1992年3月1日日曜日

「襞にそって襞を...:詩学のモナドロジー序説」、『ルプレザンタシオン』 (筑摩書房)、1992年春003号、pp.45-52


襞にそって襞を...

詩学のモナドロジー序説

『ルプレザンタシオン』(筑摩書房)1992年春003号、pp.45-52

石田英敬



「主を喪った石肌は襞にそって襞を脱いでゆく」
(マラルメ「ベルギーの友の思い出」)

マラルメの部屋


   そう、マラルメの詩はこれすべてみな襞である。
イジチュールの部屋。暗闇のなか、「時の部屋(la chambre du temps)」の壁掛けはその襞を
静かに暗がりのなかに垂らし、ただランプの仄かな光が、テーブルの上に開かれた書物の頁を蒼白く浮かび上がらせている。<真夜中(Minuit)>そのものと化し、裏箔のはげ落ちた鏡の鈍い反映のなかにかろうじて残っているこの部屋の主人の影。やがて書物は閉じられ、主人公は出てゆくだろう。鏡の暗がりが映している壁掛けの襞がつくる「時の回廊(le corridor du temps)」のなかへ ・・・襞にそって襞を(pli selon pli..) ・・・辿りつつ


Inutile, de l’ameublement accompli qui se tassera en ténèbres comme les tentures, déjà alourdies en une forme permanente de toujours, tandis que, lueur virtuelle, produite par sa propre apparition en le miroitement de l’obscurité, scintielle le feu pur du diamant de l’horloge, seule survivance et joyau de la Nuit éternelle, l’heure se formule en cet écho, au seuil de panneaux ouvers par son acte de la Nuit: “Adieu, Nuit, que je fus, ton propre sepulcre, mais, l’ombre suirviante, se métamorphosera en Eternité.

あるいはまた、「ことばについての研究」から取りだされ、ことばの意味生成の順序を逆転させ「語自体の内的な幻映」によって意味を生み出そうという試み(” il est inverse, je veux dire le sens, s’il en a un (…), est évoqué par un mirage interne des mmots mêmes.” )として書かれた「無でありながらあらゆる仕方で自己反映するソネ」である、あの「それ自身のアレゴリーとしてのソネ」を思い起こしてもよい  
  Sur des consoles, en le noir Salon: nul ptyx,
Insolite vaisseau d’inanité sonore,
Car le Maître est allé puiser de l’eau du Styx
Avec tous ses objets dont le Rêve s’honore

-XY>を脚韻にもつ、この「誰もなかにいず、不在からなる夜の部屋」の詩においても、部屋の主人は、ことばの謎の襞”ptyx”をとおして冥界へと下ったのである。この紋章の中に紋章を埋め込んだ構造を持つ自己言及詩において、”ptyx”は、シニフィアンの意味生成によってのみ作り出されることばとして、詩のアレゴリーであり、それはやはり決して使われることのない対格のみが存在するギリシャ語の「襞」の語であるべきであったのだ。
少年期の習作集の名『四つ壁に囲まれて(Entre quatre murs)』が示すように、閉域のなかで生まれたマラルメの詩は、世界からの絶えざる隠退、自己の襞のなかへの閉じ込もりとして遂行された。<部屋>が、そこでは、最も特権的な詩的発話の場所(トポス)なのである 

「僕は、自分に唯一の部屋を持てた時にしか生きられないのです。窓硝子が、豪奢な家具の宝石をちりばめた引き出しのように内なる夢によって膨らみ、壁掛け(タペストリー)が親しい襞となって垂れかかる時にしか・・・」(F.コペー宛、一八六六年一二月五日付書簡)

詩的発話が生み出す言語的主体性は、マラルメにおいて、この部屋と不可分であり、部屋との言語的一致が、詩の発話のリズムそのものである。タペストリーが織られる地であり、またエロディアードの土地でもある、「詩の賜(Don du poème)」に歌われた「イデュメイアの夜」(Je t’apporte l’enfant d’une nuit d’Idumée..)からもたらされるのは、壁掛けの襞としての詩の言葉、織物の襞と一致して室内を漂いだす詩的発話の運動である。自己像を失って<亡霊>と化した発話主体は、部屋と同化し、なかでも壁掛けの襞がその非人称化した主体の特権的な形象となる。そのようなマラルメ的発話の運動が繰り広げる<テクストの襞>の遂行を見てみよう。『エロディアード 古序曲 L’ouverture ancienne d’Hérodiade』の乳母にして、同時に領言能力をそなえた巫女シュビラの<呪文の歌 (Incantation)>がその呪術的リズムによって実現するのはそのような詩的主体性のかたちである−


  窓枠のなかの奇妙な部屋は、武者たちの世紀の
  装具一式、輝きを失った金銀細工類とともに、
  雪のような往時を古い色調に持ち、
  その壁掛けは、真珠色の光沢をして、
  占い師たちに老いた爪を捧げている巫女シユビラたちの
  埋もれた眼をその無益なに宿している。
  そのシュビラたちのひとりが、枝葉模様の縫い取りとともに、
  黒銀の鳥たちのちりばめられた空には閉ざされている
  象牙色をした私の衣の上に、鳥たちの飛翔を身に纏い、
  亡霊となって漂いだすかのようだ。       (傍点引用者)

<呪文の歌>は、このように発話の主を、壁掛けの襞と一致させ、非在化させる。巫女シュビラは、その発話を通して、呪力を持つ大文字の影(Ombre)に姿を変え、聖ヨハネの首を載せる銀皿を育っているレース編みのヴエールの襞から立ち昇るであろう領言者の声との一致を試みるのである。


 象徴の魔力を持つ魔術的影よ、
 過去の永き喚起である、ひとつの声が、
 これこそは、呪文を歌おうとする私の声なのか、
 まだ思考の黄色いのなかで
 香をたいた布のように、古く、尾を引きながら、
 冷えきった聖体顕示台の雑然たる堆積の上を、
 その屍衣の清らかなレース編みとリズムにそってうがたれた、
 古い穴と固くなったを通して、
 その美しい浮彫りレースを透かして
 ヴェールを掛けられた老いた光輝を絶望的に昇らせつつ、
 立ち昇る (...)                (傍点引用者)

 発話主体を非在化する呪文の歌の運動は、全九十六詩行のちょうど中央(第四十八行) にあたるこのリズム的頂点において、襞と発話リズムとの一致として生きられている。この一節が示すように、マラルメの詩において壁掛けやレース編みの<襞>は、詩の<リズム>の自己言及なのであり、リズムは襞にそって、襞はリズムにそって相互にインプリケートされているのである。そこに、マラルメにおいて、<襞>の詩学と、言語の<リズム>論が出会わなければならない理由がある。そして、<襞>と<リズム>とのこの一致は、後に見るように、個別マラルメの独創性という次元を越えて、言語と主体についての知の一般的諸問題、たとえば、言説における個体化、リズム、言語的主体性の問題などを提起しているのである。
 『襞 ライプニッツとバロック』のドウルーズにならつて、「無限にまで高められた襞」を<バロック>の定義とするなら、マラルメの部屋は、まさしくライプニッツの小さな暗い部屋のアレゴリーそのものである。ライプニッツの『人間知性新論』のなかで、知性を外界からは事物の像のみがかろうじて入ってくる小さな暗い小部屋に喩えるフィラレート(ロック) に答えて、テオフィル (ライプニッツ)はモナドの部屋のアレゴリーを描き出す−


  テオフィル その類似[=小さな暗い小部屋の比喩]をもっと著しいものにするにはその暗室の中に形質を受けとるための幕があると仮定しなければならないでしょう。そしてその幕は平らではなく、本有的認識を表現しているによって変化がつけられているでしょう。おまけにこのないしは、張られることによって一種の弾性力ないし活動力を持ち、過去の襞と同様に形質の印象に由来する新たな襞に応じた作用ないし反作用をさえ持つでしょう。そしてこの作用はある種の震えあるいは振動に存するのですが、そういったものは張られた弦に触れた時に見られるものです。そうやって弦は一種の楽音を発するのです。  (ライプニッツ『人間知性新論』 米山優訳 傍点引用者)


 モナドの部屋と、「偉大なるバロック詩人マラルメ」(ドゥルーズ)の
<詩の部屋>とは、かくもぴったりと重なり合う。本稿が目ざすのは、モナドロジーの「無限にまで高められた襞」にそって、言語のリズムを考えてみること、それ自体が一つの詩学の表明でもあるマラルメの有名な破格語法「襞にそつて襞を・・・(plis selon pli)」を手掛かりに、詩、記号、言語の問題を読んでみることである。それはまた、襞の理論とリズム論との出会いを準備し、詩学のモナドロジーの可能性を探ることにも通じるはずである。

II <リュトモス>の襞


「私は大切に時間の最も微細な原子をたえず厚さを増す壁掛けの布地のなかに集めてきた。」
                    (「イジチュールの生涯」)

 マラルメにおいて両者が出会っているような<襞>と<リズム>との問題系を考えるためには、リズムを、波動、周期的反復、同一性の回帰といった用語で考える地平を脱する必要がある。リズムの二つの体制が区別されるべきなのだ。<リズム>という語の語源をめぐる状況がそれを示している。
 バンヴェニストによれば、同一性の規則的反復、調和、コスモス、ノモスといった秩序の方へと、<リズム>のギリシャ語源<リュトモス>の使用を固定したのは、プラトン主義的伝統である<リュトモス(rythmos>は、動詞<ρειυ(流れる)>から派生した抽象名詞だが、その語の使用は当初イオニア学派、特に原子説の創始者たちにみとめられる。それは、<かたち>、弁別的な形式、一個の全体におけるそれぞれの部分の特徴的な<配置>といった意味で使われた。ヘラクレイトス以来のイオニア哲学において<流れ>は、自然と事物の本質的な属性であり、全ては原子より生み出されるとするデモクリトス、それら原子たちの異なった配置が形式およぴ物体の違いを生むと考えた。文字どおりには、個々の「流れ方」を意味するリュトモスは、固定性も本質的必然性もなく、常に変化する配列から生み出される<配置>や<布置>を記述するのに最もふさわしい用語だったのである。いまわれわれがリズムを考えるときに、再発見されなければならないのは、この<かたちの形成運動>としての<リュトモス>の系譜である。それに対して、このリュトモスの運動を囲い込み、今日われわれを捉えているようなリズムの概念を創出することに寄与したのはプラトンである。弁別的形式、配置、配合といったイオニア学派以来のリュトモスの伝統を保存しつつ、プラトンは、舞踏において人間の身体が実現する運動の形式、およびその運動が繰り拡げる形姿の配置に、この語を適用する。決定的な状況は、拍子(メトロン)に結びつけられ、数律に従う身体的リュトモスという観念によって生まれた。リュトモスの<かたち>は、これ以降、「拍子」、「韻律」によって規定され、秩序に従属させられることになるのである。運動の規則性、拍子に結びつけられた身体的態度の調和的な配列が、以後、「リュトモス」と呼ばれ、ダンス・歩行・歌・仕事といった、交替拍によって分割される活動を前提とする全てに関して、「リズム」が語られることになるのだ。
<かたちの形成運動>としての<リュトモス>は、<襞>と結び付くことによって、認識論的により強化されうる。<襞>は<かたち>のみで、実体を持たない。形式主義は、<かたち>を実体化するかぎりにおいて実体主義なのであるが、<襞>は<かたち>を実体化することはない。また、<襞>は、それ自身が、同一性を持たない反復であることによって、<かたち>という事件を指し示すのだ。リュトモスはしたがって、実体としての原子に還元されることはない。リュトモスは<襞の出来事> である。
 冒頭に引用した、イジチュールの部屋の壁掛けの襞に集められる「時間の最も微細な原子」とは、デモクリトス的原子の<リュトモス>を思わせないか。マラルメに、デモクリトス説の直接の影響があるというのではない。むしろ、ここに現れた「原子(atomes)」は、テクストにおいて、<atomes(原子)/tome(書物)>というシニフィアンの対を生みだし、temps(時)/tentures(壁樹け)、<tentures(壁桝け)/tenebres(闇)>といった一連のシニフィアンの戯れを準備するために選ばれた語と考えた方がよい。じじつ、『イジチュール』は、シニフィアンのそうした折り返しが、テクストの襞を次々に作り出すことによって展開されてゆく、という書かれ方をしているのである。だが、それだからこそ、個々のシニフィアンは、その配置・配列によりイジチュールの部屋の言語的襞のかたちを生み出してゆく。そこにあるのは、確かに<リュトモス>なのであり、マラルメの詩において出会うような<リズム>と<襞>との一致は、言語活動における<リュトモスの襞>の運動の開示なのである。



III 言語の<襞>・記号の<襞>


 じじつ、マラルメの詩が示しているような<リュトモスの襞>は、そのままひとつの言語理論・記号理論として読むことができる。また、言語や記号についてのおよそすべてのことがらを<襞>と<リュトモス>のタームで考えてみることもできる。
 例えば、音韻論が教えるような音素は、それ自身が言語のひとつの襞である。差異のシステムとしての言語の最小限の単位として、音素は、言語的物質性をまさにライプニッツ的な意味で微分している。音素にはどこまでいっても微分可能な襞があるのみである。同時に、音素はより上位の単位の構成要素としてデモクリトスの原子のように配列を作る。言葉のかたちの形成運動としてのリュトモスは、音素の潜在的な襞を繰り拡げることによって、配列を作り出してゆく。リュトモスこそ、言語活動の現実態としての<言説(ディスクール)>の形成運動なのである。リュトモスなしの言説は有り得ない。言説の生起はつねにリュトモスとして起こる。言説はリュトモスの襞にそって繰り拡げられるのである。
 音韻論的現実はまた、言語活動の身体性とも深く結びついている。音素系はまず発音行為の身体性の襞の形成として幼児によって生きられる。音素系は身体と言語の双方に襞を与えるのであり、言説は欲動の襞との絡み合いをそのリュトモスにおいて実現するのである(フォナギーの「発声の欲動的基礎」やクリステヴァの「シニフィアンの微分」はこのコンテクストにおいて再考され得る)。音韻論がそのモデルであるような共時態言語学は、しかし、リュトモスを中性化してしまう。<話す主体>の<現在>における要素の潜在的同時存在という円環的無時間のなかに、言語実践を閉じ込めてしまう。だが、個々の言語的事件としての言説は必ずリュトモスとして起こる。リュトモスこそ言説に内在する時間の実現なのである(イジチュールの「時間の部屋」の実験はそれを示している)。<ラングの言語学>から<ディスクールの言語学>への移行はこのリュトモスの理論を介して行われるべきなのだ。なかでも、言語使用の最も微分的な活動である<詩>は、そのリュトモスの出来事、言葉の形態形成、言説のカタストロフ(R・トム)を最もよく見せてくれる。だから、言説の事件の単独性の理論は、まず詩学から出発しなければならない。ヤコブソンが定式化したような言語学と詩学との関係は逆転されなければならないのである。その時、言語学は、リュトモスの一般理論としての<詩学>へと姿を変える。
 記号もまた襞である。マラルメの襞の詩学は、詩にのみ関わるものではなく、記号現象一般に関与している。
 ヤコブソンにならつて、記号を「何かに代わる何か(Aliquid stat pro aliquo)」と定義するなら、記号は代替するその「何か」を自らの記号論的襞の中に折り込んでいるシステムである。記号それ自体はネガティヴで不在化のモーメントであるというのは、この襞としての性質に由来する。例えば、ファッションの襞は身体を記号化し、身体をその記号論的襞を通して透視させる。マラルメの扁の詩や「最新流行」のモード記事が注目するのはそうした記号論的な襞である。だが、モードに代表されるような記号現象は、<新しさ>という擬制的共時態の現在によって維持されている。シーズンは、<今>のサイクルの単位となり、記号の襞のリュトモスは、モードという周期的な社会的韻律の時間のなかに閉じ込められる。
 事件を<情報>という記号に変えるジャーナリズムもまた襞である。「事実に代わる何か」としての<情報=記号>。ジャーナリズムの単純な折り目は、事件を「様々なる小さな事実(petits faits divers)三面記事」として情報の回路の擬制的現在にリサイクルしてゆく。それが、マラルメの言う「普遍的ルポルタージュ」である。後にみる、『ディヴァガシオン』の「書物について」の批評詩が展開するジャーナリズム批
判は、<襞>の詩学にもとづく<情報>批判である。


IV 発話主体のモナドロジー


 マラルメの襞の詩学の中核には、発話主体、の理論がある。言語活動をその個々の実現において捉える立場に立つならば、ディスクールの<私>の現在は、私のディスクールのリュトモスと不可分である。<私>を作り出しているのは、私の言説のリュトモスであり、それ故に、<私>は私の言説の宇南に不可避的に閉じ込められている。言説の審級としての<私>は閉ざされた<部屋>であり、「何もそこを通して入ったり出たり出来るような窓もない」(ライプニッツ「単子論』)一個のモナドな
のだ。私は言語的には「私と言うことによって私」(バンヴエニスト)なのであり、私の言説のリュトモスという事件によって私なのだ。そこに、襞の詩学として<ディスクールの詩学>が成立する余地がある。マラルメの部屋はこの意味で言語的主体性のアレゴリーである。
 発話主体は<外>を持たない。言説の主体は、自らを作り出す言説の襞の中に完全に閉ざされている。「私は襞の中で生きる者」(マラルメ「時間の遠き東方より来る・・・」)なのである。<私>とは、私を生み出す私の言説のリュトモスを聞く者であり、私とは、私の発話のこだま、「egoecho」(「イジチュール」)なのである。その意味では、確かに、「話す主体」は「聞く主体」なのである。ここに、言説の独我論的孤独、発話主体のモナドロジーがある。しかし問題はその先にある。
 私の言葉は、私の言説を作るリュトモスの襞によってつねに単独である。「同じこ枚の葉はない」(ライブニッツ)のと同様に、同じ二つの言語の襞はないのである。発話のモナドはおたがいに完全に閉じているがゆえにラディカルに単独者なのだ。
 だが私の発話は、あらゆる宇宙を反映する。それは言語の襞においてモナドたちがお互いに結びついているからである。但し、それは、同一性の根拠としてのラングや共通のコードの存在ゆえではない。襞のシステムとしてのラングは、音韻論に関して見たように、それ自体、同一性なき反復のシステムである。言語のバラドックスとは、それがつねに「私にとつての言語」としてしか存在しないことである。理性〈ロゴス〉が、言語活動を条理化し、言説の出来事をレギュレートしようとしても、発話のモナドたちは、それぞれの言説におけるそのつど単独な主体性において、おたがいに「識別可能(discernable)」なのである。同じ二つの言語主体はない。またそれゆえにこそ言語は無限である。言語活動は個々の実現の単独性ゆえに無限なのである。そして、言語の襞の無限を通して、世界はその無限を明かすのである。
 個々の言説に起こる事件は全てのモナドに及ぶ。言説という出来事は、そのリュトモスの襞としての性質ゆえに、それ自体つねにすでに自身の単独性の反復である。われわれが他者の言粟に聞き取るのは、他者の言説の出来事がわれわれ自身の言葉に及ぼす襞であり、ひとつの発話の作る襞は、全ての言葉の布置を変える可能性をはらんでいる。発話のモナドたちは無数の襞をもつ一枚の共通の布地のそれぞれの襞に住まっている。ひとつの襞の変更は、微視的にであれ他のすべての襞の布置の変形をもたらす。この言語的存置の変形の力こそ、言葉の権能であり、言説のラディカルな歴史性の契機に他ならない。


 V モナドたちの対話、あるいは<交通>について



                 「私は現在に属さない」(マラルメ)

 バンヴエニストが言うように、「言語が社会を基礎づける全ての関係性を基礎づけている」、そして、「言語こそ社会の解釈用具」であるという時、それは二つの意味を持ちうる。あるいは、また、モースが言うように、「人間はリズム動物である」と考え、また、オクタビオ・パスとともに「暦、道徳、政治、科学技術、芸術、哲学といった、要するにわれわれが文化と呼ぷあらゆるものがリズムに根ざしている」として、<リズム>を社会の基礎および解釈用具と考える場合にも、事態は同様に二つの意味を持ちうる。
 一つは、言語コードの共有による共同体を前提に、共同体内での間主観的コミュニケーションが語られる場合である。あるいは、リズムを社会的韻律(メトリック)と考え、共同体のリズムが語られる場合である。このとき、音韻体系を始めとするラングは再認されるべき記号のシステムであり、範列・連辞両軸にしたがって成立する文に代表される言語や記号表現の実現はノモスの中での意味作用のヴァリエーションにすぎない。韻律もまた、言説や身体の運動を整形する徴表の制度である。言説のリュトモスは中性化され、言説による主体の個体化は、共同体のコードの側から聴き取られることになる。ラディカルな単独性のなかに閉じられたモナドたちは、均質な<個>として<公共賓間> へ開かれてしまう。そのとき、<対話>は対称的行為として、モノローグ化し、発話の審級は、それぞれがお互いのエコーであるような議論の原理(=コンセンサスの原理) のなかに統合される。それが、コミュニケーション理性の支配だ。言説の単独性のリズムは、メトリック化され、情報の公開と流通、あるいは記号消費のサイクルのなかに、溶解させられる危険にさらされる。発話の<現在>の単独性は、メディアの擬制的共時態の<今>のなかに回収され整流されてゆくのである。
 だが、もうひとつのコミュニケーション、もうひとつの対話が考えられる。一人称と二人称、<私/汝>が、つねにリバース可能な主体によって担われる対話こそ、最も透明で、<コミュニケーション理性>にかなった共同体的なコミュニケーションだとすれば、他者の言葉と共振することにより、<私>のリズム系が変容し、また私の発話によって他者のリズムの布置が変形するといった<事件>としての対話も存在する。そのときは、意味作用ではなく、声、アクセント、イントネーション、リズム一般こそ、特権的にそこに<他者>を聴き取ることの出来る言説の襞である。そして、他者の言葉は、解読されるべきメッセージではなく、私の言説の襞をたえず変容させるそのつど単独な事件として立ち現れるはずだ。他者との交通が単独者たちの対話として成立するとすれば、この言語的襞による交通を通してであり、そのとき<私/汝>のシフター(転位語)とは、発話主体の置き換え可能性などではなくて、つねに
意味をシフトしつづけるディスクールの横滑りの審級に他ならない。発話がつくる襞にそっての他者への貫入、だが、決して真に交わることのない非対称的交通、発話恍惚はおそらくそこにある。ディスクールの襞による他者とのインターコースはしたがって、デリダが示したようなマラルメの<hymen(婚姻にして処女膜)>の論理にそって行われる。そしてそのとき、私の発話の可能性は、私の言説の襞による私の変容の可能性以外でなく、そのとき私の姿は、イジチュールのように、つねにすでに襞のなかに消えかかっている。

 詩の世界においては、近代が韻律の崩壊の時代だとしても、それは古い聖性の秩序の消滅を意味しても、言語活動や記号現象に関わる韻律(メトリック)が無くなったことを意味しない。近代においては、モード、流行という記号流通、メディアなどは、<新しさ>のサイクルを作り出す間主観性のメトリックなのである。<コミュニケーション理性>や<記号理性>が支配する社会は、間主観的な意味を消費する社会なのだ。「同時代的」であるとは、このような共同体の共時態に所属することである。
 マラルメは、そのような記号社会・情報社会を、襞において批判する。ファッションは襞であり、ジャーナリズムも襞である。ただ、それらはいずれも、<今>を、記号・情報の共時態において流通させる世界の単純な襞である。マラルメのファッション論、ジャーナリズム論は、それらの単純な襞にたいし、詩と書物の襞、世界の共時態に属さない複雑な襞を対置する。『最新流行』のあとに散文詩「白い睡蓮」や「扇」が書かれ、またジャーナリズムの「様々なる小さな事実〈三面記事)」に対して、散文詩「様々なる大きな事実(大三面記事)」が書かれるのは、マラルメの詩の襞による、近代社会の単純な襞の折り返し作業を示すものだ。

VI 書物のモナドロジーとノマドロジー



             「書物こそは最高のものなのだ」(マラルメ)

 「書物あるいは書斎はひとつのモナドである」とドゥルーズは書く。詩の言説の襞は、世界の単純な襞から退いて、書物のなかに複雑な襞をつくる。紙を折り畳んだ襞の編成体としての書物、それこそがまさに言語活動のモナドの特権的な場所なのだ。新聞が、テクストの無造作で雑多な鋳流しにすぎず、折り畳むという襞の可能性を殺しているのに対し、書物はその活字、判型から、頁の運動、装丁にいたるまで、全てが組織されたリズム体、リュトモスの襞の編成体なのだ。「‥新聞の」印刷された大きな紙に対して、折り畳むというのは「ほとんど宗教的ともいえる一つの作為である」「書物、精神の楽器」)とマラルメは書く。詩人にとって、文字自体が襞である

「[文字という」この暗いレースの襞、それは無限を宿しており、その
 触限は無数のものによって織り成されている」 (「限定された行動」)

「書物」は、そうした襞としての文字の「全面的な拡張」であり、「文字から、直接に、動きを引出して、空間化するや、数々の照応により、その戯れを打ち立てる」のである(「書物、精神の楽器」)。そして、書物の本質は、それらの襞の折り畳み、リズムである−

「例の異常な、つまり、静まりかえっているが今にも翼をひろげよう
 としている一つの飛翔にも似た、折り畳みの干渉、すなわちリズム」
                       (「書物、精神の楽器」)

 その都度単独な事件として起こる言語の襞は、書物においてそのリズム集合体を組織する。編成された襞のそれぞれが、それぞれの単独性において自己を反復する構造体が生まれるのだ。髄子の一投げのように、それぞれの発話は単独な事件である。だが、ディスクールの編成体は、それらの単独性の事件の星座を形成する。それは、世界から完全に閉ざされて、処女であり(「書物の、処女なる折り畳み」)、社会も個もそこには介在しない。書物は、一個のモナドなのだ。それは、一度生まれれば、その単独性の襞の組織のなかにラディカルな非人称性としてある --



「非人称化されて、本は、作者としてそこから離れてしまえば、読者
 が近づくことを求めはしない。(・・・)それはひとりで起こり、作られ
 れば、存在している。」         (「限定された行動」)

 そして、その書物は、その襞にそって、単独性の意味を次々に鳴り響かせる「精神の楽器」なのである。

                 *

 読書の部屋もまたモナドである。読書という再・発話行為は、書物の単独性の襞の配置のなかにわけ入り、読むというこれまた単独な反復行為の襞を自らの言説に与える実践なのである−


     「読むという−


     この実践−」        (「文芸のなかの神秘」)

                  *

「この世界において、すべては、一巻の書物に到達するために存在する」(「書物、精神の楽器」)。マラルメの蓄物の夢は、世界を全体的に総合するような企図を意味しない。それはまた、発話自体がそのまま世界を生むような絶対言語の夢ともことなっている。なぜなら、それはひとつの絶対的なモナドの希求だからだ。言語の事件としての言説は、その単独性の襞の反復の場所として必ず、必然的に<書物>を求める。ひとつの襞のリズムは、その襞をさらに反復する襞を求めてゆく。リュトモスの編成体、あらゆる言説の単独性の襞の布置=星座としての書物。「建築学的で計算されつくされ〔architectural et premedite)」、言説の出来事がその単独性において、その都度、自らの反復を見い出す書物。個々の言葉の事件が、決してその単独性を失うことなく反復され続ける場所。世界に対し、完全に閉じられ、それゆえ絶対に処女であり、無数の襞からなる迷宮としての書物。マラルメの書物の夢がボルヘスの<バベルの図書館>と響き合うのはこの地点においてである。
 最も単独な書物。したがって、一冊でしかありえない書物。一冊でしかありえないという単独性において、すべての単独な言葉の事件と響き合う書物。最も複雑な襞を持った書物。その折り畳み方により、その都度、読解が別の襞を作る書物。単独であることによりラディカルに複数である書物。J・シエレールが刊行した『マラルメの<書物>』は、そのような、襞のコンビナトーリアを見せている。偶然をその襞の内に取り込み、決して同一性の反復として読まれることなく、つねに単独であり続けている書物。アルス・コンビナトーリア。ブーレーズ『プリ・スロン・プリ』のアレアトリー手法。あるいは、荒川修作の『Ubiquitous Site X』、唯一の作品でありながら、二度と同じ作品であることのない作品。二度と同じ読みの出来ない書物。それ自身のノマドであるモナド。そのとき、書物のモナドロジーは、同時に、自身のノマドロジーをゆび指している。
 あらゆる発話の単独性の出来事は、その反復の場としての一冊の書物を求める。「誰もが、知らず知らずのうちに、それ[=一冊の<書物>]を試みた」(「自叙伝」)のである。したがって、そうした一冊の書物は、誰のいかなる発話の瞬間であれ、もう、つねにすでに、書かれてしまっている。
 そう。だが、それを読む行為は、つねにやはり、「襞にそって襞を…」である。