2013年12月18日水曜日

「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 日本記者クラブ

「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 配布資料

「ディジタル時代に公共圏を再定義する」(抜粋)

石田英敬(東京大学)

0 現状分析 「世界の別の別の回転」

「帝国」以後/ 「ポスト帝国」以後
1) 戦争秩序の破綻 → ポスト帝国以降 (中東危機)
2) 生政治の破綻  → 「オバマ・チェンジ/日本の政権交代」失敗以降
3) 表象によるメディア統治(gouvermédiabilité)の破綻 → ポピュリズムの短期化
4) 主体性の危機/象徴的貧困の進行 (メディア変動と深く連関)
5) 金融資本主義の危機/リーマンショック後の世界(ソブリン危機の慢性化)

1 公共空間の転換期

「公共空間」とは、ここでは、ごく単純に、メディアを通して「公共の事がら(=政治)」を議論するための報道と言論による媒介空間のことであると述べておこう。

グローバル化とは何よりも情報〈の/による〉世界化だった。「グローバル経済とはリアルタイムで地球規模でひとつの経済として機能しうる経済」であり、「世界経済が情報コミュニケーション技術という新たなインフラストラクチャーによって真の意味でグローバルになったのは 二十世紀末をまって」 (Manuel Castells The Network Society) である。冷戦終結を起点にして現在にいたるまで形成されてきた情報の世界秩序もいま転換期を迎えている。

1) 世界市場化と画一化
2) グローバル秩序とイメージの力
3) ドメスティケイトされる公共空間
4) メディアによる統治(gouvernemédiabilité
5) 情報秩序の再組織化

1990年代以降の情報のグローバル化は、もちろんインターネットの形成期でもある。情報コミュニケーション・テクノロジー(ICT)の革命なしに今日のグローバル化はない。しかし、およそ二十年間にわたって、およそあらゆる情報が投げ込まれネット上に浮かぶようになった結果、現在起こりつつある事態とは何だろうか。
 インターネットの第一期とは異なり、現在進行しつつあるのは、ネット環境の「再組織化」である。そしてネットに限らず、あらゆるメディアがICTをプラットフォームに再組織化されていく。グーグルに代表される検索エンジンによって、グローバル化した世界の情報が技術的に秩序づけられていく。「セマンティック・ウェブ」と呼ばれる技術によって、意味論的に秩序づけられていくのである。グローバル化の意味論(セマンティクス)自体が、ウェブの組織原理の技術的再編と重なっていく。Web2.03.0とは、そのようなウェブの再組織化の動きだった。次に「ビッグデータの時代」が来て、「政治マーケティング」などが基本的な政治ツールとなった。
 ネットが基盤となって公共空間の再編が進んでいく。放送と通信の融合にしても、新聞とネットとの連動にしても、ウェブを基盤として他のメディアが組織されなおされていくことを予告している。「公共空間」の大きな変容のモーメントがそこには見えているといえる。現在いえることは、放送・活字とネットという三次元の「公共空間」へと移行しつつあり、ネットは、グローバル化世界を意味環境化する基幹テクノロジーとして機能し始めているというぐらいである。
 ネットへの移行はマスメディアのゆるやかな解体を伴っている。「情報はタダ」という時代をまえに、大メディアはビジネスモデルの不在に頭を悩ませている。アクセス数における「ショートヘッド」(アクセス数の集中する数少ないサイト群)の位置を占めるべく大メディアは競争を繰り広げている。 他方、確実に発達したのは、マーケティングの技術である。政治自体の「情報テクノロジー化」である。ネットがもたらしたのは、「情報空間の組織の仕方」自体が「政治の実践」となる時代の到来である。
 (ネットに取材し、(マス)メディアが伝え、アジェンダ化する、という流れが、一定程度定着)。(この場合、ネットはオールタナティヴというよりは、ポピュリズムの温床)。

 戦争とともに形成されてきたグローバルな情報秩序の綻び。内向化され消費文化に浸されてきた人々の意識の危機。さらに、金融資本主義が破綻し資本主義の大変動期を迎えることになった。それらは現在起こりつつある「公共空間の転換期」を示している。

2. <政治>の危機と<社会的なもの>の浮上、そして<ネット>の浮上


1)「権力のメディア的変容」の綻び(「大統領型」統治の終焉)
2)「テレビ的代表具現」
3)「テレビにおける公共性の再転換」?
4)「社会」の再発見(La nouvelle question sociale
5)「ネット・ポピュリズム」の浸透

3. ジャーナリズムの情報オントロジー 

 現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介するというのが、規範的な意味での〈ジャーナリズム〉の活動。
 私は、記号学・情報学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報存在論(オントロジー)」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
 「新しい出来事」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は、「ニュース」という「新しい知らせ」の「主題(テーマ)」へと書き換えられ「伝達」の回路に導き入れられる。その「主題」は「話題(トピック)」となり、「交換」の場へ「流通」のために差し向けられる。「話題市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはおよそこのように出来ていると考えられる。
 すぐれた報道やスクープには、新しい情報価値の「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。
 現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出される。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を人びとに向けて開く契機が胚胎している。「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter - esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」への開かれにあるだろう。発見された「問題」は、ニュースの「主題」になり、次に「話題」になり、ついには「社会」にとっての「課題(アジェンダ)」になるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
 しかし、現代生活の「自己充足」したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される傾向がある。前回述べたような世界化の情報秩序は、そのようなニュースのグローバル市場化の動きを加速させた。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
 情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、原理的にいってそれらはすべて既知となった「情報」である。しかし、新しい情報や知識を抽出してくる生産のプロセスが、そこでは不可視化される。

「取材力」という資源

  しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す能力に関して言えば、公共マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大な人的リソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題は情報流通の経済にある。
 「事実」に対する合致を通して「情報価値」を生み出す力をメディアは源泉とすべきなのである。そこから逆算して、どのような情報の流れの集密度を達成するかが、それぞれのメディアの経済的なポジションを決めるだろう。現在のように社会が危機を迎え、ひとびとの生活世界にメディアが触れるときこそ、ジャーナリズムを再定義する「情報オントロジー」が求められているのだと思われてくる。

4. 公共空間の解体

1)「生活情報」化
2)紙面という「媒介システム」
3)「一覧性」や「実時間性」
4)「実世界性」


一覧性

新聞の情報一覧性についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
 たしかに、社会の関心事を共有する平面をもつとは、「公共性」の条件である。右に述べた、紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。
 ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられている。
 こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
 いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動である。
 問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生ー政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの公共空間の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。
 いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。

実世界/実時間への現前

テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。ヴァーチャル化のメディアが登場するにつれて、テレビの特性とは、そのリアルタイム性、実世界との同時的な接触にあることはまちがいない。活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 バーチャル化の時代には、アーカイブを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。「時間」と「アテンション」のエコノミーが、語られる現在、これは極めて重要な社会の争点である。


5. 公共空間を編み直す

1)ボトムアップとトップダウン
2)ネットを編み直す
3)批判テクノロジーと参加型民主主義
 ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。

ボトムアップとトップダウン

ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
 他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
 私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。

ネットを編み直す

 情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
 マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
 誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
 無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
 「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
 ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられる。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべき。

批判テクノロジーと参加型民主主義

マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
 「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
 そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。「参加型民主主義 Démocratie participative」)が、争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。

参考論考:

(1) 「テレビ国家(1):権力のメディア的変容について」、『世界』、岩波書店、No.753, 20066月号, pp. 49-57
(2) 「テレビ国家(2): 公共空間の変容について」、『世界』、岩波書店、No.754, 20067月号, pp. 138-146
(3)「テレビ国家(3): 政治の変容について」、『世界』、岩波書店、No.756, 20069月号, pp. 41-49
(4) 「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 200610月号, pp. 104-112
(5) 「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 200611月号, pp. 153-161
(6) 「公共空間の再定義のために(1)二〇〇八年の政治メディア状況」、『世界』、岩波書店、No.779, 20086月号, pp. 71-80
(7) 「公共空間の再定義のために(2)回帰する社会」、『世界』、岩波書店、No.780, 20087月号, pp. 103-112
(8) 「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 20088月号, pp.79-88

(9) 「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 20089月号, pp. 112-121

2013年12月9日月曜日

「読書の未来」、立花隆『読書脳:ぼくの深読み300冊の記録』巻頭対談、 350頁、2013年12月9日、文藝春秋 刊、pp. 13-45



石田
私は一九七二年に東大に入ったんですが、立花さんはよくご存じのように、その頃は学生運動がどんどん暴力的になって、対立するグループの抗争が激しくなった頃でした。は、立花さんの『中核vs.革マル』(講談社文庫)に私の名前が出てくるんですよ。「石田君」と

立花
えっ。

石田
インターネットで「石田英敬」を検索すると出てきますよ。当時の内ゲバで、中核派に友人が二人殺されました。その話が立花さんの本に出てくるんです。

立花
そうなんですか。石田さんとは何度もお会いしていますが、そういう過去をお持ちと
は、全然気づきませんでした。

石田
その事件の後、私は日本にいられなくなって、七五年にパリに留学したんです。

立花
そういうことだったんですね。留学中は、石田さんも相当ディープリーディングしたんじゃないですか。

石田
そうですね。生きていることの意味をかみしめながら、毎日、人でひたすら本を読む日々でした。当時読んだもの中で、とくに印象に残っているのは、Deleuze の Nietzsche et la Philosophie(邦訳『ニーチェと哲学』河出文庫)です。そζこに語られていたのは、肯定の思想で、へーゲルやマルクスの否定の弁証法に親しんでいた私には衝撃的でした。当時のパリはいまでいうととろのポスト構造主義の絶頂期で、ミシェル・フーコーやドゥルーズが活躍していました。私もコレー ジュ・ド・フランス(フランス最高峰の高等教育機関。講義は公開)に出かけていってフーコー の講義を聴いたり、ヴァンセンヌの森の大学(パリ第八大学)に行ってドゥルーズの講義を聴いたりしたんですが、そうした経験のおかげで、私はパリで新たに思想を発見することができたんです。それがいまの自分の研究の出発点になっています。


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