2015年5月8日金曜日

「政治のメディア介入:少数派沈黙させる権力」『北海道新聞』コラム「各自核論」2015年5月8日(金曜日)朝刊6頁

政府・自民党のメディアへの介入が目に余る。
 昨年十一月にはTBS番組に出演した首相が、アベノミクスの評価に関する街頭インタビューの選別を問題視する発言を行った。続いて、自民党が「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保について」の要請を行った。最近では、テレビ朝日「報道ステーション」でのコメンテータの発言、NHKの「クローズアップ現代」の「やらせ」問題に関して、自民党が両テレビ局の幹部を呼び出して意見聴取。さらに、NHKと日本民間放送連盟でつくる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)について、政府が関与する仕組みの創設を含めて組織のあり方を検討する方針を自民党が表明するなど、踏み込んだ対応へと突き進んでいる。
 政治権力とメディアとの緊張関係は、今に始まったことではない。しかし、アベノミクス株高を背景に支持率が維持されるなか、衆議院選挙で圧勝、地方選でも有利な結果を手にしたとはいえ、政治的アジェンダとしては、日米ガイドライン・安保法制審議の本格化、原発再稼働への動き、TPP交渉、沖縄辺野古問題、戦後七〇年談話問題など、今後は世論が割れるアジェンダが目白押しという政治状況で、政府・自民党がメディアへの対応を強めていることには、政治的な計算が働いているとも考えられる。
 この動きはイデオロギー性が濃厚である。昨年の「朝日新聞」従軍慰安婦報道問題を糸口にして、批判的なメディアへの攻勢を強めているふしもある。テレビ朝日の「報道ステーション」やNHKの「クローズアップ現代」のような、ジャーナリズム的性格の番組に関連してこうした動きが起こっていることも偶然ともいえないだろう。
 言論への圧力は、メディアへの注文を超えて、より深刻なレベルに達してもいる。国会の場で社民党の福島議員の質問中の「戦争法案」の表現を議事録から削除させようとしたなどは、国会という代議制民主主義の中心的な場での表現の自由へのあからさまな挑戦というべきである。
 放送の公平中立・公正の議論にしてもイデオロギー的な非対称性は明らかである。
 政府が任命したNHK会長による、「政府が右と言うものを左とは言えない」など一連の発言はどうなのか。これこそ放送法に触れる物言いだが、「個人的な発言」として政府は問題にしようとしない。別の経営委員が特定候補の選挙応援演説をして他候補を「人間のクズ」呼ばわりするのはどうか。こうしたことのすべては問題視されずに忘れ去れることになった。
 国の行政の最高権力者が、テレビ番組内で編成について論難しても「言論の自由」を主張し、テレビ番組で政府の圧力を批判したコメンテータの発言を官房長官が放送法に触れる等の発言をおこなう。
 さらに、そのゲストコメンテータに入れ替わるように一か月後に同じ番組に登場して、集団的自衛権について容認論を述べたのが元首相補佐官であるとなると、政権のメディア介入という話は現実味を帯びてきたと受けとめられても仕方あるまい。
 現在の政権・与党には、表現の自由や言論の自由について、基本的な規範意識を欠いた政治家の放言が目立っている。他方で、政府は、したたかな世論操作の技術を蓄えてきているようである。状況に合わせて、完全に計画的とはいえずとも、メディア・コントロールを駆使していくノウハウの存在が見え隠れしている。
 政治の勢力バランスが右へと大きく傾き、これに反対しようとする少数意見が沈黙させられていきかねない。メディア界には、足して二で割るようなあやふやな論点設定に終始することなく、より踏み腰の据わった骨太の議論を起こすことが求められている。そして私たち国民にも、政権や与党の物言いを額面通りに受けとらない、健全な洞察力が必要である。
 戦争はいつも平和の大義のもとに進められる。多数派が公平や公正を語るとき、往々にしてそれは、少数派を沈黙させるレトリックである。何事もないがごとくに、戦後民主主義の体制がなし崩し的に変更されかねない時代に、私たちは、より注意深くこの国の政治の動向を監視していくのでなければならない。
 

 
 
 
                                 

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