2006年10月1日日曜日

「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 2006年10月号, pp. 104-112

テレビ国家(4

内面化されるネオリベラリズム 

           

 テレビ国家は、ひとびとの生活世界にじかに根ざしたシステムである。親密圏における意識と欲望の発生の根元から、テレビ的コミュニケーション圏は<市場>と<主体化>とをシンクロさせつつ成立している。視聴者が“自由”にチャンネルを選択してテレビを見ることは、そのまま“自由”な消費者として市場との関わりで自己を<主体化=従属化 subjection>することと連動しているからだ。現代では「情報生活」と「消費生活」とが親密圏においていつも結びついている。自由な個人のレギュレーションと、テレビ国家における政治的な主体化はどのような関係にあるのか、情報社会における“自由な個人”たちの「統治」が問われなければならない。

1 社会は存在しない

 「社会などというものはない、あるのは個人としての男女であり家庭である」とはマーガレット・サッチャーの有名な言葉だ。そして、民営化したテレビの時代について記号学者ウンベルト・エーコが言う「ネオ・テレビ」期のテレビが映し出しているのはサッチャー流の「社会などは存在しない」ネオリベラリズム化した世界だ。
 あきらかに社会的な貧困のなかで生まれ、奥深い地方の生活から流れだして転々とした生活を送り、恵まれない結婚生活や異性関係の過程で子供殺しや嬰児殺しへと迷い込んでしまった女性たちをめぐる最近の幾つもの事件、老人や子供の虐待や殺人・・・、事件の行間をやや注意深く読めばだれにでも分かりそうな「世界の悲惨」を前にして、私たちの「タブロイド版」化したワイドショーや報道番組が切り出して見せるのは、「容疑者」たちの「個人としての男女や家庭」の愛欲や虚偽や憎悪をめぐる洪水のような報道である。
 「司法」もまた存在していない。被害者の「手記」や「記者会見」をセットし、「復讐」を語らせ、ただ情緒的な被害者への共感をのみ増幅する報道は、「勝ち/負け」のゲームのように裁判結果をコメントさせるやり方である。それは本当に「被害者の権利」を擁護することに通じるのか。そもそも「法の支配」とは何なのか。そのような情緒報道の果てに、「日本の司法はおかしい」(みのもんた)などと無根拠に発言する司会者の、「私」の「公化」を見れば、テレビ的コミュニケーションが、「個人として」対象や発信者をクローズアップすることで、「公共的生」(つまりは、政治や司法の成立基盤そのもの)の何を変質させてしまっているのかが分かろうというものだ。
 「社会」はいまや「事件報道」を通してしか像を結ばず、ポジティヴであれネガティヴであれセンセーショナルな「話題」の集合にすぎない。テレビ・コミュニケーションは、公共テレビの「パレオ・テレビ期」においては、テレビの外に措定された「世界」を表象するための媒介活動であったが、「ネオ・テレビ期」には、じかにコミュニケーションの「接触」において「世界の時間と出来事の意味」を供する経験へと位相が変化することになった。ワイドショーなどの情報バラエティにおいては、「ニュース」とは「事件」の意味を情緒的に共有し消費する経験へとテレビの視聴経験が変化したのである。

 <小さな物語>に解体される社会
 このような報道が重ねられると、「社会」が奥行きをもたずいかなる「遠近法」をも失った、「世界の話題マップ」のなかでひとびとは生活するようになる。「社会」や「世界」は、テレビの外にある「現実」としての大きな統一的文脈をまとまりとするのでなく、その場その場でのアドホックで局所的な指示と情緒的な感想の表白という脈絡を欠いた非連続なまとまり方をもつようになる。それらの分節化はすべてテレビカメラの自動的な動きに任せて、人びとは提示されるバラバラな「事実」のみについて断片的な感想を持つことを繰り返すようになる。
<社会>の表象を束ねていた「大きな物語」の枠組みが喪失し、「話題」をめぐる「小さな物語」の無数の集合があらわれる。「大きな物語」による統合から、「小さな物語」による「統御」(コントロール)へ。 社会という<大きな物語>の文脈から語ることが終わったポスト・モダンな世界で、<小さな物語>、<個の物語>がどめどもなく消費される。メディアは<社会的判断力>を失っていく。

 「社会は存在しない」。ネオ・テレビ化したテレビが行っているのは、「社会」の統一的表象の解体なのである。

 もちろん、テレビだけが<社会>の表象を失ったのではない。“現実”の社会自体が空間的にも時間的にもその遠近法を喪失している。生産と労働の時間を非連続化し、つねに消費の視点から生産と労働を調整する「自由化」に、人びとの生の見通しは切り裂かれている。「個」として変動相場のなかに投げ出されているのだ。そのような「個」にとって、自分を「原理」として受け止めてくれる「社会」などどこにもないのである。

2 「意識の市場」としてのテレビ

 現在起こっている「社会」表象の解体現象を理解するために、ここでひとつの仮説を述べてみたい。メディアからも人びとの意識からも「社会」が消去されたのは、人びとの「意識」が別の有り様をするようになったからではないのかというものである。
 それは、かつては階級や階層や国民や歴史といった社会表象の枠組に捉えられていた「意識」が、「市場」に投げ入れられたからではないのか。「意識の市場」が生みだされ、それが「社会」を消去するようになったからではないのか。そして、まさしく、テレビこそ「意識の市場」を生みだす中心的な「文化的」および「産業的」— すなわち「文化産業」的な— 装置なのである。
 民営化されたテレビの時代である「ネオ・テレビ期」には、「テレビ」は「意識の市場」となった。この事実を、「ハイパー産業時代」論、「象徴的貧困」論で注目を集めている現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは次のように述べている 。「(テレビ番組のような)番組産業が販売しているのは、番組であるのではなくて、広告画面のための視聴層である。番組は販売すべき意識を引きつけるためにある。この市場においては意識一時間分は高くない。国内一般テレビ局が19時50分から20時50分の時間帯に1500万人の視聴者を実現するとして、300万フランの広告料としよう。視聴者の意識の市場において、一意識あたり一時間20サンチームという計算になる。」視聴者であるあなたの一時間分の意識を、わずから4円足らずで買い取りますというわけである。
 もちろんこれほど生(ルビ:なま)なかたちでじっさいのテレビ放送において売買関係が成立しているわけではないが、この議論の狙いは、テレビにおいて番組を視聴し「話題を消費すること」が、そのまま「意識の市場」に組み込まれることなのだと示すことにある。テレビ番組の「視聴者=消費者」となるのはテレビという「意識の市場」の行為者となることであり、ということは同時に「意識の市場の論理」を「内面化」することでもあるわけだ。
 そして、まさしくテレビの「視聴率」とは、このテレビという「意識の市場」における商品としての「番組」の価値を示す指標にほかならない。
 スティグレールに従えば、テレビの「意識の市場」とは「メタ市場」である。なぜなら、そもそも「市場」を構成するのは、商品を欲望するもとになる人びとの「意識」であるのだが、「意識の市場」とは、その「意識」自体を「売買する」市場だからだ。
 「コンテンツ産業」と今日では呼ばれたりもする「文化産業」が現在の資本主義にとって最もコアな産業分野となりつつあるのは、まさにこの意識を生みだす産業という性格ゆえである。政府のIT戦略会議において展開された議論を思い返してみればよい。この「意識産業」としての重要性ゆえに各国で文化産業の育成が叫ばれ、テレビ局の買収劇が繰り広げられているのである。これをスティグレールは意識自体を生産する「ハイパー産業資本主義の時代」と呼んでいる。

 意識の<文化=産業>装置

 テレビがなぜ「意識の市場」の成立にとって中心的な文化的=産業的な装置なのかという原理については、長い説明が必要になる。ここではごく簡潔に、その骨組みを提示しておくことにしよう。(やや抽象的な現象学や記号論の議論が含まれるが、原理的なことなので少々辛抱してお付き合いいただきたい。)
 そもそもテレビとは、レコードや映画やラジオといった二〇世紀が生みだした他のアナログ・メディア技術と同様、「時間対象」の再生技術である。「時間対象」とはフッサールの現象学の用語で、メロディーのように、対象それ自体が時間性を帯びた知覚対象のことである。意識は時間性を通して自己を構成するのだが、例えば「ド、レ、ミ」というメロディーのような時間性を帯びた対象を知覚するとき、その「時間対象」をとおして「聞く意識」は構成される。つまりメロディーを通して「意識」が生みだされるのである。
 二十世紀のメディア・テクノロジーは、同一の「時間対象」の経験を無数に再生し反復することを可能にした商品を生みだし、同じ演奏、同じ運動をそっくりそのまま再現することが可能になった。レコードやCDや録画ビデオやDVDといった「時間的商品」である。それによって、同じ<意識の経験>を大量に産業的に作り出すことが可能になったのである。
 そして、同時性のメディアであるテレビは、そのような「時間的商品」を人びとの親密圏に日常的に送り込むことによって、人びとの「意識」を刻々とつくり出しているテクノロジーなのである。
 テレビ放送によって、社会人口の相当な割合の人びとが、視聴者として同一のテレビ番組を通して自分たちの「意識」を構成し「シンクロ」させるということが起こってくる。こうした人びとの意識の「ハイパーシンクロ化」こそ、「文化産業」という「意識産業」が行っていることなのである。
 その観点からも、どのメディアにもまして「時間のメディア」であるテレビにおいては「番組表」が何よりも重要である。このダイヤグラムを通して、テレビはひとびとの「生活時間」とシンクロし、人びとの「話題」や「意識」をコントロールし整流しているのだ。しかも、「番組表」とは、「話題(トピック)市場」であり、世の中の「話題(トピック)」を通して、視聴者の「意識」を、世界を意味づける「主体」として構成するマッピングの働きをしているものでもある。

 〈個別支配〉と〈主体化のモジュール〉

 さて、以上が、テレビにおける<技術>と<時間>および<意識>との原理的な結びつきのあらましだが、テレビ・コミュニケーションには、さらに固有な次元が関与している。そのインターフェイスとはどのようなものなのか、そのメカニズムを確認しておこう。
 じっさい、「時間的商品」を通して「意識」を作り出すことはレコードでもCDでもビデオ・ゲームでもできることなのだが、そのレベルでは「意識」は「何かについての意識」であっても、意識はまだ「人称」でも「主体」でもない。ところが、テレビは、そのコミュニケーションを通して「主体」を作り出す働きを持っている。そこには、固有の「意識のポリティクス」が働いていて、技術的に作り出された意識を、人称関係のなかでシンクロさせて視聴者としての「私(=主体)」を生み出しているのである。その「主体化」のメカニズムを、私はテレビによる<個別支配>の原理と呼ぼうと思う。
 テレビの同時性コミュニケーションにおいては、スタジオからキャスターやタレントが視聴者との一・二人称の擬似的対話や関係の場を実現し、視聴者の意識をテレビ的コミュニケーションの<いま・ここ・私たち>における主体として構成する仕組になっている。
 視聴者の側は、あくまで個人を見て接触していると感じているが、番組を送っている側は、視聴者の「数値的分布」に向けてメッセージを送っているという関係がそこにはある。個々の視聴者はその分布のなかからサンプリングされ、またプロファイリングされるべき存在なのである。テレビのダイクシス(=いま・ここ・私たち)をとおして成立する「主体化」には、このようなプロファイル化—サンプリング化のプロセスが関与しているのであって、決して個人対個人、一つの主体対別の主体のような個別の同一化の関係があるわけではないのだ。
 どんな相手に対してもあたかも「個別のコンタクト」を実現しているかのような仕組みを配備することで、視聴を通して構成される「意識」を、「視聴する私(=主体)」(そして、間接的には「消費する私(=主体)」)へと変えていくこと、番組コミュニケーションにおいては、このような<主体化のプロセス>がモジュール化されているのである。
 テレビにおいて視聴はいつも「個別の対象」に触れているという経験を前提としている。しかし、「個別」を視る側をサンプル化しプロファイル化する原理がつねにそこには働いていて、それこそが「あなた」の「意識」をコミュニケーションの「主体」として構成するようになる。<個別(idios)>による<支配>が、テレビによる<意識のポリティクス>を形づくっているのだ。
 視聴者は「意識」においては番組と「同期(シンクロ)」しているが、「主体」としてはプロファイル化され管理可能な存在となるのである。「個別」の論理によって主体としての「単独性」の「代補」がおこなわれる一方で、「時間表」にもとづく「人口」のクラスター化、「話題」にもとづく視聴者のサンプル化—プロファイル化のプロセスのなかに位置づけられるようになる。
 そのようにして「番組」とは、「人口」を親密圏において「管理」する「主体化のモジュール」の役割を果たすこととなる。テレビが、ドゥルーズがいう「管理社会」の権力に近づくのは、このような側面によってである。「イメージの個別性」および「コンタクトの直接性」が、この意識をコントロールする力の抽象性を見えなくさせる。これをテレビの「個別支配」と呼ぶこともできるだろう。 人口の「生活時間」に働きかけることによって「意識」をシンクロさせて生みだし、「意識市場」の主体としてモジュール化していく。テレビの生活は、消費者としての意識を産み出し管理する「生政治」(フーコー)へとたどり着くことになるのである。
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 以上のように「消費」という観点からテレビを眺めるならば、テレビが人びとの「意識」を「話題」や「関心=利害」にしたがって生みだすというという、世界の出来事や社会を伝えるジャーナリズムとはまったく異なる様相が見えてくるのである。そのようにテレビが「意識の市場」として機能しはじめるとき(それこそが、エーコのいわゆる「ネオ・テレビ期」だが)、ひとびとは、<小さな物語>の話題消費のなかに、テレビ・コミュニケーションの<ダイクシス(=いま・ここ・私たち>装置をとおして閉じ込められ、三人称で語られるべき<世界>や<社会>に背を向けることも理解されてくる。テレビ・コミュニケーションは、そのようにおしゃべりに近づけば近づくほど、その論理的射程は縮小され、内輪の世界に人びとの意味生活が閉じ込められるようになる。そのようにして<世界>は覆い隠され、<社会>は消去されるようになるのだ。

政治マーケティング

 人びとがテレビを通して「意識の市場」に呑み込まれるようになったとき、「政治」もまた「意識の市場」の外にあることはできなくなる。政治はもはや「社会」のなかにある「意識」に働きかけるのではなく、テレビという「意識の市場」を通して働きかけるようになるのだ。そのとき、テレビ国家の「政治」は「政治マーケティング」と区別できなくなる。政治マーケティングとは単なるPRや説得の技術であると言うことは、もはやできなくなるのである。
 例えば、目下フランスで「左のポピュリズム」として「人気上昇中」のフランス社会党セゴレーヌ・ロワイヤルの政治戦略は、「参加型フォーラム」を自身の政治運動サイト「未来の欲望(http://www.desirsdavenir.org/)」内に開設し、寄せられる意見をもとに「最大公約数」的な政策を練り上げ中間層の票を獲得しようというものだ。有権者の「意識の市場」をマーケティングし、その結果にもとづいて「政策パッケージ」を作りだし、候補者をプロモートしていく作戦が、政治家としての実績が貧弱で実力が「未知数」という候補の「人気」を押し上げていく。
 政治家のバラエティ・タレント化、サウンド・バイトの多用やワンフレーズ・ポリティクス、話題作りによる物語化の演出、政策を商品に選挙運動を企業コミュニケーションに例える広報戦略、危機管理、など、こんにち各国で猖獗を極める政治マーケティングの技術のすべては、このようにメディア社会の「意識の市場」に働きかける技術なのである。この「意識市場」に向けて、「政治をプロデュース」するためには、「物語」、「キャラ」、「交話能力」などのコミュニケーション資本が必要である。政治とはやがてマーケティングと等価になり、政治家はそのようにして「プロデュース」されるようになる。 
 世論調査で「支持率」を上げる技術は、「視聴率をとる」技術と相同視される。「消費」のための「意識市場」と「政治意識の市場」とが相同化していくのである。じっさい、そのようになれば「政治」を行うのは広告代理店である。
 このような方式が定着すると、「市場」の「原理」を、「市場原理主義」=「ネオリベラリズムの政治」に書き換えることこそが「政治」となる。「ネオリベラリズム」とはその意味では「意識の市場」そのものの政治表現であるともいえる。そこでは、「政治」の「消費文化」化、さらには「民営化」さえ視野に入ってくるのかもしれない。
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 消費者の「意識の市場」に働きかける政治は、不可避的に、空疎なナショナリズムを伴うものとなる。なぜなら、メディア・コミュニケーションを通してダイクシスの「いま・ここ・私たち」を無前提的に肯定することが、消費的政治コミュニケーションのプロトコルとなるからである。ひたすら情緒的な共感のためにのみ作動する共同体主義、記憶を喪失したご都合主義、<世界>や<社会>に背を向け、「共感」を「ダイレクト」に共有し消費しようというベクトルが増幅されていく。じっさい、現在のこの国のナショナリズムは、「スポーツ番組」化したナショナリズムである。
 「小さな物語」ネタから「単純化した大きな物語」を「個」を媒介として組み立てる「陰謀史観」や、「セカチュー」的な情動のエコノミーが、「わたしたちの世界」を無媒介的に増幅する。「プチ・ナショナリズム」(J. デリダ、香山リカ)とは、消費されるナショナリズム、マーケティング化されたナショナリズムである。

テレビ国家の「不安」

 最後に、以上のようにややペシミスティックに描きだされる以外になさそうな「テレビ国家」の荒廃した精神状況だが、そのように「産業的に生みだされ」、「意識の市場」に投げ入れられた「政治理性」と「主体」そして「意識」の行方を考えてみよう。
「政治理性」の危機
 いうまでもなく、これまで描いてきたテレビ国家における「意識のポリティクス」が浮かび上がらせるのは、政治理性の深刻な危機である。「意識の市場」のなかに「政治」が融解するということは、政治理性そのものが、消費の意識に縁取られ、しだいに、話題や物語やドラマとして「消費」されていくことを意味する。そこから帰結するのは話題がたえず変動し短期的な波動を繰り返す現象であり、過剰で無根拠な崇拝とバッシングが短期間に交替する不安定な心理状況であろう。
 じっさい、イメージの「個別支配」の論理に貫かれ、一般性—理念性が消滅した社会においては、「個」を崇拝することと「個」を攻撃することとは同じ現象の二つの側面である。「個」しかない世界においては、人(person)」と「機能/役割(function)」を区別したり、事象の社会性を判断する能力が後退していく。不満はすぐに攻撃性に転化し、「バッシング」が横行するようになる。
 「歴史」を「話題」の集合へと書き換えることによって、時間の遠近法がくずれ、ひとつのトピックの「焦点化=盲目化」による歴史のブラック・アウト、「歴史修正主義」のような病理が目立つようになる。上に見たような「小さな物語」を大量消費する社会となっていくのである。

 「社会的自己」の喪失

 他方、「社会」のなかで「自分」の場所を失った、社会的自己の表象の「排除」が一般化した社会が待ち受けている。
実際の社会生活のなかでは、ポストフォーディズム資本主義の労働へと差し出し、消費者の「虚焦点」から「自分」を「主体化」することをたえず求められる「魂の労働」(渋谷望)の主体であり、他方、労働を終えて親密圏に引き籠れば、テレビをとおして「社会を視る」ポジッションが「消費者の虚焦点」からしか構成することができない「表象なき自分」こそ、ポストフォーディズム資本主義の社会的行為主体である。「個」に解体され、「社会など存在しない」とされる「社会」にあって、「自己責任」の前に投げ出されつつ、自己の置かれているポジションが社会の中に表象をもたないという状態こそ、社会的表象なき人びとである「負け組」に用意された「表象の地位」なのである。

 「象徴的貧困」の時代

 人びとが象徴的リソースを枯渇させていくという、ベルナール・スティグレールの言う「象徴的貧困」が、「文化産業」が隆盛する世界で進行する事態である。現代人は、情報やメッセージやイメージなどの「象徴」が産業テクノロジーによって生産されコントロールされるようになった意味環境に生きている。ところが、映画・音楽産業にせよ、テレビにせよ、インターネットにせよ、イメージや情報の産業的な氾濫のなかで、現代人は固有な欲望や想像を生み出す象徴の資源や生のエネルギーをむしろ枯渇させてしまっているのではないかと、スティグレールは述べる。「象徴的貧困」とは、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった「世界の悲惨」を指す言葉である。
 今日の世界は「文化産業」が「消費者」の「意識」そして「記憶」を生み出す「ハイパー産業の時代」であるとスティグレールは言う。映画、テレビ番組、音楽CD、映像DVD、あるいはiPodなど情報端末に配信されるコンテンツのかたちで文化産業が流通させるのは、上に述べてきたように「時間」をそれ自身のうちに帯びた「時間商品」である。それらの時間的商品においては、購買者の「意識」自体が「商品」の「時間」によって構成されるようになる。現代人の生活がこうした産業品に依存すればするほど、ひとびとは自分たちの「意識」をそうした「商品の時間」をとおして構成するようになる。「消費者」としての「欲望」が産業的に生み出され、人びとの意識自体が「市場」と化す。
 そして、テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとすればするほど、消費社会が人びとの欲望を喚起すればするほど、人びとは逆に欲望や想像を自己のものとする契機を次第に失っていく。自分自身の欲望が「みんな」と同じものでしかない、自分自身の特異性の感覚が失われていく。そんなふうにして「ほんとうの自分」が失われてしまう。そして究極的には、欲望自体が「萎えて」しまう。そして、人びとは退行し衝動に身を任せることにもなるかもしれないともこの哲学者は述べている。
 欲望をベクトル化するマーケティング技術、ユーザー・プロファイリング、消費資本主義のテクノロジー全体が、人びとをそのような「象徴的貧困」へと導いている。 ハイパー産業の時代では、想い出さえもが「シンクロ」してしまう。カラオケやポップソングを考えればよい。自分たちの「過去」が、文化商品が生み出した「意識」によって構成されていく。
 文化産業によって「生みだされた」イメージに大量に曝されることによって、つねにすでに「既成のイメージ」しかなく、「消費」以外に「自分の像」がない世界。マーケティングによるリビドーの搾取からリビドーの枯渇へ「存在」の「耐え難さ」が露呈する!ようになるのである。
 「テレビ国家」の成立は、こうした全面的にメディア化した「市場」の世界に「国家」も「政治」も融解する段階を迎えていることを示している。

「高度情報化社会が抱える「象徴的貧困」という問題」、季刊Anywhere No. 08, autumn 2006、NTT DoCoMo Mobile Life Communication Magazine, pp. 09-10

高度情報化社会と「象徴的貧困」


0. イントロ

 現在、私たちの社会は「情報過多の時代」と呼ばれるほど、様々な情報に満ち溢れている。新聞・雑誌・ラジオ・テレビといった従来のメディアに加え、Eメールやブログ、ケータイやiモードといった新たなコミュニケーション・ツールや情報通信機器が続々と登場してきたことで、情報量もコミュニケーション量も爆発的に増大した。
 デジタル・メディアの展開は、「情報」や「文化」を産業の基盤とした「文化資本主義」の時代の到来を告げているかに見えるが、社会の深部では、意識や欲望の基盤を掘り崩すような、「人間」の危機が進行している。情報が溢れるほど、その情報に対する不信感や不満が増え、日々のコミュニケーションから「リアリティ」が消滅していくような飢餓感を覚える人が増えるという現象が起き始めている。「消費」という活動自体が成立しない時代の到来を告げているとさえ考えられる。いったい何が問題なのか、高度情報化社会における「象徴的貧困」と呼ばれる問題を考えてみることにしよう。

1. 文化資本主義の時代

 二十世紀が生みだしたアナログおよびディジタルのメディア技術は、人々の「意識」や「意味」の活動を「微分化」して計算処理することによって、「価値」を生みだす産業テクノロジーをもたらした。
 産業資本主義であれば、「自然」を資源として商品を生みだし、その加工による「差異」を「価値」として成立する産業経済であった。ところが、現在の情報資本主義は、「文化」や「意識」を資源として「文化商品」を生産し、「欲望」を生みだし「消費」を誘発するという、「文化資本主義」の様相を深めている。
 ところが情報社会の社会的ステークについては、「ウェブ2.0」にしても、「グーグル」問題にしても、情報秩序の問題にしても、テレビ放送の再編やディジタル化にしても、公共放送の問題にしても、文化産業の振興にしても、バラバラな産業的技術的な問題として語られても、「市民社会」の側ではそれが社会にとってほんとにどのようなステークをもたらしているのかについて本質的な問いかけを受けることは少ない。
 これは極めて危うい状況である。テレビやネットなどを通じて、人びとの意識に働きかけ生をコントロールする情報資本主義の全面化こそ、現在の世界を支配している力だからだ。
 歴史的に振り返れば、一九世紀末に電話が発明されてから、人間のコミュニケーションや情報の伝達は「計算が可能になった」といえる。原理的には、電話線でつながることで計算で処理できる(デジタル化)コンピュータができ、現在のケータイのようなモバイル・メディアまで発展してきた。情報テクノロジーの発展で、私たちが扱う情報量は飛躍的に増大したが、ここで問題なのは量的な増大ではなく、どういう情報が、どのような増え、人びとの意識生活にどのような影響をもたらしたのかという点にある。

2. 微分化される時間と意識

 現在、私たちの情報テクノロジーは、「ビット化」することで成り立っている。数学的に言えば、「微分化」だが、私たちの生活の時間は、非常に微細な微分化が進んでいる。ここでキーワードは「時間」である。メディアとは「時間」の「微分」テクノロジーである。人間の「意識」は「時間」にもとづいて構成されるものだから、メディアによって人間の意識も微分化を受けるようになる。
 昔なら、それぞれの個人の生活に朝があり、昼があり、夜があるという〝ざっくりとした時間〟の流れがあり、人間の意識の生活は、どこか牧歌的であったともいえる。ところが人間の意識の生活を一変させたのは、リアル・タイムのメディアである。
 例えば、テレビというメディアが登場すると、個々の番組で時間が分割・細分化され、私たちの社会生活の時間もテレビ番組に合わせるように分割されていった。
 テレビは人々の時間をマネージするメディア特性があるから、これまでの朝とか午前という時間の概念も、一〇分、三〇分、一時間といった番組をいくつ観るかという組み合わせで成り立つようになった。映画やテレビは、人間の知覚を一秒あたり20数コマに微分することから、逆に意識を構成する技術である。テレビの後に登場したケータイのようなモバイル・メディアは、「隙間の時間のメディア」で、テレビの三〇分、一時間という番組よりもさらに微分化され、電車を待つ数分間という時間まで情報を取り入れるために使用でき、生活に組み込むことができるコミュニケーション装置である。このような情報機器に囲まれることで、人間の生活時間のほとんどすべてが、情報の微分テクノロジーのプロセスに組み込まれて「意識」が人工的に生み出されるようになった。これは同時に人間の生活全体が「情報量」として技術的および経済的に扱えるようになったことを示している。

3. 「情報過多」と「象徴的貧困」

 一日二四時間という人間の生活の時間は変わらないが、組み合わせや選択肢が増えることで、ひとちの個人が扱いうる情報量はたしかに飛躍的に増大した。情報機器による「処理能力」に応じて爆発的に増加したといってもよい。
 これは時間が「微分化」し、量的に扱える情報が増えたことが、かえって人々が処理しきれないほどの「情報過多」という問題を招いたということでもある。しかし、情報の「選択可能性」が増えたことが問題なのではなく、「どのような情報」が増えたのかという「情報の質」が問題である。
 モバイルというと「空間」とか「移動」という側面に着目されだが、実は、「時間」を微分化するというメディア特性が強い。時間を微分化するテクノロジーを人類が手に入れた時、それを何に使ったのか。この点は、反省すべき点が多いといえる。
 じっさい、モバイルを片手に、地下鉄にのってケータイ画面を凝視しつつ都市空間のなかを移動していれば、見知らぬ光景や他者たちに出会うことなく、自分の「既知の世界」に閉じこもって、自分が必要とおもう「既知の情報」をさらに「クラスター化」していていくことができる。人びとはそのようにして「情報」を増やし、自己の世界に引きこもり「オタク」化していくことになる。これは既知の情報をさらに細かく砕いていくことに微分テクノロジーが使われていることを意味している。
 情報を質的に高めるよう努めるとか、新たな情報生活やコミュニケーション・モデルを提示することなく、誰でも知っているような知識や情報を「便利」という使い方だけで消費した結果が、現在起きている情報過多の問題で、これが「象徴的貧困」につながっている。「象徴的貧困」とは、もともとはフランスの現代哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった「世界の悲惨」を指す言葉である。
 今日の世界は「文化産業」が「消費者」の「意識」そして「記憶」を生み出す「ハイパー産業の時代」であるとスティグレールは言う。映画、テレビ番組、音楽CD、映像DVD、あるいはiPodなど情報端末に配信されるコンテンツのかたちで文化産業が流通させるのは、「微分化された時間」をそれ自身のうちに帯びた「時間商品」である。
 そのような時間的商品においては、購買者の「意識」自体が「商品」の「時間」によって構成されるようになる。現代人の生活がこうした産業品に依存すればするほど、ひとびとは自分たちの「意識」をそうした「商品の時間」をとおして構成するようになる。「消費者」としての「欲望」が産業的に生み出され、人びとの意識自体が「市場」と化す。
 しかし、テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとすればするほど、消費社会が人びとの欲望を喚起すればするほど、人びとは逆に欲望や想像を自己のものとする契機を次第に失っていく。自分自身の欲望が「みんな」と同じものでしかない、自分自身の特異性の感覚が失われていくからだ。そんなふうにして「ほんとうの自分」が失われてしまう。そして究極的には、「自分の欲望」がどこにあるのかさえ分からなくなり、欲望自体が「萎えて」しまう。そして、人びとは退行し衝動に身を任せることにもなるかもしれないともこの哲学者は述べている。
 欲望をベクトル化するマーケティング技術、ユーザー・プロファイリング、消費資本主義のテクノロジー全体が、人びとをそのような「象徴的貧困」へと導いている。コンテンツによって意識を生産するハイパー産業の時代では、想い出さえもが「シンクロ」してしまう。カラオケやポップソングを考えればよい。自分たちの「過去」が、文化商品が生み出した「意識」によって構成されていく。
 文化産業によって「生みだされた」イメージに大量に曝されることによって、つねにすでに「既成」や「既知」のイメージ」しかなく、「すでに自分が知っている情報」の「消費」以外に「自分の像」がない世界。マーケティングによるリビドーの搾取からリビドーの枯渇へ「存在」の「耐え難さ」が露呈するようになるのである。
 よく「ITで便利になった」などと言われるが、便利になっただけでは真に豊かな情報社会ではまったくない。スティグレールたちがいうように、現在、メディアから伝えられる情報はあまりにも貧困で、社会全体が、幼児化・単純化・均一化し、人々の想像力が失われてきている。
 現代人の多くが、情報量が増し、便利になったと感じている反面、どこか現在の情報社会に「リアリティ」を感じなくなっているのは、そういう背景がある。
 例えば、「2ちゃんねる」のネットの使い方などは、世の中の既知の話題や同じ趣味や主義の共同体意識を微分化、クラスター化しているだけで、こういう使い方は、人の想像力を枯渇させ、情報社会の可能性を閉じてしまう。また情報社会の進行によって、「リアリティを感じない人」が増えたことは、実存的犯罪の増加と、根っこの部分でつながっているといえる。本来、もっと豊かな情報生活が送れるはずなのに、現状は非常に貧しい状況なのである。

4. 持続可能な情報社会へ

 では、こうした「象徴的貧困」の状態から脱して、如何にして「豊かな情報社会」へと転化させることができるのか。
 情報テクノロジーによる「微分化」が推し進めれている現在の状況とは逆のベクトル、人間の意味生活および文化における「意識」の「積分化」の方向に「情報社会」を全面的に組み立て直す必要がある。
 「人間」と「文化」という「有限な情報資源」からの発想がなによりも重要だと私は考えている。
 現在のコンピュータを可能にした「シャノン・モデル」が、「エントロピー量」の計算式によって「情報」を量として扱う計算モデルを確立したことが端的に示すように、現在の情報産業や文化産業は、人間の意味生活一般、さらにいえば「文化」を、微分化しエントロピー化する技術によって産業的に発達してきた。
 しかし、「文化」とは、そもそも微分化とは逆のインテグレーション(全一化=積分化)であり、置き換え不可能な固有の文脈を構成するものであるからだ。個体としての人間もまた、自己に固有な文脈を形成することによってしか、インテグラル(全一の=積分的)な意味生活の主体として自分を構成できない。
 計算モデルにもとづく「人間や文化のメディア産業化」の図式には、一方における機械による情報処理のプロセスと、他方における有限な資源としての「人間」および「文化」とのあいだに超えがたいギャップが存在しているのである。
 人間の情報処理能力には限界があり、文化という象徴資源もまた無限ではない。 産業資本主義が「有限な自然」をまえにゆきついた矛盾とまったく同じタイプの限界が「人間と文化の有限性」を前にした文化資本主義にも待ち受けているのである。
 最近の「情報社会」をめぐる世界的な論議を見ると、微分化とビット化による情報の無限拡大という主張は後退期を向かえている事が分かる。現在のキーワードは、「情報」ではなく、「知識」や「信頼」というタームへと重心が移動している。「ウェブ2.0」をめぐるマーケティングを基調とする論議も、大きくいえばこうした重心移動を示すものだ。微分化や脱文脈化が経済的「価値」を生みだすという局面から、むしろ「積分化」へ、マクロな文脈の確保へ、ひとびとが自らの固有な生を組織化することができる意味環境へ、信頼の醸成や文化的環境の構築へ、文化的価値の創出へと向かう方向こそ、今見えてきている情報社会の近未来なのである。
 ディジタル・メディアにおいて顕著になってきているこうした傾向は、テレビを典型例とするディジタル化しつつあるアナログ・メディアにも影響を与えないわけにはいかない。テレビのディジタル化やテレビとネットの融合などにすでに現れてきているように、ディジタル技術化はアナログ・メディアの前提的な相関項としての「マス(大衆)」の成立を不可能にしてしまう。近い将来、「マス」など存在しないというまでに情報化が及ぶことが予測される。情報が飽和し、「広告」が成立しない世界がそこには広がってきている。「人間」や「文化」を無尽蔵な「欲望」の「象徴資源」とみなす「消費資本主義」も行き詰まることになるのである。
 文化資本主義の未来を考えるならば、人間の象徴資源を枯渇させるのではなく、「文化」にせよ「人間」にせよ、そのインテグリティを維持し発展させる方向へと情報技術の活用をシフトさせるべきであることは、長期的視野をもつ者なら誰の目にも明らかなのである。
 環境問題から補助線を引くと、この間の議論は理解しやすいだろう。資源の有限性からの発想、環境という「生の文脈」のインテグリティの意識、品質表示など商品の反省的次元の重視などが生きる環境の積極的な価値を生みだしてきた。
 同様のことは文化環境や情報環境をめぐって、情報メディア産業に対して同じタイプの問いを引き寄せるのでなければならない。人間の心的リソースを無尽蔵な資源として想定し、そこから無際限に「利益」=「関心」を引き出せると想定することはもはや不可能な段階にメディア技術の進歩は来ている。
 オープンソースやウェブ2.0の議論に表れているにように、ディジタル・メディアは公開性や環境をキーワードに進化をとげていくことが見えてきている。20世紀にアナログ・メディアとして出発した文化産業もまた産業としての生き残りのためには同じような変容を遂げる必要があるだろう。
 環境基準に適応できない企業が淘汰されたように、文化資源の有限性を自覚しないメディア産業は淘汰されていくことになる。それこそが、「持続可能な情報社会」の要求を必然化するものである。情報から知識へ、知識から文化へと組織化された生きうる環境を支えるテクノロジーへと情報技術の社会的使用を変えていくことが現在の文明的な課題なのである。
 象徴的貧困は経済的貧困と同様、市場原理に任せてしまうと、文化のエントロピー化が進行し、人間の象徴資源を枯渇させることになってしまう。持続可能で安定した文化資本主義の発展のためには、むしろ「人間」の意識や欲望を確保し「文化」という象徴資源を担保する活動が必要なのである。
 こうした流れを作るのは、ユーザーではない。ケータイ事業者やプロバイダーといった民間企業やメディア業界、教育や公共機関も含めた情報の送り手である。情報産業の「社会的責任」は大変大きいのである。


【石田英敬・プロフィール】
一九五三年生まれ。東京大学文学部卒業後、東京大学大学院人文学科研究科博士課程中退。パリ第一〇大学大学院博士課程終了。パリ大学客員教授などを経て、二〇〇〇年より東京情報学環・学際情報学府教授。専攻は記号論、情報学。著編書に『記号の知/メディアの知日常生活批判のためのレッスン』(東京大学出版会)、『シリーズ言語態』(同 全6巻)、『知のディジタル・シフト:誰が知を支配するか』(弘文堂近刊)など。