2014年8月1日金曜日

ベルナール・スティグレール「『国民戦線』の治療法:世界の右傾化をいかに超えるか」(聞き手、解説 訳 石田英敬)、『世界』、岩波書店、No.859, 2014年8月号, pp. 122-131

「国民戦線」の治療法
— 世界の右傾化をいかに超えるか —
 ベルナール・スティグレール×石田英敬
 
石田英敬:ベルナール・スティグレールさん、岩波『世界』ではあなたに対して、象徴的貧困、批判の後退、資本主義の危機をテーマにすでに三回のインタビューを行っています。先頃5月に行われた欧州議会選挙で、EU各国では極右勢力、EU懐疑派、反EU派が勢力を伸ばしました。とくに、フランスでは極右政党FN(国民戦線)の躍進に著しいものがありじつに25パーセントの得票で第一党、25人の議員が当選しました。極右がこれほど票を取るというのは、フランスにおいて未曾有の出来事です。まず、この事件について聞きたいと思います。あなたは、昨年『FNの薬理学』という大著を刊行しましたし二年前のフランス大統領選挙のときにも、2017年にはFNが政権につく可能性があると警鐘を鳴らしていましたね。

欧州選挙と極右の躍進

Bernard Stiegler : 『FNの薬理学』は2013年に出版した本ですが、2012年4月のフランス大統領選挙を目前に発表したマニフェスト的な政治論考にもとづいています。当時現在の大統領オランドがすでに社会党の候補に決まっていたときに書いたものです。私はARS INDUSTRISという資本主義と産業社会の次の姿を模索する知識集団を主宰しているのですが、私たちの主張は、2012年の大統領選挙は2017年の危機に備えるものでなければならない。左も右も、極左も中道もおしなべて既成政党が提示していたような、購買力の増大とか、需要の喚起とか、成長戦略とか、そういう月並みな政治プログラムでなく、真の意味でのオルタナティブ、すなわち、産業、テクノロジー、社会の全面的な転換をふくむ本格的な改革の動きが起こらなければ、次の大統領選挙がある2017年にはFNが不可避的に中心勢力としてフランス政治の前面に登場してくるという警告を発するものでした。このとき私たちが発表した総合的な政治変革のプログラムには、残念ながらまったく反響はなかった。そして、残念なことに、私たちの警告通りに事態は進んでいるように見えます。
 今から二ヶ月前のフランス地方選挙の結果は惨憺たるものでFNが大きく票を伸ばした。今回のヨーロッパ議会選挙では黙示録的ともいえる結果です。フランス人の25パーセントもの選挙民が極右に投票するとは深刻です。しかし、これらは予見できたことでもある。オランド政権の次の政権は極右をふくむことになるだろうと確実視されます。FNだけでなく、UMPなどの伝統的右派が非伝統的右派へと進化していく可能性も大です。極右の小さなグループ政党も周辺には存在して、政治全体の右傾化は一過性ではなく、これから長くつづくと考えなければいけません。

保守革命と市場原理主義

石田 :その原因はなんでしょうか?

BS:分析のすべてを語るには長い時間が必要でが、私たちの分析は次のようなものでした。長期的に見て、現在の世界に問われているのは、二十世紀後半を通して発達してきた消費主義産業モデルの破綻の問題であり、別の産業モデルへの転換が政治的選択の基軸になるべきだということです。
 フォーディズムとハリウッドの文化産業に代表される二十世紀の産業モデルとは、大量生産と大量消費の産業モデルであったわけですが、その産業モデルが行き着くところまでいきその毒がいまや明らかになってきた。2008年のリーマン・ショックに現れた金融危機が決定的にそれを示したともいえる。二十世紀の繁栄をもたらした科学技術と産業という薬がいまや毒に変わり、産業社会の進歩は反転していまや退行となった。二十世紀型資本主義は「構造的愚行」を繰り返すことが顕わになってきた。
 技術革新や産業の発達というポジティブな進歩が、ネガティブな退行に転化するということは、すでに1929年の経済恐慌とその後のファシズムやナチズムの台頭の時代に、ヴァレリーや、フロイトやフッサールが観測していたことです。そして、第二次大戦後、二十世紀の資本主義の危機の兆候は、まず、植民地主義の終焉の結果として1970年代の石油危機の時代に現れました。日本のようなアメリカの覇権に対する挑戦者が現れ、その後アジアの新興経済国も現れた。このときに起こったのがレーガン、サッチャーの「保守革命」です。国家を精算し、資本主義を金融化して金融フローをコントロールしよう。生産は、先進工業国の外に任せよう。ただし、特許やスタンダードなどは、先進国の管理下において知的所有権として知識の流れをコントロールしよう。今日の「金融資本主義」や「知識社会」のもとになる基本的な政治戦略が決定されたのです。
 ヨーロッパではこの1970年代が、慢性的な大失業の始まりでした。この時期にFNはジャン=マリー・ル・ペンによって立ち上げられ、「国家は解決ではない。国家は問題である。」というレーガンのスローガンをFNも掲げたのです。この経済の変化と「保守革命」が、「フランスのレーガン」とも呼ばれたル・ペンのFNの台頭のもとになっています。あらゆる、公共セクターの精算と市場至上主義への従属がテーマ化されます。
 他方、フランスでは、1981年にミッテランの社会党が主導する戦後初めての左翼統一政権が誕生していました。ところが、伝統的な左派であったピエール・モーロワを首相とする第一次内閣が経済的に行き詰まり退場すると、1983年にはローラン・ファビウスを首班とする第二次内閣が生まれ、「保守革命」への適応を主要命題とするようになる。それ以後、フランスでは、右も左も、いかなる本質的な政治経済批判も不在という政治状況が続いてきた。古めかしい伝統左翼的な常套句による批判を除けば、左翼陣営においても金融資本主義のまともな批判は見当たらないのです。

金融資本主義と構造的愚行
 グローバル化や金融化は、マルクスが知らなかった20世紀の出来事です。伝統的なマルクス主義や社会民主主義では、現在の資本主義を批判することはできないのです。
 ヨーロッパ統合の問題に関しても同じ様な批判の不在が見うけられます。私自身ヨーロッパの理念を共有し、マーストリヒト条約が問題となった1990年代初頭にヨーロッパの未来について論考を発表し(それが、のちの『ヨーロッパを構成する』へと発展するテーマですが)、マーストリヒト条約に反対を表明しましたがはほぼ無視されました。知識人やホワイトカラー層からは、反マーストリヒト条約というだけで「反ヨーロッパ主義者」とみなされる。知識界では、マルクスが19世紀に行ったような深度での資本主義批判が行われたことはなかったのです。
 その間にも、金融資本主義はますます昂進し、2008年の金融危機を扱ったハリウッド映画「Inside Job」に示されたように、投機的資本主義に世界はどんどん呑み込まれることになった。御用学者のジャック・アタリがいうように、現在では国家とはホテル業のようなもので、多国籍のノマド企業にどうしたら長く滞在してもらえるか、企業減税をしたり規制を緩和の便宜をはかったりして、ひたすらグローバル企業に使えるサービス業となり下がったといえるぐらいです。世界の情報化は金融資本主義を飛躍的に加速させ、国境を越えて二四時間、金融工学といわれるテクノロジーが、ロボットによって人間の意識の時間よりもミクロなレベルで投機売買を繰り返すようになった。もとは起業家から始まった資本主義は、投機資本主義となった。その結果が、周期的にバブルと破綻を繰り返し、不良債権を生み続けるカジノ資本主義という「構造的愚行の時代」をもたらしたのです。今の世界では「愚かさ」が至る所に蔓延していることには、このようにじっさいの理由があるわけです。「保守革命」以後、世界は「公共的なもの(パブリック)」を売り払い、政治を経済のなかに解消してしまう方向へと向かったのです。
 さらに、深刻なのは、マーケティングの一般化という、人間の精神そのものを経済資源にしてしまう技術の発達です。これが今日のメディア問題の根源にあります。メディアを通したマーケティングによって、人々の精神は「消費者」と化し、政治社会の「市民」でありうるという基盤をどんどん失っていく。「政治」の公共性が、消費資本主義の「経済」によってなし崩しになるとはこのことです。
石田 :投機資本主義の投機筋や、金融資本主義の担い手たちが支持しているとすれば別ですが、「保守革命」とFNのような極右勢力の伸張との間には具体的にはどんな関係があるのでしょうか。ル・ペンは保守革命の信奉者であったとしても、支持層はむしろ、保守革命に取り残された人々、失業や治安の悪化や貧困というような問題を抱えている人たち、ヨーロッパ統合には反対している人たちなのではないでしょうか。

『FNの薬理学』
BS : FNに投票する人たち、FNという政治団体のメンバーではなく、選挙民のことを考えましょう。
 40パーセント以上のフランス人がFNの主張には正しい面があると考えているという世論調査結果も出ています。FNに投票はしないが(極右は、危険だし、何をするか信用ならないと思いつつ)しかし考え方には共鳴できる部分があるというひとが40パーセントもいる。これはとてつもないことです。FNは、フランスにおける支配的なイデオロギーになっているとさえいえる。
 他方、こうした人々に対して、FNに反対する側はどのように対応しているか。環境保護(エコロジー)派のエヴァ・ジョリ候補は、マリーヌ・ルペンが得票率で先行すると、こんな候補に投票するなどフランスの顔に「消すことの出来ない汚点」を残すことだと語ったりする。これは、選挙民を侮辱するようなものです。自分たちの不足、失敗の原因を理解しないで、結果を原因として糾弾するという愚かなことを繰り返している。
 フランスの未来が見えない、苦しんでいるが何が原因か分からない、という境遇に置かれている人々。20世紀の産業社会モデルが意味をもたなくなったと感じている人々。将来に不安に感じている人々。侮辱された生を生きて、不当に扱われていると感じている人々。じっさいに、かれらは、非常に難しい地域地区に住んでいて、さまざまな困難を感じている。自分たちの子供たちも将来が定かでなく、国から見放され、消費主義が生活の状況をますます悪くして尊厳が失われた生を生きている。しかし、彼らは、明確に自分たちの苦しみの原因を理解しえないという状況に置かれている。
 苦しんでいるが原因がわからないという場合に人間が行うのはだれか別の人がその原因であるとして身代わりに苦しめるという反応です。「生贄(スケープ・ゴート)」の原理です。そのような身代わりのことを古代ギリシャ語では、「パルマコス pharmakos」と呼びます。
 この身代わりの仕組みを説明するために、私は著作に『FNの薬理学』という題をつけたのです。
 ここで、「薬理学(ファルマコロジー)」という語を少し説明します。プラトンの時代、ドラッグを意味する「パルマコン pharmakon」というギリシャ語は、薬であるとともに毒、療法であると同時に毒法でもある両価的(アンビバレント)な言葉でした。この語は哲学者のジャック・デリダによって文字や技術を考えるための哲学概念として鍛えられました。科学知識や技術は、社会的身体のための「薬」でもあり「毒」でもある。薬も、処方をまちがえると、毒に転化する。とくに科学と技術に大きく依存している現代産業社会ではこの問題を捉えることは極めて重要です。それを考えるのが私のいう「薬理学」なのです。私は技術というものは薬にも毒にもなるものであると考えていて、とくに産業社会における人間の文明の根底には、技術を有益なものとするか有害なものとするかという根本問題が横たわっていると考えています。そこで、技術の問題を「薬理学(パルマコンの学)」という枠組みで捉えているのです。
 この「薬理学(ファルマコロジー)」には、1 )技術の否定的な効果やそれがもたらす病理を解明するネガティブな薬理学; 2 )技術を有益な効果や治療法、改善策として活用していくポジティブな薬理学があるといえます。3 )それに加えて、この「毒・薬(パルマコン)」と同じ系列の問いとして、「生贄(パルマコン)」の問題が位置している。有害さの原因が分からないときに、本当の原因ではない誰かを原因だとして身代わりを指弾するスケープゴートの病理の解明と処方を示すのが第三の薬理学というわけです。
 今起きていることは、この第三の病理、スケープゴート化現象です。政治家たちがいまの世界に対する原理的批判と新たな展望を持つことを放棄してしまい、知識界や言論界も原因の解明に無力であるというなかで、保守革命後の市場原理主義と消費主義産業社会の悪が生み出した危機に対して、人種差別や公共セクターへの憎悪、国際社会に背を向ける内向きナショナリズムなどが政治テーマ化され、政治の腐敗や欺瞞を言いつのり、政治への信頼を毀損したり公共性の原理そのものを棄却するような主張が広まったのです。

批判の後退・知識人の責任
 事態の根底には、社会民主主義勢力を含めすべての既成政党が、なすすべなく、グローバル化への適応というコンセンサスに終始してきたことがある。知識界や言論界の思考停止状態が、FNのような勢力の源泉となってきたのです。私はいまや知識人は社会的身体の「薬理学」を考えることが重要だと考えています。政治家たちが批判をしないといっても、政治家は知識人でない、むしろ、知識人の責任は重い。ここでいう知識人とは、哲学者だけでなく、科学者、法律家、医学者、技術者、芸術家などのことです。知識人、市民の批判がやむとき極右が権力をとるのです。
 さきほど述べた保守革命以降、現在の資本主義、現代の産業社会についての批判がフランスでは極めて低調でした。私の友人たち、デリダやリオタールもこの点を明確に批判・分析しなかったし、バデューやランシエールの仕事には、マルクス主義から出発しているはずなのに、政治経済批判や技術批判が不在です。そのために、批判の後退が起こり、19世紀にマルクスが行ったような深度での政治経済批判が成し遂げられてこなかったといえます。フーコーが例外ですが、国家権力の批判を行ったのち、マーケティングの批判や社会身体の「養生」の問題にまで仕事を拡げる時間が彼には残されていなかった。フーコーのあまりに早い死でその仕事は継承されなかったといえます。この状況はフランスに限らず、日本でもヨーロッパでもアメリカでも同じだと思います。思想界や言論界で「一元的思考」とか「思考停止」がキーワードになる状況がそれを示している。こうした状況を超える、批判思考の国際的な再生が必要で、デジタル技術やネットワークは上手く活用すれば国際的な公共的批判の言論を組織できると思っています。

「非伝統右派」とアイデンティティーの幻想
石田: 世界各国では「非伝統右派」と呼ばれるよいままでにない勢力が政治的な存在感を増大させつつありますね。アメリカの「ティー・パーティ」や、ヨーロッパの「新しい右派」、フランスで最近さかんにいわれる「社会の右傾化」、同性婚を支持する「万人のための結婚」デモ運動に退行して組織された、2013年の「万人のためのデモ」運動の頃に結晶化した「新しい反動たち」と呼ばれるような人々、日本でも「維新の党」などのポピュリズム政党の動き、政権与党のなかでも現在の安倍首相のような極端な右派の台頭が顕著です。これらの右派では、伝統的な保守とは異なりまともな議論のない情動的な「気分の政治」がせり上がってきている。政治的理性に替えて文化的、社会的、宗教的、民族的、性的などのアイデンティティー・イメージをめぐる主張がせり出してくる。
 しかも、文化産業が私的圏域へと食い込めば食い込むほど、プライベートなコミュニケーションのスタイルが、公的な政治コミュニケーションへと流れだし、公私の区別がつかなくなる。これまでの「ポリティカリー・コレクト」な常識の一線を超えるような露骨で扇情的な表現で政治的イッシューが論じられる。日本では、「嫌韓・嫌中」ブームとか、フランスでは黒人の大臣をサル呼ばわりしたり、ヨーロッパ各地でサッカー選手にバナナを投げたり、日本のポピュリズム政治家が性的奴隷問題について下品でえげつない表現を平気でするようになる。生活世界がコミュニケーションテクノロジーに取り込まれることで拡がった情動的な気分の空間を、右の勢力が取り込んでいくという構図があるといえます。

BS.:二十世紀には、技術的な進歩や、経済の極度な産業化が人々の生活を一変させてきました。すべて消費社会に呑み込まれて、失業が拡がると同時に、人々が守ってきた、これまでの生活様式も、ことごとく急激な変化の渦に呑み込まれた。生産における労働のプロレタリア化だけでなく、メディア産業によって生のプロレタリア化が進んだ。人々は自分たちの生き方の知をも失いかねない状態に置かれることになった。科学技術の急激な進化によって、生の常識、さらには、生命の常識さえもが揺るぎかねない地点にまで一挙に到達したのです。
 生命技術や生殖技術が進歩することによって新しい人間関係のあり方が可能になった。生殖や性的同一性といった社会の基礎になった価値がゆらぐことになった。そこには人々の精神に非常な大きな衝撃と不安が起こる余地がある。
そうした条件の急激な変化には、それを「社会的身体」の問題として人々が受け容れるための、公的な「ケア」が必要だったのです。
 同性婚や生殖医療、代理母などの一連の性的なアイデンティティーや母性や親族性の問題は、十分にその影響が議論されて社会のなかに組み込まれていっているでしょうか。技術が進化する、急激に替わるときには、革命や戦争が起こるということが歴史的には繰り返されてきました。何百万も死者を出した宗教戦争は、グーテンベルクの活版印刷術のように近代の技術がうまれた時期に起こりましたが、技術の進化は、それを受け容れる社会の信念や信仰の体系、文化や生活観との調和など十分なケアがないと大惨事に発展します。
 そうした生殖医療だとか同性婚などをめぐる人々の不安をFNのいまの党首のマリーン・ル・ペン(ジャン=マリー・ル・ペンの娘)は巧みな位置取りで、社会的衝撃の受け皿になろうとしている。これらの問題は、科学技術と社会をどのように調整するかをめぐる「社会的な課題」であって、「道徳問題」や「価値観」の問題のように扱われること自体が、原因と結果を取り違えた私のいう「薬理学(ファルマコロジー)」的現象であるのです。
 
No Future 未来がない世界の未来

石田:日本の場合、最近は若者たちのあいだに非伝統的右派への支持、安倍晋三のような情緒的右派の政治家への支持が高いということが言われています。また嫌韓や嫌中といった偏狭なナショナリズムの主張に若者たちが共感している。この事態と、今の若者たちにはプレカリアート化して経済社会のなかで居場所がない、自分の将来を描けない、未来についての希望がもてないと言われていることとは深く関係していると私は考えています。
BS:フランスでも右派への支持が、若者に拡がっていますが、まだ過半ということはない。高齢者たちは多い。しかし、ドイツではネオナチが進出している。自分たちには「未来がない」と若者たちが感じるようになると、「生きる欲望」を生み出すことができない。「共同の未来」がないと、未来の自分たちへの「同一化」ではなく、「過去の幻想化」が起こる。「未来」への同一化から、「過去」の幻想化や既成の価値への無根拠な同一化という反転が起こるのでしょう。
 サッチャーが「保守革命」を唱え、シティの金融資本主義の時代が始まり、脱産業化により都市郊外が荒廃し始めた時代に、イギリスでは自傷趣味を特徴とするパンク・ロックが起こり、1979 年にNo Futureが合い言葉になったことは象徴的です。No Futureゆえに、過去への幻想、共同的幻想への無根拠な同一化が起こる。未来がない、社会の未来に同一化ができない、「生きる欲望」を造り出すことができないとき「退行」が起こるのです。
石田:若者たちの右傾化は、現在の世界への絶望の表現ということですね。日本でも政権交代が失敗して、何度も繰り返し失敗してきた産業社会モデルをまたもや繰り返して再びバブルを起こそう、国家が金融ファイナンスして投機資本主義に働きかけ、また消費社会をとりもどそうという政策が進められている。
 他方で、新しいメディアの発達によって情報秩序の変容が起こり、ネットをとおして社会的不安や様々なルサンチマンによる下からのファシズムを醸成するような傾向も見られます。ちょうど、二十世紀の始まりに新しいメディア技術が発達したとき、レコードや映画、ラジオを通して、ファシズムやナチズムが台頭したことと同じことが、一世紀をへて、新しいメディア革命を通して進行している感がある。

新階級社会と政治経済批判
 今、アメリカでは、フランスの経済学者のトマ・ピケティの本『二十一世紀の資本論』が飛ぶように売れ、二十世紀が実現したかにおもえた社会的平等は戦争を経験した社会の一時的な資産の平準化にすぎず、世界はいまでは二十世紀の始まりの不平等社会にまで戻っているという研究もあります。
 あるいはパックス・アメリカーナの後退とともに国際秩序も混乱を深めて、今の世界は覇権がせめぎあい、二十世紀の初頭に立ち戻ったとさえ感じられます。
BS:経済成長という考え方自体が時代遅れになっている。金融資本主義のサイクルを繰り返すだけでは世界はますます混乱を深めるばかりです。まさに世界全体が「不良債権化」するばかりです。
 他方で、情報メディア社会の行方も決して楽観できない。おっしゃるとおり、20世紀末から世界を全面的に変容させたインターネットの普及と情報基盤のデジタル化は、まさしく、私のいう「薬理学」の問題でして、良き技術としては極めて豊かなポテンシャルがある。他方で、その有害性も飛躍的に危険度が高い。
 そして、ネットの経営者には、リバタリアン的傾向が顕著であることはとくに心配です。自由を絶対視して「自己責任」論に傾く。この「リバタリアン・モデル」でない別のモデルをネット文化において対置していかなければいけない。ネットを棄却するのではなく、デジタル・メディアに内在的な批判をおこなっていく必要があります。
 あなたとも共同研究していますが、私たちが考えているモデルは、ボトムアップとトップダウンを調整していこうというハイブリッド・アプローチです。公共空間を技術的にもコミュニケーション環境としても、造り出していこう。リバタリアン・モデルは、放置しておくと、とんでもなくポピュリズム的になったり、ファッシズムに陥ったりする。
 真剣に次の世界の政治経済に向き合おうとしない政治に対しては、真のオルタナティヴを提起していくことがなにより重要です。金融資本主義の経済を野放しにするのではなく、マルクスがかつて政治経済学批判を行ったように、しかし、彼のような時代の資本主義を対象にではなく、今の資本主義の危機に対して、新たな政治経済批判を立て直す必要がある。
 ピケティ現象は、資本主義や階級や世代再生産があらためて問われている、富や資産に対する課税、不平等社会の問題ということを表していると同時に、資本主義をどのような方向に向けていくべきかという問いを考える契機になればいいと思います。総人口に対してわずか1パーセントの人々が国の総資産の25パーセントを占めるというような経済社会で、すべては自己責任が原則などおかしなことです。ピケティのような分析は、社会的平等とはなにか、ということをあらためて問い直すことにつながるでしょう。
 なによりも人々の能力を培い直す政策が採られなければならない。消費資本主義の経済ではなく、人の生きる力を培う「貢献の経済」と呼ぶアプローチですが、ひとりひとりが環境に適応できるような、エンパワーメントの政策が求められる。教育や地域をつくりなおす地道なアプローチが必要です。アマルティア・センの経済学が説くように、能力の質を育てる経済から、新しい時代の真のオルタナティヴを創り直すことが求められているのです。


解説:
ここに訳出したのは、現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが本年5月に来日した際に東京大学で収録したインタビューである。『世界』ではすでに過去三回スティグレールのインタビューを掲載している(「象徴的貧困というポピュリズムの土壌」No.752, 2006年5月号, 「「批評の危機」という象徴的貧困」、No.773, 2008年1月号, 「二〇世紀型「消費主義」が終わった:象徴的貧困と資本主義の危機」、No.802, 2010年3月号)。
スティグレールは、技術と社会との関係を文明論的射程で考察し、文化産業に支配される現代社会の批判を行い、情報社会における人間精神のエコロジーを説く現在フランスを代表する哲学者。『技術と時間』全三巻(邦訳法政大学出版)や『象徴の貧困』(新評論社)で知られる。同時に、認知テクノロジーと呼ぶIT技術を活用した知識技術を研究開発する仏ポンピドゥーセンターIRI研究所を率い、また新たな産業社会の姿を模索する知識集団ARS INDUSTRIALISを組織し、また若者たちのための私設の哲学学校を創設するなどして、現代社会への実践的な取組を組織してきている。2012年のフランス大統領選挙の際には、知識集団ARS INDSTRIALISとともに消費型資本主義からの脱却を解く提言を発表した。とくにオルタナティヴなき政治では極右の国民戦線が政治の中心に躍り出てくるであろうことを警告して、1970年代の保守革命以後の資本主義の行き詰まりとその処方箋を説く『国民戦線の薬理学』を昨年2013年には発表している。
今年5月25日の欧州議会選挙では、ヨーロッパ各国で反EU脱EUを主張する勢力を伸ばした。1970年代に登場したフランスの極右「国民戦線(FN)」は、創始者のジャン=マリー・ル・ペンの娘マリーン・ル・ペンが党首となって以来支持率を伸ばし、今回の選挙では約25パーセントを得票、サルコジ前大統領の流れをくむ保守中道の連合政党UMP(20.8パーセント),フランス社会党(約14パーセント)を押さえて圧勝、第一党に躍り出た。本インタビューはこの情勢を踏まえて選挙結果の発表直後に行われた。