2015年10月9日金曜日

「『マラルメ詩集』讃」『舞台芸術』Vol. 19 Autumn 2015 角川学芸出版, pp. 179-189




 
「マラルメ詩集」讃     石田英敬

Tel qu’en lui-même enfin l’éternité le change
     彼その人へと ついに 永遠は彼を・・

 
前口上


 渡辺守章がついに完成させた『マラルメ詩集』(岩波文庫 二〇一四)[1]への讃をここに書くことにする。
 詩はコトバの(たたず)まいである。その姿と所作は文字として書きとめられ、詩句に折りたたまれて、書物を開けば扇を拡げるがごとく精神の声に詠まれる。
 翻訳は原詩の佇まいを国の文字に映す舞台である。これを渡辺守章は言語態(ことばのすがた)の実践であるという。
 この国から詩のコトバが消えて久しい。
 佇まいのないコトバほどしだらないものはないが、ゐずまひを正す者もはや少なく、なんともすさんだ世になったものである。コトバの伝統の喪失が、人心を荒廃させ、虚無(インフォメーション)を氾濫させ、そして文学が後退している。
 この末世においてなお、幽かな影のごとく立ち現れたる翁の姿が、ゆるりと舞台に進み出でて、一冊の書を懐より扇のごとく取り出し、その読む本は、世界が至りつくべき秘法の一冊、マラルメの「詩集(ポエジー)」。では、その声を聞くことにしよう。

一 〈()〉の詩学
  翁、続 誦(プローズ)を唱える --

天翔る詩法(イペルボル)よ! 我が記憶から
勝ち誇って 立ち上がる
それができないという、いまは呪文だ
鉄を(まと)った 書物のなかで。

低くしかし朗々と響くその声を聞くべきである。

けだし住まわせている、 わたしは
知識により 霊を育む 心の頌歌を、
我が 忍耐の作品のうちに、
地図、植物図鑑、典礼書である。

 原題の「Prose」とは、むろん散文の謂ではない。これはカトリック典礼の用語で、荘厳ミサでアレルヤ唱に続いて唱えられるラテン語頌歌のこと。脚韻を重ね、詩聯をつづら折りにして歌われる。原詩は、八音節詩句四行交差韻で、十四聯にわたり重畳的に脚韻を繰り広げる。エドガー・ポーの「ウラリューム」での「我が魂、プシケ」[2]との道行き語りを思わせる一人称複数の〈語り〉の構成をとり、マラルメ一流の〈観念(イデー)の詩法〉が(そらん)じられる。
 この難解な「詩法の詩」(渡辺翁)、西欧語の韻律を、日本語というモーラ言語のを強調して、語句の切れ目に空白  すなわち、〈()- を入れ、詩行跨ぎには十分な〈間合い〉をとって、読みのリズムが生み出されている。

さまざまなる 魅惑の 風景に、
おお、妹よ、君の魅惑を比べつつ。

この〈間の詩学〉が、散文化してしまった現代日本語に韻律を取り戻す仕掛けをつくる。〈間合い(エスパスマン)〉が入ることで、コトバがくっきりと口承性を帯びて身体で詠まれるようになる --

花菖蒲の百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)、この風景が
現に存在したかは、人も知る、
ただ名をもたぬのだ、夏のトランペットの
黄金の響きが 呼び出す その名を。

 天地創造の始まりにまで遡る古の「記憶」に因んで、詩人の究極の詩法(イペルボル)が「名」づける「観念」の花々の「百花繚乱」。詩の女神(「妹」)を伴った「(ピュルケリー)」の「島」への滞在の「風景」である。「詩句の危機」のあの条り -- 「わたしが言う、一輪の花!と。・・」[3] -- を想いだそう。

かくのごとく 巨大なる その花の
一輪ごとに 常のごとく 身を飾る
鮮やかな輪郭、それは間隙(かんげき)となって
庭園から 切り離す、その花を。

〈花〉は名づけられることで〈不在〉化し  「間隙となって」-- 「庭園から 切り離」され、〈観念(イデー)〉となって浮かび上がり「屹立」するのだ。

長きにわたる欲望 その栄光たる 観念よ
全てが体のなかで 昂揚し 見ようとする、
菖蒲科の花々が 悉く 新たなる
務めに応えて 湧出(ゆうしゅつ)し 屹立(きつりつ)する(さま)を、

 詩史のパリンプセスト -- 「永遠の犢皮紙」 -- (しる)された、美の島の女神(ミューズ)の名は、「アナスターズ」 --Ana-stase(記憶ヲ遡リテ立ツ存在)。道行きの末に刻まれた墓碑には、「ピュルケリ―()[4]の名が読まれる。この「続誦」は、詩の美の復活祭を歌う、ビザンチンな詩的転位の歌なのである。

少女は 退位する王者、 放棄する 恍惚を、
そして、道すがら既に 知恵に通じた
彼女は発する、一言、アナスタ―ズと!
永遠の犢皮紙のために 生まれた言葉を、

一つの墓が、笑うよりも先にである、
いずれ 見たこともない土地に、祖先のものと
この名が刻まれていて、ピュルケリ―と!
隠してくれている、なんとも巨大なグラジオラスが。


 詩の冥界へと降る「ピュルケリ―」の墓扉は巨大な花萼の下に開き、「地図」、観念の花々の「図鑑」、「心の頌歌」の「典礼書」を携え、翁の「知識」に導かれて、「いまは呪文」と見紛う「忍耐の作品」に分け入るときである。

二 〈扇〉の詩学

 マラルメにおいて、詩集とはある種の〈扇〉である。

 そもそも、一篇の詩とは、その裡に、詩句を折り畳んでいる、〈扇〉である。


言葉に対して するに 等しく
空に向かって ただ煽ぐ (はね)
来たるべき 詩句の 姿を現す
いとも優美な 住処(すみか) から


(はね)は 声をひそめて 伝令の
この扇こそは もし それが
同じものなら 君の 姿の
後ろに何か 鏡は (きら)めき
( 「扇 マラルメ夫人の」 )

 胡蝶が舞うように、「言葉」に向けて頁が拡げられる、「煽」られる、と同様、扇の「(はね)」が、「空に向かって」、煽がれて、「来たるべき 詩句」が沈黙のうちに-- 「声をひそめて」 -- 舞うのである。

  「偶然を廃する」ことを生涯の業とした詩人のことだから、詩集の編纂は入念を極めた。ドマン版『詩集』は、「建築的で予め考え抜かれた」(「書物、精神の楽器」)配列構造を宿している。

 -- 渡辺翁の回想 ・・

  数十年の昔のこと、あれは一九七三年の秋の頃、パンテオン広場に面したパリ聖ジュヌヴィエーヴ丘のドゥーセ文学図書館の一室。近くのサンテチエンヌ・デュ・モン教会の鐘が刻を打つ鈍い音がときに聞こえてくる。
 パンテオンからの光がうっすらと影を射す机の上には、ドマン版マラルメ『詩集』の編集のための「貼付帖(マケット)」が開かれている。
 「指示 (indications)」と赤鉛筆で手書され最初の用紙には、詩集の頁割り付けについての指示が詳細に描き込まれている。その裏には、やはり赤鉛筆で「エドゥアール・ドマンのための、『ステファヌ・マラルメ詩集』草稿と頁割り付け指示」という書き込みと、「12 9bre 1894」の日付、そして、マラルメ独特のSMのパラフ(イニシャル署名)。日付の「9bre」は「novembre」すなわち「十一月」である。
 浄書された草稿に混ざって、『詩と散文』など他の詩集から切り抜かれたテクストが貼り付けられ、まさしく詩集コラージュといった体裁で、校正指示が黒のインクや赤の鉛筆で加筆されている。そのようにして、H・モンドールが所有していた、「ドマン版『マラルメ詩集』貼付手帖(マケット)[5]は先行出版の頁を、物理的にも、その構成のなかに折り畳んでいるのである。

  -- このコラージュの折り畳みの手触りから、おそらくは、渡辺翁の翻訳の構想は懐胎したのだった。 
 じっさい、『詩集』貼付手帖(マケット)は、中央部に、第二次『現代高踏派詩集』に発表された「エロディアード  -- 舞台」の『詩と散文』からの切り抜きと「半獣神の午後 田園詩」のそれを配し、この二篇を頂上として、初期詩篇から始まる前半、中心の二篇をへて、「詩法の詩」や、ソネ、「墓」詩群へと降っていく後半部という、渡辺翁のいう、「富士山構造」(渡辺)の配列構造を採っている。
 収録された詩篇の数は、じつに驚くほど少ない。四十年にわたる詩作の集大成に選ばれたのは、わずか、四九篇。
 マラルメの完璧主義だが、しかし、それだけではない。
 一つのマラルメ詩のヴァージョンは、その下に、それ自身が独立した詩作品である、幾つもの先行ヴァージョンを折り畳んでいるからである。頁の折れ襞が、内側に折り畳まれていた頁を開かし、さらにまた、そこに秘められていた頁の折れ目が開かれていくというような〈扇構造〉がそこにはみとめられるのである。
 その意味で、マラルメの詩は、彼があのブリュージュの街の石襞に見た、「独り身の石」が、その時間性の衣裳を「襞にそって襞を(プリ スロン プリ)」脱いでいくような、エクリチュールの潜勢態である。

 己が姿を 見せまいと しても見える それをわたしは
 独り身の石が 衣裳を脱ぐ 襞にそって襞を その姿と観る故に

(「ベルギーの友の想い出」)

 『マラルメ詩集』を拡げるとき、したがって、そこからは、幾つもの隠されていた 潜勢的な -- 詩集が開かれることになる。ひとつの詩集は、その襞のうちに、もう一つ別の詩集を潜めており、さらにその傍らでも、畳まれていた扇は、また、打ち開かれていく。
 その意味で、表層構造にあっては、Ⅰ『ステファヌ・マラルメ詩集』(ドマン版)、Ⅱ「拾遺詩篇」、Ⅲ「半獣神変容 エロディアード詩群」からなる、渡辺守章訳、『マラルメ詩集』は、その本質的な内部性において、ラディカルに複数の(マルチプル)詩集なである。

三 〈危機〉の詩学

 ドマン版『マラルメ詩集』は、詩人の〈危機〉を、その構造 -- 「構成の原理」(ポー/ボードレール) -- の中心に組み込んでいる。
  渡辺が「富士山構造」と呼ぶ、詩集の中央部の二つの詩篇  「エロディアード 舞台」と「半獣神の午後 田園詩」-を高峰とする、マラルメ詩作(ポエジー)の地理を、「地図(アトラ)」(「続誦」)として、描いてみることができる。
 その登り道は、1860年代のマラルメの危機にいたるまでの、「不能力の詩人」をテーマとした作品群。ロマン派的な超越の声がもはや聴こえぬ呪われた詩人たちには、それでも「蒼穹(アジュール)」(「蒼穹」)がアイロニカルに目指されている。
 対して、二つの峰以後に並べられた詩群は、〈虚無〉の発見以後の〈危機〉の詩学に基づいた作品群と一応の整理をすることができる。富士山のメタファーをさらに延長すれば、ふたつの峰はいわば、美しい休火山であって、〈危機〉がそこから噴出した痕をとどめているというべきか。火口の底には虚無の闇が拡がっている。
 それ以後は、いわばなだらかな降りのプロセス。 詩集全体が、この地理学をとおして、〈危機〉を反復することで、詩の地図を拡げている。
 「続誦」やテオフィル・ゴーティエへのオマージュでもある「喪の乾盃」のような「詩法の詩」(渡辺)に続いて、折々をとらえた小品もある。
 例えば、(たお)やかに訳出された、可憐な高山植物ともいうべき、この音楽的小品 --

       聖女


窓辺にあって かすかに見える
古き白檀の 金も 薄れて
かの人のヴィオル 煌めくは
過ぎし日の、フルートか マンドール。

そこにまします、蒼ざめた 聖女の拡げる
古き書物、折り畳まれて 開いたページは
聖母賛歌 荘厳なる 煌めきの、
過ぎし日 晩鐘ならびに 終課の折に、

聖体顕示台か あの窓ガラスを
かすめて行くは 天使の竪琴
夕べの飛翔の折に 作られて
ほっそりとした 指の 関節の

技、 かの人は今 古い白檀もなく
古い書物もないままに それを揺らす、
楽器となった 翼の上に、
沈黙の 演奏家である


 マラルメの詩は、前半の提示部が、後半でメタ言語的に二重化されて、詩についての詩となる構造を初期から有している。
 この「聖女」の原詩は八音綴一六行の小品だが、渡辺は、七五調をゆるやかに駆使して第二聯、第三聯で鄙びたオルゴールのような機械仕掛けの音楽を奏でさせている。
 対比的に、聖女セシリア(音楽の守護聖人)の古い像が陳列された窓辺を喚起する第一聯との対部をなす第四聯では、聯跨ぎの孤立語(「技」)、二、七、七、三という拍の崩しと、否定辞を重ねる(「・・・もなく/・・・もない」)ことで、発話に転調が起こり、(「古い白檀もなく/古い書物もないままに」)、窓ガラスの夕暮れの雲の反映の「翼の上に」、「天使の竪琴」を奏でる、「指関節」を定着させ、コトバの音楽によってモノの不在を在らしめる沈黙の音楽を遂行してみせている。
 
 『詩集』の詩的地理には、マラルメがエクリチュールを通して、自身の詩的系譜を確認する「墓」群も拡がっている。

 「エドガー・ポーの墓」は、その第一行(アタック)が、フランス語表現になるほどにも人口に膾炙したが(その意味では、「部族の言葉に より純粋な 意味を与え」たといえようか)、それらの墓詩の結末部は、とくによくマラルメの批評性が言語遂行される場所である。
 
混沌たる 宇宙の 壊滅から 地上に墜ちた 身じろぎもせぬ 塊、
この花崗岩が せめて永久に その境界を 画すべしと
未来に散乱する 冒涜の 黒々しい飛翔に対して
 (「エドガー・ポーの墓」)


戦きつつも 不在なる 女人の額 飾るヴェールは
彼女 まさしき 彼の影こそ 守護の毒薬にして
たとい我ら 破滅となるも つねに 吸っているべきもの
(「シャルル・ボードレールの墓」)


ヴェルレーヌを? 隠れているのだ 草叢に ヴェルレーヌは、

不意に捉えるとしても、むろん 素直なままに、
唇の そこに飲むことも その息を 漏らすこともなく、
さして深くもない流れ、その汚名を 死という それを。
(「墓」)


喨々たるトランペットの 黄金は 犢皮紙の上に 色を失い、
神リヒャルト・ワーグナーこそ 目も眩む 戴冠の盛儀は、
イングでさえも 黙するあたわず、巫女の嗚咽の 痕を記す。
(「頌」)


 『詩集』の高原の高みでは、典雅な十二音綴ソネが、最も高度なコトバの業を駆使しつつ繰り広げられてもいる。それらの孤高の詩の風景には、血を流す壮麗な夕暮れも、孤独の夜の真夜中も、星辰も、凍てついた氷河の朝もある。

 すでに以前書いたことだが[6]、「-yxのソネ」([浄らかなその爪は ・・・・])では、渡辺訳は、五と七のモーラからなる基本的リズムとその崩し、係助詞「は」、疑問終助詞「か」を多用して、外界から室内に向かう「注意力の地平」を暗示的にセットする構文のリズムを実現する。対比的に、主体格助詞「が」の「《虚無》」における唯一の使用、体言止めの頻用によって、謎の言葉PTYXをめぐって事物を宙づりにする、ゼロ度のセマンティクスが焦点化されている --

淨らかなその爪は 縞瑪瑙を高々と掲げ、
《不安》はいま 松明かざす女か、深夜 捧げ持つ、
《不死鳥》に 西の地平の焼かれた夢、数多の夢を、
その灰を納むべき 骨壷もなくて、あるのはただ

毒味の式台、空虚の間。プティックスもない、
殷々たる無生気の 打ち捨てられたる骨董か、
(けだし《主人》は 《冥府の河》に 涙を汲みに、
携えたものはただ、《虚無》が誇る 唯一の品。)


「白鳥のソネ」([処女にして、生気あふれ ・・・・] )では、原詩ではLe vierge, le vivace et le bel と定冠詞+形容詞を三重に重ねて名詞主語aujourdhui (今日)を提示して、白鳥の羽ばたきの運動をパフォームして見せている箇所だが、渡辺訳は、シンタックスのリズム、半句跨ぎで羽ばたきの活性を導入し、つづいて、詩行を区切ることで、白鳥が捕らえられている湖の硬い氷結の非活性と対比させている。

処女にして 生気あふれ、美しい 今日という日
我らのために 打ち破ってくれようか 酔った翼の一撃で
この硬い 忘却の 湖を、その霧氷の下 棲みつく
透明な氷塊は 遁れそびれた 飛翔のもの!
 

四 〈昇華〉の詩学 

 さて、『マラルメ詩集』中央部の二つの高峰に登るときである。  
 詩集の〈扇〉の要には、「エロディアード舞台」と「半獣神の午後 田園詩」が聳えている。そこは舞台のための詩作が、マラルメの詩を生み出した詩の場所である。
 渡辺訳「マラルメ詩集」では、そこから、第Ⅲ部の「半獣神変容」と「エロディアード詩群」という二つの扇がさらに拡げられることになるだろう。マラルメの翻訳の仕事が渡辺守章の仕事と特権的に結びついているのも、演劇の身体と詩の言語が、コトバの舞台をめぐって切り結んでいるからである。

 『半獣神』は、「古代英雄詩風幕間劇」として、コメディー・フランセーズでの上演をめざして書き始められ、その「独白」が「半獣神即興」として独立させられたが第三次『高踏派詩集』からの拒絶にあって、「半獣神の午後 田園詩」として一八七六年にマネの挿絵入りで刊行されたことはつとによく知られている。
 マラルメが中心に据えたのは、言葉が開く〈欲望(ファンタスム)の舞台〉の問題系である。
 改稿をへて、当初「幕間劇」ではト書きで与えられていた外界への指示が消去され、劇場での「独白」の台詞から、「田園詩」の音楽的詠唱へと作品の構造を変えていくのが、「半獣神の午後」成立のエクリチュールの深化である。その過程で、〈欲望の光景〉の位相が、〈虚構/現実〉、〈眠り/覚醒〉、〈想起/空想〉、〈夢/記憶〉の境界を溶融させ、詩的発話の音楽的な調べのなかに統合されてゆく。
 そのようにして、「半獣神」は、コトバを舞台とする〈昇華の劇〉となったのである。
 ならば、そのコトバの流ちょうな流れと、欲望の光景そのものの位相転位を、どのようにすれば、日本語の調べに映しうるのかが翻訳の掛け金となる。
 散文調の台詞的発話と七五調を基本とした表白的発話とを組合せ、詩的発話の舞台が開かれてゆく。


           愛したのは、夢か あれは?

疑いは、降り積もる (いにしえ)の夢、その端は
細やかに枝分かれして葉叢(はむら)となり、まことの
立木、そこで(あか)すのは、ああ 何ということ、独り
勝利と思ったのは、観念の内に 薔薇たちの犯す過ち――

考えてみなくては……

 音楽的昇華のモチーフは、美しい和風アレクサンドランともいうべき渡辺的韻文(七・七・五調を基本として、その崩し)でパフォームされて、軽やかに滑空し、天上界へと立ち昇る。


せせらぎもなく、(つぶや)くものは、音の調べの 露に濡れた
草むらに、わたしの笛の 注いだ水。風は
二つの(くだ)より立ち昇り、音をたちまち
乾いた雨と まき散らす この風ばかり、
一筋の皺も 動きはせぬ 水平線に、
まざまざと見える 澄みきった 霊感の 巧みの
息が 今再び、天上界へと 昇ってゆく。


 そして、イタリック体で、〈欲望の光景〉が、詩のなかに開かれるもうひとつの詩として、想起され語られ始めるのである --



 「 ・・・          遥かに遠く、緑の枝の
吹き上げに 葡萄の房を捧げる辺り、金色(こんじき)の 水も暗く、
何か白い生き物の 休らう姿が 揺れている。
やがて緩やかな前奏に、草笛が生まれるやたちまちに、
飛び立つ群れは白鳥の、と思う間もなく、水の精たち、
一斉に(のが)れ、水に(くぐ)って……」

一八六〇年代の「エロディアード」制作に際して打ち出された「とても新しい詩学」「事物を描くのではなく、事物の効果」を描くのだという、印象派詩学を確認できる箇所である(「金色の水も暗く、
何か白い生き物の 休らう姿が 揺れている」)。原文では、マラルメ的代換法(hypallage)が多用され(「生き物の白さ」が「揺れている。」、「遠くの緑の暗い水の金色」、「白鳥の飛び立ち」、云々)、指向対象が消されることで、事物の観念が取り出される詩法が発動されている。渡辺訳では、これらの語のシンタグムを頭韻的に配することで、同じような印象派的効果を導き出している。

もう、よい!かかる秘宝の 打ち明けのためにと 選ぶ相手は
末広がりに対をなす葦、それを 蒼空のもとに 吹き鳴らす。
頬の(はら)む惑乱を 自分のほうへと引き取って、
長い独奏のうちに 夢見るのは、美しい景色と
我らの信じやすい歌と、二つながら 偽りのうちに
溶け合わせては、風景を 楽しませること。
そして 愛が転調する、それと等しく 高い虚空に
消えてゆくのは、背中と そして清らかな 腹と、
わたしの閉じた眼差しの 追いかけていた その月並みな夢の、
音高く 虚しく 単調な 一筋の糸。

欲望がかくのように、音楽的に「一筋の糸」として音高く「転調」する。これこそが、マラルメ的な音楽的「転位」であり、詩的発話による芸術的「昇華」なのである。
 性的な欲望を清らかな()で描き出すのは詩の笛の役割であり、芸術家と化した半獣神は、欲望の光景を「詩」として音楽的に昇華してみせる。

やってみるがよい、遁れ去る楽器よ、おお、心悪しき
シランクス、わたしを待つ湖へ行って、再び 花開け!
己が噂を誇るわたしは、長々と 語るであろう、
女神たちのことを。そして、女神を崇める絵姿のなかで、
その影から 取り去ってやる、もう一度 女神の帯を。

・・・

おお、ナンフたち、もう一度膨らませよう、様々に見える 追憶を。
「俺の視線が 葦を穿って、不滅の女の 襟足をすべて
射抜くや、女たちは波に 焼けつく傷を鎮めつつ、
森の上なる天空に 届けとばかり、怒りの叫びを挙げる。
と見る間に、波に浸った一面の 豪華に輝く髪の毛は
消えて行く、冷たい光と戦慄のうちに、おお、(きら)めく宝石か!
  ・・・」


五 〈婚姻(イメン)〉の詩学 

 「詩句をその地点まで彫り進めていくうちに、僕は自分を絶望させる二つの深淵に出会った。そのひとつは、虚無で・・」- よく知られた一八六六年のH.カザリス宛書簡の一節である。そのとき制作に没頭していた「エロディアード」詩篇の「舞台」を、『詩集』は、中央部に抱えている[7]
 そして、まさしく、ここは、渡辺翁による翻訳の出番である。ここに実現した、まさに劇場のために上演可能な翻訳の言語態 --



生きている! それともこれは 姫君の亡霊か、
あなたの指を、指輪を この唇に ええ、おやめ下さい、
何とも知れぬ(よわい)のままに 歩むのは ・・・


                         お退がり、

(けが)れなき我が髪の、 黄金(こがね)なす滝津瀬(たきつせ)
孤独の体を浸すとき 逆毛(さかげ)立つ
恐怖に 五体を凍らせる、そう、 光の(まと)わる
この髪は 不在のもの。 女よ、接吻などと、 死ぬであろうよ、
美というものが 死でないと したなら ・・・

 かねて渡辺版ラシーヌに慣れ親しんだ者は、「エロディアード 舞台」の七七五七五拍の独白のなかに、渡辺ブリタニキュスの絢爛たる〈守章節〉を聴き取ることになる。

もうよい! お持ち、この鏡を、 わたしの前に。
おお、鏡よ!
冷たい水よ、そなたを囲む縁の中、倦怠(けだい)によって凍れる水よ、
数幾度(あまただび)、いや長い時の()、夢想に 打ちひしがれ、
ただ独り、我が追憶を、さながら 深い筒井の底、
そなたの氷の下に沈む 枯れ葉のように、追い求めつつ、
遥か彼方の亡霊か、そなたの内に 現したのだ、この姿を、
だが、おぞましい!幾夜かは、そなたの 畏るべき泉水のうちに
知ってしまった、散乱する我が夢の 裸形(らぎょう)の姿を!

 演劇のために書き起こされ、劇場を放棄することによって、言語の内部へとその舞台を移したマラルメの潜勢劇が、渡辺訳の〈言語態(ことばのすがた)〉として、その身ぶりを濃い陰影をもって浮かびあがらせる。
 この「エロディアード」は、「イジチュール」と並んで、渡辺らによる「マラルメ・プロジェクト」の中心を構成した詩篇であり、「舞台」およびその「古序曲」については、筆者はすでに、劇評をしたことがあるので、重複は避ける[8]。が、まさしく、言葉の中に開かれた〈潜勢劇〉の完成は、マラルメ畢生のプロジェクトであったのであり、一八九八年六月の詩人の死の直前まで、この作品の制作にかかっていたことも知られている[9]
 今回の渡辺訳『マラルメ詩集』では、第三の扇ともいうべきⅢ部「半獣神変容 エロディアード詩群」に、未完の絶筆である『エロディアードの婚姻 --  聖史劇』(以下、『婚姻』と略記) を収めている。
 その構成は、「序曲」「舞台」「繋ぎの場」「終曲」の四部構成から成る。
 一八六〇年代末に書かれた「エロディアード 古序曲」に代わって、『婚姻』では、「序曲」が、預言者聖ヨハネの斬首とエロディアードの婚姻という運命劇への導入をおこなう。 
 この濃厚に神話的なドラマには、すでに「古序曲」の段階から、典礼的な舞台装置が設定されていた。そこにおそらく「聖史劇」の副題の意味がある。なぜなら、聖ヨハネ伝説とサロメ伝説を題材として構想されたこの詩劇にとって、「旧約の世界」から「新約の世界」へという、キリスト教神学のいう「契約置換(le changement dalliance)」の境界に立つ発話という状況が、この「序曲」の神話的文脈だからである。
 サロメ伝説が位置づけられている「旧約の世界」(=古い書物(リーヴル))から、預言者聖ヨハネが告げに来る、「新約の世界」(=新しい書物(リーヴル))への移行という、この「契約置換」の神話素が、マラルメにおいては、「旧詩学」から「新しい詩学」への移行の寓話(アレゴリー)として、一八六〇年代の危機の時代にはすでに構想されていた[10]
 聖ヨハネの預言とは、「新しい詩学」の声を告げる発話であって、一八六〇年代の「古序曲」においては乳母=シュビラ(巫女)の発話がそれを先取りしようと準備する憑依の発話だったのだが、『婚姻』では、序曲を三部構成に変えるよって、第Ⅰ部と第Ⅲ部の乳母=シュビラ(巫女)による発話、その真ん中に第Ⅱ部の「聖ヨハネ頌歌」を挟む、いわばサンドイッチ構造をとることになった。

 「古序曲」では、不吉な明け方の暁を歌うシュビラ(巫女)としての乳母による九六行にわたる降霊術的呪術的発話が繰り広げられたのだったが、『婚姻』において「序曲」は、暮れなずむ旧世界の夕陽に血なまぐさく不吉に浮かび上がる城館の室内、聖ヨハネの斬首される首が載せられることになる金色の皿を主題に、これまた、乳母=シュビラ(巫女)による、降霊術的・シャーマン的な濃密な詩的発話のテクストを繰り広げるところから開始される。
 ここでも乳母=シュビラ(巫女)の声は、運命の声に憑依しようとする預言の発話である。『婚姻』の草稿は、完全に完成にはいたっていないが、その複雑なシンタックス構造は比較的読み取り可能であり、これもまたアクロバティックな詩の言語を繰り広げ、主文が、第二五行にいたって初めて明かされるという、重層的な構文を採っていることは分かる。
 条件節が二四行続き、主文構造が二五行に至って初めて明かされるという、マラルメ的呪術的発話が用意されていことは明白である。

もしも・・・
     膝折って礼拝す 目も眩まん
遥か彼方 光背こそは まさしき栄光に輝く 円形
強張(こわば)らせた聖人は 不在のままに

  ・・・・・

   いとも甘美な料理の 有り余るほどに
   たとい 気の狂うまでに 激しい飢えが
   二人を 口に口付け 抱きあわさせ ついで満ち足らせる
   互いにむさぼり喰らう 至高の 料理とは これ。
  ならば、言うがよい、おお 口閉ざす未来よ、何故なのか
   ここに留まり、 永劫に 変わらぬ姿で いるのは、
   その理由とて、豪奢な軌道が ひたすらに 吸う  
   執拗なまでに 己が軌道を 完璧にせんがため
最後の輝きのうちに 死に絶える 地平に到るまで
   この視線の合わぬ 声も出ぬ 空虚を載せた 皿の故か?


「古序曲」では、乳母=シュビラの声は、その発話の運動を通して聖ヨハネの預言の声に一致しようとしていたが、新たに書き直されたこの序曲では、預言者の声は、別の一個の詩としてとして独立させられた。それが、「聖ヨハネ頌歌」である。「六音節三節+四音節一節という短い詩形を七聯繰り返す」(渡辺守章『マラルメ詩集』四八一頁)極めて特異な詩形をとり、斬首された聖ヨハネの首が、その最後の飛翔において発話する、という大変にめずらしい仕掛けとなっている。渡辺訳をここはインテグラルに引用しよう



       聖ヨハネ頌歌]



         太陽は 超自然な
         停止 昂揚し
         たちまちに 落下する
            炎は灼熱の

         感じる 脊髄に
         広がる闇
         ただ一声に ことごとく
            共鳴して

         首は 躍りあがる
         孤独な 灯台
         この鎌の 勝ち誇る
            飛翔のうちに
 
         まぎれもなき 断絶をこそ  
         押し拡げ 切り捨てるのは
         肉体との 古き
            不一致
 
         それは 断食に酔い()
         執拗に 追い迫る
         当てもない 跳躍にはあらず
            純粋な己が視線を

         彼方の高み 永遠の
         冷気の許さぬ 果て
         汝ら全て おお 氷河よ
              視線を超えることは

         だが 洗礼に則り
         照らすのは わたしを
         選んだ 同じ原理 今や
             地に注ぐのは 祝福。


斬首された〈預言者ヨハネ=詩人〉の首による、の間、地上との間、発話沈黙との間での、いわば無重力状態における詩的発話の言語的パフォーマンスである。
 ここから、引き出されるべき詩的含意はじつに大きい。「発話による詩人の消失」[11]をすでに定式化していたマラルメ後期の詩学における、〈詩人〉の〈供犠〉の寓喩がここにある。
 さらに、『婚姻』序曲は、第三部で、乳母=シュビラに発話者を戻し、「古序曲」でも謡われた、エロディアードの城館のなかの不吉な前兆の喚起をおこなって、運命の日への導入を果たそうとしている。

 
一面に開かれたる 窓のガラスは 目も眩めよと 飛び散って
塊は塊と 激突し 撒き散らす 不吉な装置を、 
そこに肘付く亡霊は 色蒼ざめて 目には定かに 見えぬ反響
ヴェールを(まと)い 立つ さりとて 隠しもしない
いかにも高く垂れさがる 黒い襞こそ 預言者なりと
  ともあれ 存続せしめんとはしない 天頂の
様々なる (きら)めきの 結びつく 絶対を。

  ・・・・
   その場(しの)ぎの 皿は 載せる物もなく ただ輝くに任せ、
   曖昧さは 今やことごとく この物言わぬ(ふち)からは 消え去って、
   自らを磨き、言うなれば、埃を払い 磨き上げ
   否認によって まさしくも 狂った如く
   遥かに遠く          触れて来るのは
   である 家事にはなおも 心奪われた者ではあるが。
  皿は           皿は 誇張する
  己が死相とも言おう 輪郭の 墓穴の 恐怖を。
 ・・・・
 
これに続く『婚姻』の構成では、「舞台」が続き、さらに、「繋ぎの場」ののち、テクストが未完で読解は困難を極めるのだが、「終曲」では、エロディアードを発話とした独白が、斬首された聖ヨハネとの〈血の婚姻〉のダンス(「舞踏」)を謡うことが予定されていた、と渡辺は読み解いている。
そなたのものと いずくか 遥かの高み 眩暈(げんうん)から落下し
ついで わたしの茎に沿い 流れ降って
(おとし)められたる 我が命運を担いつつ いづくか 天空を目指し
解き難い血の 飛沫こそは 百合の花弁(はなびら)を (けが)しつつ
永劫に ()け反らされて 両の脚の 代わる代わるに

・・・・・
あれこそは わたしも知らぬ 異形(いぎょう)の 殺戮の最中(さなか)
日輪こそは      かつて我が身を 熟せしめたるもの
舞踏を 照らし出すシャンデリア それとてもなく かるが故に
必要であった、わが生きてある 内部へと 抽象的なる侵入か、 
一つの顔の 何にしもあれ 突如 取り()き来たり
我が身をまさに 内より開き 女王なりと勝ち誇る それが。
  

 「聖史劇」と副題の付けられることになった『婚姻』だが、斬首された生首を受けとめる黄金の皿からしたたり落ちる血を体に浴びて、舞踏を踊る、エロディアード(=サロメ)血の婚礼が、「視線によってはもはや犯すことのできない死者の眼球と、死者のすでに死んでいる血によって、処女膜を喪失することなく婚礼を遂げる」(渡辺)という秘蹟の劇である。それが歌われると同時に踊られるという、いかにも、まことに、渡辺守章好みの「残酷劇」による結末が、マラルメ畢生の『エロディアードの婚姻』には予定されていたと読み解かれたのである。


結び

  以上が、渡辺守章の訳業になる、この『マラルメ詩集』の(複数の)扇を拡げて詠まれる言葉の舞台の情景の幾ばくかである。
 この人にして、この演目があり、そして、このようにかくもその人自身のように、文学は、かれを選び、詩句がかれにのりうつるとは、いかなることなのか。
 マラルメ詩のテクストの扇の奥には、潜勢劇の舞台の襞が幽かに開き、そこから、謡と拍子が、まだ遠く聞こえてきている。 
 だが、今や、翁は、扇をしずかに閉じ、しばらく向きを変えると、橋掛かりへとゆっくりと消えていこうとしている。
 その姿、幽玄の境に入らんがごとく・・ 




[1] 岩波文庫『マラルメ詩集』渡辺守章 訳 岩波書店 二〇一四年一一月刊 六〇〇頁
[2] マラルメは習作時代からポーの「ウラリューム」を翻訳しており、マネの挿絵による一八八八年のドマン版『エドガー・ポー詩集』にもその翻訳は収められている « Ici, une fois, à travers une allée titanique de cyprès, j'errais avec mon âme ; - une allée de cyprès avec Psyché, mon âme. », Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes, tome II,  édition présentée, établie et annotée par Bertrand Marchal, Gallimard coll. La Pléidade, 2003, pp. 737-738.
[3] 「わたしが言う、一輪の花!と。すると  声が消えればその輪郭も消える忘却の外で、具体的な花々とは違う何かが、音楽として立ち昇る、観念そのものにして甘美な、あらゆる花束には不在の花が。」(渡辺守章訳「詩句の危機」『ディヴァガシオン』)

[4] グレゴリオ聖歌に、“Tota pulchra es Maria” と歌われる。
[5] Poésie de Stéphane Mallarmé
Cote : MNR Ms 1171
Date : 12 novembre 1894 
Maquette destinée à l'édition d'Edmond Deman
Bibliothèque littéraire Jacques Doucet Collection Henri Mondor
http://www.calames.abes.fr/plus/num/Calames-2011211162247810# 
[6] 「『マラルメ・プロジェクト』讃」『舞台芸術』Vol. 17 Spring 2013 角川学芸出版, pp. 160-165
[7] 1866年のカザリス宛書簡の「虚無」の発見の時期に執筆していた詩編は、エロディアード詩篇のうち「古序曲」であると推定される。
[8] 註6参照。
[9] 『マラルメ詩集』「年譜」を参照。前掲書 五二六頁
[10] Bertrand Marchal, La Religion de Mallarmé, José Corti 1988参照。
[11] 「詩句の危機」『ディヴァガシオン』所収

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