「価値」として成立する産業経済であった。ところが、現在の情報資本主義は、「文化」や「意識」を資源として「文化商品」を生産し、「欲望」を生みだし「消費」を誘発するという、「文化資本主義」の様相を深めている。
 文化産業の技術的基礎は、「文化」から「記号」を取り出して複製したり加工したりするメディア技術で成り立っている。 例えば、テレビの技術は、「意識」を映像のコマに分割して微分化することによって符号化し、別の時間・空間において再生可能な流通しうる記号として「価値」を生みだすのである。そのことによって、時間的にも空間的に遠隔した無数の人々の「関心(インタレスト)」を引き寄せることができる。これが反復可能性にもとづく「価値」の生産であって、「意識の市場」をメタ市場として形成するものであることはすでに本連載第四回で述べたとおりである。
 インターネットのようなディジタル・メディアになるとさらに、このプロセスが「指数関数化」するという事が起こる。アナログ記号であるかぎりは、ひとつの知覚経験のイメージの価値は、その反復可能性の値だが、ディジタル化はひとつの記号をさらに微分化して「変換」したり「圧縮」したりすることを可能にした。そのことによって、「差異」を飛躍的に増大することが可能になるのである。

「文化」という「有限な資源」

 現在のコンピュータを可能にした「シャノン・モデル」が、「エントロピー量」の計算式によって「情報」を量として扱う計算モデルを確立したことが端的に示すように、現在の情報産業や文化産業は、人間の意味生活一般、さらにいえば「文化」を、微分化しエントロピー化する技術によって産業的に発達してきたのである。
 しかし、「文化」の価値が、時間的空間的な反復可能性の値や、変換や圧縮の関数ということになれば、文化の内実は限りなく「貧困」化の傾向を示すことになる。なぜなら、「文化」とは、そもそも微分化とは逆のインテグレーション(全一化=積分化)であり、置き換え不可能な固有の文脈を構成するものであるからだ。個体としての人間もまた、自己に固有な文脈を形成することによってしか、インテグラル(全一の=積分的)な主体を構成できない。
 したがって、計算モデルにもとづく「人間や文化のメディア産業化」の図式には、機械による情報処理のプロセスと人間や文化とのあいだに超えがたいギャップが存在しているのである。
 二重のパラドックスがそこにはある。まず情報処理のプロセスを前にして、人間の記号処理能力には限界があり、文化という象徴資源もまた無限ではないということにある。人間の有限性と文化の資源としての有限性という二つの限界が立ち現れることになる。他方、人間とその文化の固有性・単独性を前にして、機械にはそれに計算論的に無限に漸近することしかできないというアキレスと亀のパラドクスに似たアポリアが横たわっている。このとき、文化と人間の双方において資源と受け手のインテグリティ(全一性)そのものを破壊して機械論的プロセスに組み込みたいという誘惑が生まれる。
 産業資本主義が「有限な自然」をまえにゆきついた矛盾とまったく同じタイプの限界が「人間と文化の有限性」を前にした文化資本主義にも待ち受けているのである。

情報の再組織化と知識社会

 しかし、最近の「情報社会」をめぐる世界的な論議を見ると、微分化と指数関数化による情報の無限拡大という主張は後退期を向かえている事が分かる。現在のキーワードは、「情報」ではなく、「知識」や「信頼」というタームへと重心が移動している。「ウェブ2.0」をめぐるマーケティングを基調とする論議も、大きくいえばこうした重心移動を示すものだ。微分化や脱文脈化が経済的「価値」を生みだすという局面から、むしろ「積分化」へ、マクロな文脈の確保へ、ひとびとが自らの固有な生を組織化することができる意味環境へ、信頼の醸成や文化的環境の構築へ、文化的価値の創出へと向かう方向こそ、今見えてきている情報社会の近未来なのである。
 ディジタル・メディアにおいて顕著になってきているこうした傾向は、テレビを典型例とするディジタル化しつつあるアナログ・メディアにも影響を与えないわけにはいかない。テレビのディジタル化やテレビとネットの融合などにすでに現れてきているように、ディジタル技術化はアナログ・メディアの前提的な相関項としての「マス(大衆)」の成立を不可能にしてしまうからである。近い将来、「マス」など存在しないというまでに情報化が及ぶことが予測されるからである。
 「微分化=クラスター化」と「積分化=固有化」という二つのベクトルが存在するのみである。情報が飽和し、「広告」が成立しない世界がそこには広がってきている。今日のテレビに顕著な「話題消費」や「バラエティ化」、「リアリティ・ショー」といった人間文化の「脱—文脈化」のジャンルにしたところで、今しがた一端を示した計算論的な思考実験にかけてみれば、テレビという文化産業の「延命」としての意味しかもたずその命脈はすでにつきていることはすでに明らかなのである。
 文化資本主義の未来を考えるならば、人間の象徴資源を枯渇させるのではなく、「文化」にせよ「人間」にせよ、そのインテグリティを維持し発展させる方向へと情報技術の活用をシフトさせるべきであることは、長期的視野をもつ者なら誰の目にも明らかなのである。

●「持続可能(サステーナブル)な情報社会」

 環境問題から補助線を引くと、この間の議論は理解しやすいだろう。資源の有限性からの発想、環境という「生の文脈」のインテグリティの意識、品質表示など商品の反省的次元の重視などが生きる環境の積極的な価値を生みだしてきた。
 同様のことは文化環境や情報環境をめぐって、情報メディア産業に対して同じタイプの問いを引き寄せるのでなければならない。人間の心的リソースを無尽蔵な資源として想定し、そこから無際限に「利益」=「関心」を引き出せると想定することはもはや不可能な段階にメディア技術の進歩は来ている。
 オープンソースやウェブ2.0の議論に表れているにように、ディジタル・メディアは公開性や環境をキーワードに進化をとげていくことが見えてきている。アナログ・メディアであった文化産業もまた産業としての生き残りのためには同じような変容を遂げる必要があるだろう。テレビ番組のメッセージがどのような成分から成り立っているのか、どのように私たちの「生活圏」に働きかけているのか、そうした「成分表示」を、「リフレクティヴなモーメント」として組み込んだ番組こそ「信頼」を受ける番組となるはずだ。再帰的なモーメントこそが、環境の意識的な使用を可能とし、人びとの「生の文脈」を構成することを許し「文化」を醸成することに役立つのである。
 歴史的に回顧するなら、「活字的公共圏」の成立もまた、移動可能で大量に複製を可能とするテクノロジーとしての可動的活字による情報テクノロジーの革命が生みだしたものであったはずだ。そこからうまれる情報の流通を「公開」し、等しく「共有」するプロセスとして「公共空間」は生みだされ、それが「ジャーナリズム」の歴史的発明につながっていった。
 ならば、「ジャーナリズム」や「公共性」をめぐる議論は、歴史的に確立された「規範意識」を継承し守るという受け身の議論から、ジャーナリズムや公共性の発展こそ情報産業社会の発展につながるという積極的な議論の構図へと転換されてしかるべきであろう。マクロな視点に立てば、ジャーナリズムの規範的価値と情報産業の経済的発展とは矛盾しない。むしろ、逆である。
 したがって「文化資本主義」には二態あるのであって、文化をエントロピー化し次々と市場に投げ入れることによって、消費するタイプの文化資本主義の社会と、文化を生きるべき環境として維持可能(サステナブル)なものとしてそのインテグリティを担保し維持していく文化資本主義社会とが存在することになる。 具体的にいえば、アメリカ型のネオリベラルな情報資本主義と、フィンランドなどにみられる北欧型の情報社会モデルの対比ということになるだろう。
 それは「消費者」から「市民」をつくりなおす情報回路をつくることでもある。テレビをはじめとするメディア産業の発達のためには「公共放送」による情報秩序の担保が必須であることの理由はそこにある。
環境基準に適応できない企業が淘汰されたように、文化資源の有限性を自覚しないメディア産業は淘汰されていくことになる。それこそが、「持続可能な情報社会」の要求を必然化するものである。情報から知識へ、知識から文化へと組織化された生きうる環境を支えるテクノロジーへと譲歩技術の社会的使用を変えていくことが現在の文明的な課題なのである。

テレビ国家の行方

 文化資本主義の二つの方向に関する迂回的な議論を経てきたことには理由がある。
 情報資本主義や文化資本主義をどのように統御していくのかが、二十世紀をとおして実現した「福祉国家」による産業資本主義の統御と同じほどに重要な、私たちの社会にとって死活的なイシューであるからである。本連載の第四回で取り上げた「象徴的貧困」や「生存の耐え難さ」が、象徴支配や暴力の問題として浮上してきた世界に私たちは住んでいるのである。
 「テレビ国家」はある意味では、歴史的な所与である。政治を成立させるメディア的な基盤が、活字圏をはなれて映像圏へと移行した二十世紀以後の世界で、「国家」が「テレビ国家」へと変貌していくことは技術文明論的には不可避的なプロセスだからだ。
 同様に、「ポスト・デモクラシー」もまた、この表現が、近代的な意味での活字的デモクラシーの終わりを意味するのだとしたらこれまた歴史的な所与である。問題は、ポスト・モダン論争においても繰り返されていたように、「ポスト・デモクラシー」状況において、「デモクラシー」はどのように再発明されうるのかという点にある。これが、本稿がいう「ポスト・デモクラシーの条件」である。

 ● 日本の「改憲問題」

 「テレビ国家」や「ポスト・デモクラシー」の問いが、緊急性を帯びた深刻な問いとして、現在私たちの前に浮上してきているのは、とくに私たちの国において、これらの問題が集約的に、しかも、残念なことに最悪のコンビネーションにおいて立ち現れてきているからである。
 私たちの国においては、コイズミ政権の成立とともに、二十一世紀になって日本型福祉国家による分配政治の衣を脱ぎ捨てるかたちで、経済不況に沈んだこの国をネオリベラリズム的に「改革」するために「テレビ国家」は姿を現した。この「テレビ国家」の政治と共振したのは、前段で第一の部類に分類した「野蛮な」文化資本主義に属するテレビ産業であり、経済の「規制緩和」だけでなく、文化のエントロピー化が進められている。情報資本主義の進行、ポストフォーディズム産業社会化は、この国における「テレビ国家」の進行と軌を一にしているのである。プチ・ナショナリズムや2ちゃんねる現象など「象徴的貧困」の進行もそこから発している。そして、「テレビ国家」が始めたのは、まさしくテレビ政治を駆使することによる「立憲主義」のなし崩し的な無効化だった。
 さらに、まったく同じタイプのメディア権力の戦略の延長上に登場しようとしているのが、クラウチのいう「デモクラシーの放物線」のボトムの価値観を体現するような安倍晋三の政権である。そして、あからさまに、教育基本法や憲法といった基本的な価値にまで手をつけようとしているというわけなのである。しかし、そのような方向が何をもたらすかに関しては、すでに他の諸国において結果は出ている。こうした動きを除去することこそ、この国の人々の福祉と経済の知識産業的発展に通じることは私には自明と思える。

 ● ポスト・デモクラシーの条件

 現在、私たちにもとめられているのは、「テレビ国家」をとらえうる「テクノロジーの文字」を含むリテラシーを醸成することであり、「知識」や「信頼」をベースとした情報社会の「公共的な再組織化」へと向かうことであり、情報資本主義の市場原理を調和的に統御することであり、文化を持続的に維持しうる意味環境をデザインすることで産業を育成することであり、「ポスト・デモクラシー」の状況の中から、近代的な立憲主義を拡張しうる政治原理を「構成(constitution=立憲)」することであるはずである。

 それはもちろん、安易な政治マーケティングに依拠し、バラエティ化したテレビ露出によって権力を奪取した安っぽく危険な「美しい国」とはまったくちがう、新しい世紀の私たちの「政治」の本質的な課題なのである。