2017年10月23日月曜日

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 2017年10月、pp. i-iv

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 201710月、pp. i-iv 

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2016/03/93_1.pdf


 トロント大学には、マクルーハンが教えていた、もとは厩舎だったという、かなり質素な「文化と技術センター」(現在McLuhan Program in Culture and Technology)の煉瓦造りの建物がある。その教室には、テレビ画面から飛び出したラッパの吹き手たちが「セイレーンの歌」のダンスを踊る極彩色の絵画が壁一面に掲げられている。フランス人画家ルネ・セラ(René Cera)が描いた、マクルーハンお気に入りの作品で、ホメロスの『オデュッセイア』から題材をとっている[1]。なるほど面白い構図で、眺めていると、メディア研究とは電子メディア時代のセイレーンの歌を聴くことなのだと『グーテンベルクの銀河系』の著者も考えていたのだなと、ひどく腑に落ちてしまう。
 メディア論の旗手として華々しく登場する以前、マクルーハンはヨーロッパ中世の文学と修辞の研究で知られ、ニュークリティシズム系の文学理論家として卓抜した才能を発揮していた。のちに『銀河系』に組み込まれることになった論文「ジョイス・マラルメ・新聞」[2]は、マクルーハンにおける文学研究とメディア論との本質的な連続性を見事に示した傑作だ。 
 私自身ももとは文学研究者としてマラルメの研究から出発したから、ちょうどメディア論へとフィールドを拡げていこうとしていた頃、この論文をお手本に、「マラルメ・メディア・マクルーハン」という小論を書いた[3]。「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」ということばを残したマラルメにとって、〈文学〉は、〈ジャーナリズム〉の〈虚無〉に対抗するものだった。
 文学研究をメッセージの研究ではなくて、言語や文字や書物がこの世に存在する、その〈存在の条件〉を問う企てだと考えるようになると、既存の文学研究の枠を踏み越えることになる。「文字とは何か」とか、「本とは何か」というメディアの問いに結び付き、文学研究はメディア論になるのだ。
 そんなことを考えていたのは、1990年代初めの頃で、駒場キャンパスで「文字と共同体」(93年)というシンポジウムを組織したのだった。漱石学者で同僚の小森陽一を介して吉見俊哉と知り合ったのはその機会だった。
 当時〈コマバ〉は日本の〈知〉の中心で、70年代からすでに、ありとあらゆる世界の名だたる思想家たちがやってきていた。フーコー、バルト、ハーバーマス、リオタール、ブルデュー・・・。〈知〉の三部作が20万部を超えるベストセラーになり、日本のポスト・モダニズムが花開いた「コマバ発〈知〉の時代」だった。
 レジス・ドブレ、ダニエル・ブーニュー、ベルナール・スティグレールと第一回の日仏メディオロジー・シンポジウムをコマバで開催したのは95年、大澤真幸や吉見にも参加してもらった。吉見は日本におけるカルチュラル・スタディーズ(CS)学派を立ち上げつつあったから、フランス思想表象系とアングロサクソン文化社会学系のメディア研究の出会いでもあった。 
 本郷では、その当時、「情報科学研究科構想」が検討されていて、手元の記録では、96620日、私自身、社会情報研究所での研究会で「言語科学と情報」というテーマで話したとある。濱田純一社情研所長(当時)と会ったのは、おそらくこのときが最初、その後吉見に誘われて花田達朗や水越伸とCSの国際会議の準備会で顔を合わせるようになった。
 そのわずか三年後に、これらの人びととともに「情報学環・学際情報学府」という〈新しい船〉を建造し、知の荒海に漕ぎ出すことになろうとは、そのときは想像だにしなかった。

 さてマクルーハンの話に戻ろう。
 マクルーハンは、ジョイスやマラルメのシンボリズム的手法と新聞との関係を鋭く指摘している「[ブレイク以後の]詩人たちが同時性の世界、もしくは現代の神話への芸術的表現の手掛りを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞をとおしてであった」[4]、と。
 19世紀には1832年創設のハヴァス通信社(現AFP)を嚆矢として、ロイターなどの通信社により、ヨーロッパの投機市場のために、最初は伝書鳩のリレーによって、つぎには電信電報の伝達ネットワークを通じて、世界中から〈情報〉が届けられるようになり、それを輪転機が「鋳流し記事」として大量に印刷するようになる。
 世界はこのときからメディアによる「同時性」のコミュニケーションに結ばれてゆき、世界からもたらされる〈情報〉の増大によって、ヨーロッパ市場の株価が大きく変動する時代に突入した。すでに、19世紀から世界は〈情報資本主義〉へとまっすぐに向かっていたわけだ。
 こうして情報化していく世界における〈エントロピー〉の増大に比例して、世界には〈虚無〉が蔓延してくる。ヴァレリーは「石油や小麦や金」と同じ意味での「精神」の市場価値の「下落」を語ったが[5]、彼が言いたかったのも、つまりは、そういうことだ!〈情報〉のエントロピーは増大し続けて、世界は〈虚無〉にのみ込まれていっている、と。
 そこで、コトバや文字や頁や本といったメディアを文明の道具として作り直し、〈虚無〉の侵攻を食い止める計画こそ、ジョイスやマラルメにとっての〈文学〉なのだ、とマクルーハンは明かしてみせたのだ。
 マラルメはこの問題を〈偶然〉と〈必然〉の問題として提起した。そして『骰子の一投げは偶然を廃棄せず』[6]という、新聞紙面と同じ原紙二つ折りのフォリオ版で活字のフォントやポイントも新聞見出しを真似て大小組み合わせ、〈新聞〉を否定する〈詩〉をつくってみせた。ジョイスは、ダブリン市民のたった一日の交錯する〈意識の流れ〉を『オデュッセイア』に重ねて、『ユリシーズ』[7]として実況的に語ってみせた。
 
 20世紀以降の情報コミュニケーション技術(ICTの発達は、人びとの〈精神〉をどんどん〈虚無〉のなかに投げ込んでいくことになった。その同じ理由により、戦争もテロもレイプもレイシズムもDVも自殺も薬物中毒も起こりつづけている。それは、まったくもって「メディアの法則」どおりのことなのだとマクルーハンなら言ったかもしれない。情報学者は、誰しも、この酷薄な認識から出発しなければならないと私自身思っている。

 マクルーハンの時代には、テレビのなかでイレーンたちが歌い、踊り、虚無の海へと誘っていた。いまでは、ひとびとの〈精神〉はもう数値の組み合わせにすぎず、記憶とはデータであり、ことばも、切れ切れのささやき(ルビ:ツイート)となって、虚無の海に消えていく。ひとびとの日常生活は、どんどん、「だれでも15秒間はセレブになれる」〈顔の本(ルビ:Facebook)〉の一コマになってアルバム化され、しかし、だれも自分では物語をつくれなくなって、高橋源一郎が「さよならクリストファー・ロビン」[8]に書いたように、次々と虚無のなかに消えていっている。
 
 それでも、苦しくても、状況はいかに絶望的でも、〈知のオデュッセイア〉の冒険は続けられなければならない。
 私は、10年前に、この『情報学環紀要』の「思考の幹」(当時はそういう名のコラムだった)に、〈情報学環〉とは、ギリシャ神話に出てくる、「アルゴ船」に喩えることができると書いた[9]
 様々なところから調達した船のパーツは航海のあいだにことごとく波間に消えてかたちをとどめないとしても、しかしアルゴ船はいつも同じ船の原型を保って、ついに英雄たちは「黄金の羊の毛皮」を持ち帰ることに成功するのでなければならない、と。

 10年後のアルゴナウタエたちよ! 
 私たちのアルゴ船はまだ十分に帆を張って風を受けて海原を疾走しつづけているだろうか?
 マクルーハンは、ホメロスの詩において、「策謀巧みな男」オデュッセウスが「多様なデバイスを使う人」とも呼ばれていることに注目していた。オデュッセウスの呼び名は、Polymetis(多くの知恵の人), Polytropos(多くの表現の人), Polymechanos(多くのデバイスの人)である。マクルーハンはまた、ホメロスの時代の口承詩とは、文字以前の部族社会では、多様な知識を即興的に引き出すための「部族的百科事典」だったのだとも述べている[10]

 〈情報〉が氾濫し〈虚無〉が蔓延する21世紀の幕開けを前に、私たちは〈情報学環〉という文字以後の部族社会を結成したのだった。
 持ち寄られた知はわれらの部族百科事典をやがて形作るだろう。「多様な知恵」「多様な表現」、「多様なデバイス」の新しい人びとが次々と現れて、多才な知をこれまでとは違うやり方で生み出し、今までにない道具を使いこなし、新しく巧みな表現で、〈学知の環〉を拡げていくことだろう。
 それが〈2000年〉に交わされた、〈情報学環〉の約束だったことを、ここに改めて記しておきたい。 
and yes I said yes I will Yes




[2] Marshall McLuhan “Joyce, Mallarmé, and the Press” in The Sewanee Review Vol. 62, No. 1 (Jan. - Mar., 1954), pp. 38-55
[3] 「マラルメ・メディア・マクルーハン」、『現代思想』(青土社)、199310月号、pp.102-112
[4] M.マクルーハン『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』 森常治訳 みすず書房1986 pp.406~407
[5] Paul Valéry « La liberté de l’esprit » in Regards sur le monde actuel Librairie Stock, Paris, 1931, p.178
[6] Stéphane Mallarmé « Un coup de dés jamais n'abolira le hasard » 1897.
[7] James Joyce Ulysses 1922
[8] 高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』新潮社 2012
[9] 「思考の幹 fluctuat nec mergitur」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.72, 20077月、pp. iii-v
[10] Marshall McLuhan Understanding Me: lectures and interviews, The MIT Press 2003p. 50 sq.

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