2013年11月1日金曜日

「「半沢直樹」の決め科白: 尊厳回復の叫びに共感」『北海道新聞』コラム「各自核論」2013年11月1日(金曜日)朝刊9頁

各自核論 尊厳について 
東大大学院教授 石田英敬

 2011年1月チュニジアの「ジャスミン革命」は、一人の青年の焼身自殺から始まった。チュニジア中部の都市シディブージドに住む、モハメド・ブアジジ26歳は、露天商として果物を売って貧しい生計を立てていたが、その日、広場で警官から公衆の面前で侮辱され、あしざまに平手打ちを受けて、屋台の品物と商売道具の秤を没収された。抗議に向かった市役所でも、訴えは聞き入れられず(なにしろ、役所に願い出るには賄賂が必要)、追い返された。絶望した青年は、商売道具の屋台にポリバケツのガソリンを浴びせ自分自身も頭からかぶって、ライターで火をつけた。炎に包まれたブアジジの姿は、すぐさまネットに投稿されて世界を駆け巡り、二十数年にわたって国を支配したベン・アリ独裁政権を倒す革命の烽火となった。
 ここには、地を這うように生きていた一人の青年の「侮辱された生」と「人間の尊厳」をめぐる命を賭けた抗議、その行為がバタフライ効果のように人びとに巻き起こしていった共感と憤怒の渦がある。民衆が立ち上がるとき、必ずしも経済的理由からだけではない。当時チュニジア経済は比較的順調(成長率3パーセント台を維持)、北アフリカ諸国のなかで相対的には制度的近代化を進めていた国である。支配層の腐敗の横行、正義無き社会の慣行が、人びとの心に澱のように鬱積していたのである。
 社会が貧しくとも人びとが「廉直な生」をまっとうしうる時代や国もあるだろう。生きにくさとは、いちがいに貧しさと同義ではない。生が侮辱されている、そう感じたとき人びとは声を上げ立ち上がるのである。
 それは、決して遠い国の出来事ではなく、私たちの社会とも無縁ではない。
 この夏に多くの視聴者が熱中したTBS系列のテレビドラマ『半沢直樹』が描き出したのも、「侮辱された生」と「尊厳の回復」の物語である。
 銀行から貸しはがしに会い自殺に追いやられた父を持つ主人公。連鎖倒産へと追いやられる大阪の下請け零細工場主。銀行エリートでも少しでも失敗すれば、「出向」という島流し。廉直な生を生きてきた人びとが、非情の仕打ちに会い、侮辱された生が待ち受けている。他方で横行しているのは、粉飾決算や計画倒産、銀行や企業の系列化や同族支配。テレビドラマらしい分かりやすい人物類型、推理ドラマ仕立ての波瀾万丈な展開、歌舞伎や時代劇を思わせる俳優たちの大見得演技で、圧倒的な視聴率を獲得したドラマ史に残る快作だった。
 誇張やステレオタイプを通してであれ、「経済」の振る舞いを分かりやすい勧善懲悪のドラマに仕立てることに成功したのである。 
 このテレビドラマの陰の主人公は「金融資本主義」である。メガバンクの中枢部に舞台が設定され、回を追うごとに視聴者は、粉飾決算や計画倒産、迂回融資、引当金、金融庁検査、等等と次々に「経済知識」を学びつつ、経済ドラマに「はまる」仕掛けになっている。しかも、その金融資本主義のドラマは決してテレビの中だけで完結しているわけではない。
 グローバル化は、廉直な生を営みつづけられるとはだれにも保障されていない世界である。資本の運動は目に見えない。なにか時代の空気がおかしくないか、なにかが間違っていないか、と思いつつ、真綿で首を絞められるように進行していく逼塞感と不安は、多くのひとびとの意識の裏側に貼り付いて離れない。
 バブル崩壊の不良債権処理やリーマンショックの後始末、東電による福島原発事故の処理、だれもが、支配層のモラルの頽廃、巨大資本の身勝手に翻弄される社会の記憶をとどめている。じっさいに生を脅かされ、跪かされ、ひれ伏し、土下座させられる人びとの苦汁の光景も既視感に満ちている。
 そんななかで人びとが、一瞬でも具体的な「悪」の正体をあぶり出してくれるドラマを見るなら、この状況に一矢報いるべく、だれもが一度は叫んでみたい決め科白、それこそ、「やられたらやり返す。倍返しだ!」
 
 いしだ・ひでたか 53年千葉県生まれ。東大文学部卒、パリ第10大学大学院博士課程修了。専攻は記号学・メディア論。著書に「自分と未来のつくり方」「現代思想の教科書」「記号の知/メディアの知」など。