2010年6月18日金曜日

『自分と未来のつくり方 ~ 情報産業社会を生きる ~ 』、岩波ジュニア新書、岩波書店 196頁 2010年6月18日刊



 私が、この本を書くきっかけとなったのは、東京の私立麻布学園中学校・高等学校の読書クラブの皆さんとおこなった五回の課外授業でした。中学生から高校生まで、男の子も女の子も(麻布学園は男子校ですが、お兄さんにつれられて、別の女子校に通う妹さんも参加してくれました)集まって、熱心に聞いて、質問をしたり、コメントをしてくれました。
 あらかじめ、ミヒャエル・エンデの物語『モモ』を読んでくることが、この授業に参加する、たったひとつの約束でした。
 土曜日に集まって、私たちが日々生きている産業社会ってどんなふうに成り立っているんだろう。映画やテレビのような文化産業はどのように生まれたのだろう。メディアによって、人びとの時間の経験はどのように変化したのか。そのようなことがらを、毎回一つずつぐらいのテーマで、みんなで、考えてゆきました。
 そうすると、時間とは何かとか、意識はどんなふうに生み出されるのかとか、欲望とはどんな問題なのかとか、資本主義ってどういうことなのかとか、哲学や経済学であつかうような問題にも話は拡がっていきました。
 プラトンの話をしたり、デカルトの例をひいたり、フッサールの現象学が考えようとした時間の問題をとりあげたりしながら、アナログメディアやデジタルメディアが引き起こした問題とはどういうものなのかをみんなで考えていくことになったのです。
 その麻布学園での授業をもとに書き上げたのがこの本です。
 中学生・高校生を相手におこなった授業をもとに書いたものなので、中学生でも高校生でも読めるように書かれています。
 この本は、情報やメディアと私たちの生きる社会との関わりについて説明したものですが、でも、現代の技術やその使い方についてだけではありません。現代の社会にあらわれている情報やメディアの問題を、人間の文明のなるべく大きな見取り図のなかで考えていこうとするものです。
 「人間」にとってどういうことなのかを、あるときは哲学の問いにさかのぼって考えたり、『モモ』の物語や宮沢賢治の作品などの作品を手がかりに考えていきます。
 本のタイトルを「自分と未来のつくり方」としたのは、僕たちが暮らしている情報産業社会では、とくに皆さんのように若い人たちが「自分」であろうとすること、「自分」になっていくことが、メディアや情報との関係と深く結びついているからです。そして、それは、皆さんが自分たちの「未来」を思い描いていく想像力のあり方とも深くかかわっている問題だからです。
 最後に、この本は、いったいどんな学問についての本なのだろう、って、疑問に思うひとがいるかもしれませんね。
 私は大学では、記号学とか記号論と呼ばれる学問を講義していて、情報技術を応用してメディアを分析する方法を研究しています。それは情報学と人文学のあいだをとりもつような、おそらく世の中の大人たちもまだよく知らない新しい学問の領域です。
 この本では、そうした新しい研究の考え方を紹介するだけではなくて、そこで分かってきている、最新の理論や知識も分かりやすく語っているところもあります。ですから、この本は、まだこれから生まれつつある学問の探求を背景にして書かれていますが、でも決して難しい本ではないはずです。
 私は、ここに述べられているようなことがらは、少し先の未来社会では、だれでもが知っていてほしいものだと考えています。だから、これは、新しい常識の本、もうすぐ来る時代の教養の本なんだ、って思ってもらえたらいいな、と考えているのです。
 その意味で、この本は、できれば、大人たちにもぜひ読んでもらいたい本です。そして、子だもたちと話をしたり、家族での時間の過ごし方について、考える手がかりとして役立てていれたらいいなと思っています。
 それでは、授業を始めましょう。


 

本書の一部は、東京書籍刊 『新編 国語総合』に評論文「未来をつくる想像力」として採用されています。

NHK 高校講座「国語総合」教材
 未来をつくる想像力(1) (石田英敬
 未来をつくる想像力(2) (石田英敬)



2010年5月10日月曜日

『現代思想の教科書:世界を考える知の地平15章』、ちくま学芸文庫、筑摩書房 384頁 2010年5月10日刊



総括と展望: 新しい人文知のために

 
 
 I  20世紀知の問題圏

 まず、私たちが辿ってきたテーマを簡単に振り返ってみましょう。
まず、私は、現代世界における知と世界との関係を「4つのポスト状況」という言い方で特徴づけました。すなわち、1. 私たちの世界は活字メディアによる文明圏が一区切りを迎え、「ポスト・グーテンベルク」状況に突入しているという認識、2.「近代」を作り出していた歴史的経験のプロジェクトが頓挫し、「近代」を支えてきた知と文化の階層秩序が崩れ去り、平準化した「ポスト・モダン」状況という認識、3. 「国民国家」を単位とする世界システムがひとつの終わりを迎え一国的な言語・文化が相対化をうける「ポスト・ナショナル」状況を私たちは生きているという認識、そして、4. 「人間」という認識のユニットが自明でなくなり、「人間」と「テクノロジー」との境界がゆらぐ「ポスト・ヒューマン状況」が一般化しているという認識でした。これら4つの「ポスト状況」の認識ですが、もちろん相互に深く結びついた関係にあり、同じひとつの巨大な問題圏についての四つの見取り図でもあると述べたと思います。
 そのような見取り図をもったうえで、私たちは、過去ほぼ1世紀のあいだに起こってきた知の変容と思想の運動のなかから、言語・記号の問題(2章、3章)、無意識の発見や理性批判の契機(4章)、文化相対主義や多文化現象についての認識パラダイム(5章)、マスカルチャーや消費社会のイメージや欲望の原理(6章、10章)、メディアや情報技術の問題系(9章、10章)、権力や社会の成立原理とその変容(7章、8章)、戦争や国家の変質と政治の原理の変化(11章、13章)、マイノリティや複数化する世界における解放実践のテーマ化(14章)などに焦点を当てて、それぞれの問題系について、重要な提起を行ってきた思想家たちの仕事を紹介し、どのような思想的な問いが問われ、どのような可能性が広がったのかを示してきたつもりです。
 いま各章で紹介した、すべての思想家の仕事を具体的に振り返って位置づける余裕はありませんが、さきほど挙げた「4つのポスト状況」という現代思想の巨大な問題圏との関わりでいえば、およそすべての思想家の仕事が、この見取り図のどこかに位置付き、その問題圏に働きかけ、強い影響を与え、問題の新たな配置を作り出してきたことが分かるはずです。
 例えば、<ソシュール>や<パース>ですと、言語や記号の問題を、「ポスト・グーテンベルク」的な方法によって研究し、現代の知への認識論的な衝撃を生み出したこと。それが、やがて人間の記号や象徴操作の知として「ポスト・ヒューマン」の問題系とも結びつき、また「文化」をモデル化する「構造主義」のような20世紀の文化理解への道を拓くことで、「ポスト・モダン」や「ポスト・ナショナル」という問題系とも響き合っていたことが分かります。
 あるいは、<フロイト>についてなら、西欧的な理性についての文明論的な批判を可能にすることで、「ポスト・モダン」や「ポスト・ナショナル」な思想の動向の源泉ともなりましたし、「無意識」の問いは、大衆社会における「社会的無意識」についての問いかけや「技術的無意識」の問題にまで拡張されて豊かな適用をうけてきたことは周知のとおりです。
 20世紀後半の思想家になりますと、彼ら自身が、「4つのポスト状況」についてそれぞれ明確な認識を持って仕事をしていきますから、かれらの思想がこうした基本的な問題圏の構図を共有し、それに働きかけることになっていきます。
 例えば、<フーコー>は、明確に「ポスト・ヒューマン」についての鋭い認識を持っていましたし、ナショナルな政治原理を「規律社会」研究にもとめると同時に、「生政治」や「生権力」という生命テクノロジーと結びついた「コントロール型社会」における「ポスト・ヒューマン」な権力を鋭く問う視点を準備していました。「理性」への懐疑(=私たちの整理でいう「ポスト・モダン」と響き合う)が彼の仕事の初期からの強いモチーフでしたし、フーコーの「言説理論」は、グーテンベルク圏を超える「アーカイヴ」の一般理論のうえに基礎づけられたものでした。その点で、彼もまた「ポスト・グーテンベルク」状況を自らの問いの出発点とした思想家でもあったといえるのです、
 このように、私たちが見てきた重要な思想家の仕事は、20世紀初めから21世紀初頭にかけての知の問題圏の基本的な構図との関わりにおいて成立し、その構図に働きかけることを自らの問いとしてきたと理解できる。<ソシュール>や<パース>や<フロイト>や<フーコー>という名前は、現代思想の巨大な問題圏をゆび指す<固有名>であるといえるのです。

あらためて、「思想」とは・・・
 さて、そこで、「総括」のための問題提起です。
 これは、本書の冒頭でも提起された問いなのですが、あらためて、いま再び問うてみたい「問い」があります。それは、他でもなく、「思想とは何か」という、単純かつ巨大な問いです。
 「思想」とは、まず端的にいって「考える」ということであり、私たち一人ひとりが世界の基礎付けを自分の思考によって行うことこそ、「思想」の経験であると、私は冒頭で述べていました。
 本書の各章をとおしてテーマを一巡してきて、再び、改めて、「思想とは何か」と問うと、「思想」という経験の内実が少しは具体的に分かってきはしないでしょうか。
 わたしが言いたいのは次のようなことです。 
 「私たち一人ひとりが世界の基礎付けを自分の思考によって行うこと」が「思想」の経験だ、と私は述べていたのですが、これは、つまり、さまざまな知の領域において探究されてきた問題圏を知り、そこにおいて、人間の存在にとって根本的な価値にかかわる問題とはどのようなあり方をしているのかを理解し、ひとり(「自分の思考」)で「世界の基礎付け」を試みる経験だ、と述べてきたわけです。問題圏は多様な拡がりをもち、知の領域は様々だけれども、それを知りながらも、ひとりで「世界を基礎づける」ことができるようになる、というところが重要なポイントだと思います。このような「自分の思考」による「世界の基礎付け」を、ここでは「総合」(英語でいうsynthesis)という言葉で呼ぶことにしましょう。「総合」とは、それまでに定立された複数の命題をまとめあげてひとつの命題に統合して定立することです。
 「考える」ということをとおして、私たちは世界を基礎付ける「総合」を行うことが、ほんとうにできるのでしょうか。できるとすれば、その「総合」を行う能力とはどのようなものなのか、どのような知なのか、そのことが、この「総括」セッションでは問われなければならない、ということになります。

II 「総合知」は、今どのようなかたちをしているのか

 本章を通して行ってきた、「現代思想の地平」のような講義は、まさに、「総合」をおこなう「知」とは、現在ではどのようなかたちをしたものなのか、という問いと直結しています。この問いこそ、この最終章に取り上げ考察すべき中心テーマであると思えてきます。
世界をラディカルに問う
 なぜなら、私たちが本書の各章を通しておこなってきた問題の辿り方は、私たちは、どの知の領域についても、それを「専門領域(ルビ:ディシプリン)」として究めようとしてきたのではなくて、そのいずれの専門家としてではなく、しかし、その領域において問われている人間や世界についての普遍的な問いとはなにか、を手がかりとして問題群を辿ってきたからです。
 もちろん、これは、広く浅く知るというような、ある種の知のアマチュア主義や、悪い意味でのジャーナリスティックな態度を推奨しようなどということではありません。そういう悪しき教養主義とは、まったく正反対の方向をめざしていると、すくなくとも私は考えています。めざされているのはむしろ逆です。私たちの「現代思想」の冒険を動機づけているのは、どこまでラディカルに現代世界を問うことができるのかという「ラディカリズム」の問いだからです。
 私たちの考察は、実に多様な学問分野において提起された問いを扱ってきました。言語学であれ、社会学であれ、メディア論であれ、精神分析であれ、文化研究であれ、それぞれの学問分野で問われた問いの学際的(ルビ:インターディシプリナリー)な連関こそが、むしろ、ここでは導きの糸となり中心的な考察課題になってきました。つまり、「インターディシプリナリーな問い」への照準がここでの一貫した特徴的アプローチであったということになるのです。しかし、すでに述べましたように、それは、あくまでも、「世界の根拠を問う」というラディカルな企てのための方法として、という条件下でのことなのです。

総合知の歴史的位相
 ここで少し、私たちが置かれている知の状況を確認すると同時に、歴史的パースペクティヴのなかに「総合知」の問題を位置づけて考えてみることにしましょう。
 私たちの現代においては、学問の世界においても専門化・細分化が進み、ひとつの分野での個別の研究からは、世界の成り立ちや人間が置かれている条件について一般論的な射程を持つ問いを立てるのが難しいという事情があります。このような世界にあっては、ひとは、たとえ、学者や知識人であったとしても、特殊な領域における専門家ではありえても、一般的な射程をもつ視点を持ちにくいということがあります。
 他方、歴史的に見れば、様々な領域知を総合するポジションを占め、知と世界との全般的な関係づけをおこない、人間にとっての普遍的な価値について問いを立てる役割は、従来、哲学者とか、思想家、あるいはひろく人文学者(ユマニスト 英humanist/仏 humaniste)によって担われていました。哲学 (英Philosophy/仏philosophie)や人文知(英Humanities/仏Humanités)とは、そのような総合的な知の営為であったのです。
 ところが、私が本書をとおして描き出してきた、現代思想の問題圏は、現代世界における哲学や人文知といった「総合知」の可能性について、パラドクシカルな構図を示しています。と言いますのも、本書で「4つのポスト状況」として描き出してきた診断こそ、<知>と<世界>と<人間>との関係をめぐる全般的な問題圏のマップでありながら、まさしく、従来の「人文知」、あるいは「哲学」の失効を診断する見取り図でもあるからです。
 「人文知」とは、ラテン語の「フマニタス(Humanitas)」を語源とする、ルネッサンス以来の知の伝統であり、文献と文化の研究をとおした人間の普遍的価値の探究を意味していました。「哲学」もまたよく知られているようにギリシャ以来の普遍的な価値の追求です。ルネッサンス以後の「近代」を考えれば、「哲学」は「人文知」の核(ルビ:コア)を構成する「知」のエートスと考えてよいでしょう。
 ところが、「人文知」によって基礎づけられる人間文化とは、私たちが描き出した「四つのポスト状況」との関わりでいえば、まさしく終焉を宣告された文化そのものの見取り図とぴったりと重なるものであるのです。
 すなわち、「人文知」は、ルネッサンスにおけるその成立以来、文献の正確で精緻な研究と読解にもとづく知であり、「グーテンベルク期」のコアになる知のことです。良き書物を正確に読み「教養」を高めれば人類の「普遍的な価値」に到達しうるというのが、まさにフマニタスとしての「教養」のあり方の基本です。じっさい、21世紀初頭の私たちでさえ、「古典」を読むことを推奨され、「良き書物」を読み「教養」を身につけることが、宇宙の真理に近づく道であり、人間としての完成に欠かせざる条件であるという「常識」を持ち合わせています。だからこそ、子供たちが本を読まないことを心配したり、若い人たちに「教養」が欠如してきたことを嘆いたりしているわけです。しかし、「ポスト・グーテンベルク」とは、こうした文化の前提条件がもはや自明ではない、という「時代診断」でした。
 「近代」はまた、「理性」の時代でした。「書物」の知を総合しているのは、「理性」であり、書物や活字は「理性」の住処であり、近代の学問は「活字」や「書物」を特権的なメディアとして、学校や大学を社会的な制度として、生まれました。「書物」の「作者( 英author/仏auteur)」になることが「権威(英authority/仏autorité)」であり、百科全書やヘーゲルの体系のように、世界の存在根拠は<知>として「絶対の書物」にまとめ上げられるべきものであったのです。文字の知、書物の知こそが、「上位の知」であり、文字を持たない文化や言語は「下位の文化」であり、「啓蒙 英 (Enlightenment/仏Les Lumières)」という「理性の光」の進行の物語のなかに編入されるべきものとされていたのです。「理性」の統合機能こそが、「知の総合」を可能にしていたのです。ところが、「ポスト・モダン」とは、そのような「近代」および「西欧」の「理性」への懐疑であることは、すでに本書をとおして見た通りです。
 近代における「人文知」は、「国民語」と化した「西欧語」によって担われました。「教養」は、ナショナルな言語で教育され、「古典」はそれぞれの国の「俗語」で書かれており、「国民文化」の形成が「古典的教養」の涵養と同一視され、制度や政治的カテゴリも国民国家単位で整備されました。近代における人文知は「ナショナル」なものと等価であったのです。クレオール化などの「ポスト・ナショナル」状況は、この前提を崩します。そして、普遍的な問いを「ナショナル」な境界を超えて作り出します。モノリンガル(単一言語的)な知が普遍性を持たなくなるという経験は今日いたるところで観察されています。
 「人文知」とは、文字通り、「人間」による「知」であったのですが、「人間」を「知」の中心的な主体とすることが、ますます自明でなくなったのが「ポスト・ヒューマン」状況であると述べました。「人間」が、良き書物を読み、教養を高め、国の言語や文化に精通し、理性を正しく行使するならば、「人間」は、かれの「理性」の力によって、自然や野蛮を支配し、理性的な秩序を打ち立て、世界を統治することができる、というのが、根本的なヒューマニズム(「人間主義」)の原理です。「人間の終焉」をめぐるフーコーの有名な診断に述べられたように、「人間」を知の配置の中心に据えた学の布置は、言語や記号や情報の知、あるいはさまざまな数理テクノロジーによって突き崩され、固有に「人間」によって基礎づけられる価値が浸食されているのが「ポスト・ヒューマン」状況であることはすでに見ました。
 このように「知による世界の総合」を担保していた「知の配置」が崩れた状況をこそ、私たちの「現代思想の地平」は指し示していたのです。

III <来るべきユマニスト>の条件:新しい人文知のために

 世界や人間の条件についての普遍的な問いを忌避し、領域知のなかに閉じこもるのでないかぎり、私たちの世界において、それでは、「総合知」の契機はどのようなところに可能性を見いだすのでしょうか。この問いをめぐる考察を示すことで、本書を通した講義「現代思想の地平」の結びとすることにしましょう。
 「<来るべきユマニスト>の条件」という逆説的表現をつかって、現在の世界における「総合知」の条件を列挙してみましょう。
 「知の大空位期」
 すでに見てきましたように、近代において知をまとめ上げる位置を占めてきた「人文知」の「支配」は現在では否定しがたく揺らいでいます。しかし、それに取って代わる、別の一般知が登場したということはできないのです。現在は、その意味では、「知の大空位期」とでもいうべき状態にあるといえます。
 この空白を埋めうるのが、「人間」の知でありつづけるとすれば、それは、「来るべきフマニタス」あるいは「新しい人文知」とでもいうべきものであろうと私は考えています。「人間」の知でありつづけるとすれば・・・という留保条件を付したのは、「人間」の知ではないタイプの知が、「人間」の代わりに「総合」を行う時代を私たちがすでに生き始めているからです。
 例えばコンピュータを使った数理的処理の技術にもとづく「機械の知」を考えてみましょう。現在では、情報技術を使った知の組織化は進んでおり、人工知能の技術にもとづいた知識創出なども広く研究開発されるようになってきています。それぞれの領域知のなかに「考える人」たちが閉じこめられ、インタフェースはもっぱら「機械の知」が担うという分業が一般化する傾向があるのです。これは現代人の生活においても同様です。それぞれの人びとは私的生活圏のなかに閉じこもり、インタフェースはメディアやコミュニケーションのシステムに頼って、一般性の水準において「世界を問う」努力を厭う世界に私たちはすでに生きています。
 しかし、人間が知の領域間のインタフェースをすべて計算論的理性に任せ、またじっさいの生活において人間の普遍的な価値の問いを問う役割を全面的にメディアに委ねることになれば、人間は自分自身の存在の最も普遍的な拠り所ついての認識の契機を失い、自らの思考と世界の成り立ちとの間に深刻な「技術的無意識」を抱え込むことになります。これは私たちの考察のなかでは、「ポスト・ヒューマン」という用語で描き出した状況です。
 そのように「人間が終わった」今日の世界において、しかし、それでも「人間」の知としての「総合」を試みるという逆説的な営みを現在では私たちは求められているのかもしれないのです。もしそうだとすれば、それは、「人間」の終焉以後、「人間」を<(ポスト)人間>として、知において「作り直す」ことを前提としたものでなければならない。そのような<人間>を思考しうる者を「ポスト・ユマニスト」あるいは<来るべきユマニスト2>といま仮に呼ぶとすれば、その条件とは、次のようなものとなるだろうと私は考えています。
<来るべきユマニスト>の条件
  1. まず、<来るべきユマニスト>は、メディア横断的な知を実践する者でなければならないでしょう。
 すでに述べたように、「人文知(フマニタス)」こそ「グーテンベルクの銀河系」の基礎づけた知であり、文字・活字・書物をメディア基盤とした知の体系こそが近代の文明を生み出したことはよく知られています。他方、私たちが見てきたように、「ポスト・グーテンベルク」状況は、今日の文明がもはや活字を単位としたメディア基盤だけには依拠していないことを表しています。であるとすれば、<来るべきユマニスト>とは、文字と書物の知を依然として基礎とすることに変わりはないとはいえ、他のメディア、他の記号技術のつくりだしてきた「メディアの成層」をも基礎とした知の持ち主でなければならない。彼/彼女は、いわゆるマルチ・メディアの知、横断メディア的な知を実践することができなければならないし、文字以外の「記号」・「情報」を認識の契機に組こんだ知の持ち主でなければならないでしょう。本書を通した私たちの講義の流れからいえば、記号学や記号論、情報学やメディア論が、「拡大された人文知」の主要な部分として組み込まれなければならないのです。
 2. 次いで、<来るべきユマニスト>は、ポスト・モダンな「理性への懐疑」にとどまることはできません。また理性批判のシニシズムに陥るべきではありません。彼/彼女は、ポスト理性の時代の「理性」の復権というパラドクシカルな「理性批判」の実践者でなければならないのです(しかし、おそらく、それこそが、真の意味での「理性批判」でもあるといえます。なぜなら、カントが言うような「批判」とは、「理性」とは何かを知ることであると同時に、その限界を画定することでもあるからです)。
 <来るべきユマニスト>のめざす「理性」は、「知」による統合と統御の限界を知り、「全体化」の不可能性についての認識でなければならないでしょう。それが「ポスト・モダン」という近代的理性への懐疑から得られた教訓だからです。今日、「理性」とは、ヘーゲルにおけるように知の全領域を全体的に体系化するものではなく、むしろ「間(ルビ:あいだ)」(=インター inter)の知、「インタフェースの知」、「横断的な知」として、立て直されることを求められていると考えられるのです。
 「近代的な理性」の批判以後の、この「理性」は、「全体化する」理性ではないが、全体的な「連関」についての「批判的理性」でなければならないでしょう。それは新しいタイプの「総合」を支える批判的理性として、とくに、認識と実践、科学と政治、知と権力といった、社会と知識とのトータルな関係を認識の視野に入れ続けるものでなければならないでしょう。また「普遍的な価値」(「民主主義」や「人間の権利」といった)をつねに「再発明」しつづける根拠でありつづけなければならないでしょう。
  3. <来るべきユマニスト>は、多言語的で多文化的な教養に依拠する能力の持ち主でなければならないでしょう。彼/彼女は、世界のクレオール化の担い手であり、人びとの多様でトランス・ナショナルな「公共性」の組織者でなければならないのです。「マルチ・リンガル」、 「クレオール」、「マルチ・チュード」など、本書で見た世界の文化のネットワークを生み出す概念が、<来るべきユマニスト>のキーワードとなるのです。
 4. <きたるべきユマニスト>は、自然と人工、生命と数理、リアルとヴァーチャル、意味と計算、情報と記号、それぞれの「間」の関係づけを行いうる能力の持ち主でなければならないでしょう。「人間」を「創りうるもの」として「再—認識」する知の担い手であり、人間を創りうる「ポスト・ヒューマンの知」から出発して<人間>を基礎づける「知」の主体でなければならないでしょう。このとき<人間>とは、認識の前提としての出発点ではなく、超越論的な源泉でもなく、むしろ到達点であり、「構成」されるべき「形象」として、再認識されることになるのです。
「考えるネットワーク」としての<人間>
 パスカルに、有名な「考える葦」としての「人間」という喩があります –
「人間とは一本の葦に過ぎない。自然の最も弱いものであるが、しかし、それは考える葦である。それを押し潰すには宇宙全体が武装する必要などなく、一片の蒸気、一粒の水滴さえあればそれを殺すことができる。だが宇宙がかれを押し潰したとしても、人間はかれを殺すものよりも気高いものである。なぜなら人間は自分が死ぬことを知っているのだから。宇宙の人間に対する優位を、宇宙は何も知らないのだ。」。
 宇宙の無限と人間の有限性との存在論的な対比、思考と自己意識にもとづいた人間の定義によって、有名な『パンセ』の一節です。「考える葦(ロゾー・パンサン roseau pensant)」というパスカルの表現を、「考えるネットワーク(レゾー・パンサン réseau pensant)」と言い換え、「<人間>とは考えるネットワーク réseau pensant」である、と表現してみると「ポスト・ヒューマン」時代の<人間>の姿が見えてくるように私には思えます。 
 じっさい「ポスト・ヒューマン」の時代においては、「人間」は、例えば「脳」をモデルにした「ニューラルネットワーク」という「ネットワーク」の比喩で考えられたり、「インターネット」のような情報の宇宙の「ネットワーク」との対比において語られることもしばしばです。そのような生命から宇宙にまでいたる情報の無限の「ネットワーク」のなかでも、自分自身の「有限性」を知っている「考えるネットワーク(ルビ:レゾー・パンサン)」として<人間>を再定義することこそが「ポスト・ヒューマン」の時代には求められているのだと思われてくるのです。
「非統合的な総合知」
 最後に、<知の横断>ということについて述べたいと思います。
 現代における<総合知>は、例えば、近代的な全体知の代表例であるヘーゲルの体系がそうであったように、統合的な総合による世界の基礎付けを行うことはできないのです。現在では知識の宇宙は、現在では宇宙と同じ規模にまで拡大しつつあります。情報化とかヴァーチャル化と呼ばれているのは、そのような知識をベースにした世界の出現のことであって、あらゆる事象がネットワークの中に組み込まれ、相互にコミュニケートしている。万物がそのままアーカイヴになる、そのような知の時代がもはや到来しつつあるのです。ボルヘスの「バベルの図書館」や、ライプニッツの「モナドロジー」の宇宙がそこには拡がっていると考えられます。
 <知>が、総合性、全体性への希求を持つとすれば、それは、文字通りネットワーク型の知、横断型の知を志向する限りにおいてなのです。どのような問いとのインタフェースをつくり、知の諸領域を横断し、どのように世界の問題圏とコミュニケートしていくのか、<知の横断>こそが、「考えるネットワーク」としての<来るべきユマニスト>の戦略であり、<非統合的な総合>が<新しい人文知>の冒険の軌跡となるのです。

2010年3月1日月曜日

ベルナール・スティグレール「二〇世紀型「消費主義」が終わった:象徴的貧困と資本主義の危機」(聞き手、解説 訳 石田英敬)、『世界』、岩波書店、No.802, 2010年3月号, pp. 178-185

「象徴的貧困」と「資本主義の危機」

  
ベルナール・スティグレール
石田英敬(インタビュー・訳・解説)

Ⅰ 二十世紀型資本主義の終焉
石田 二〇〇八年のいわゆる「世界金融危機」をどう見るかからまずお聞きしましょう。

スティグレール 20078月にサブプライム問題が拡がったとき、これはそもそも「金融危機」ではない、もっと飛躍的に重大な危機であると私は述べたのでした。当時、これは一時的なもので、技術的な問題である、金融のシステミックな危機である、などいろいろなことが言われましたね。われわれの立場は、それとは対極で、この金融危機は引き金に過ぎないとい見方でじっさい不幸にもそのとおりになった。とくに20088月以後、リーマン・ブラザーズの破綻以後、世界中の証券取引市場の大暴落となった。
 とりわけ、注目したいのは、二十世紀の資本主義の歴史的な銘柄が軒並み大暴落したことです。私たちが「炭素エネルギーの時代」と呼ぶ、炭化水素をエネルギー源とし、内燃機関の発明による自動車を基幹産業として、高速道などの道路網の整備と国土開発が組み合わさり、さらにそれらが文化産業による消費生活の振興と一体となった「二十世紀型資本主義」の時代が終わったということなのです。じっさい、それは1908年ヘンリー・フォードがフレデリック・テイラーの経営理論を具体的に実行に移したことに始まる「フォーディズム」的生産による工業品の大量生産と、「万人が消費者になるべきだ」という考えにもとづいてハリウッド映画やラジオ、レコードの文化産業をとおした「アメリカ式生活」によって消費を拡大しつづけるという産業的組織化モデルの終わりを示しているのです。
 19世紀の資本主義は、プロレタリア化した生産者が一方におり、ブルジョワジーが産業的機械化とプロレタリアによる労働から利潤をえるというモデルで成り立っていた。マルクスが資本主義の崩壊を予言していたのも、こうした産業モデルでは、市場は飽和化へといたると考えたからでした。「利潤率の傾向的低下の法則」とマルクスが呼んだ問題です。しかし、ヘンリー・フォードは、このマルクス主義による「資本主義の終焉」に対する回答であったのです。「消費」を生み出すことによって、資本主義を発達させるという20世紀初頭におけるひとつの「新しい資本主義」の発明であったのです。
20世紀をとおして、ヨーロッパにも、日本にも、このアメリカ発の産業モデルが輸出されとくに第二次世界大戦後の世界で大きく開花しました。ヨーロッパでは「繁栄の30年間」と呼ばれ、日本では「高度成長期」と呼ばれた。そして巨大な消費社会が生み出されました。

Ⅱ「リビドー経済」と「マーケティング」
石田 その「消費社会」の終わりの兆候が現在いたるところに観測されています。これは単に不景気だから人びとが「消費しない・消費できない」というのではなくて、消費と欲望との関係の成立条件自体がもはや自明でないという時代に入ったということではないのでしょうか。

スティグレール そうなのです。消費が生み出されつづけるためには、「絶えざるイノベーション」が必要です。それがヨーゼフ・シュンペーターのいう「創造的破壊」です。これは経済が「使い捨て性」に基づくということです。「くず」を作ることによって「消費」をつねに次々と生み出していく。例えば 、今年モバイル端末Blackberryを買った人が、次の年には、もうそれは旧いからとi-Phoneを買わなければと思うように、次々に「時代遅れ」をつくり出していく。さらにそれが個人の行動を変化させることと結びついている。個人の行動様式をつくりだしていた古典的な枠組み、つまり家族だとか、宗教とかその他の精神的な組織、学校やそれ以外の国家の組織、あるいは政治的行動モデルから、20世紀を通じて人々の象徴生活が切り離されていった。その変化をつくり出したのはマーケティングの力で、マーケティングが、次第に人々の生活を成り立たせているあらゆる「象徴の生産」をショートカットしていく。人々の生の様式を生み出すこと、それをフーコーは「生政治」と呼んでいたのですが、それがマーケティングの力に移管されるようになった。そして、なぜなら、象徴生産の「制度」(ピエール・ルジャンドルの意味で)は、人々の心的生活の枠組みを生み出していたものですが、フロイトの用語でいう「リビドー経済」を成り立たせているものであったのです。
 フロイトの1920年の理論では、「リビドー経済」とは、性的なものであろうと、攻撃的であろうと、本質的に自己中心的で反社会的傾向をもつ生物学的な欲動を、人間的な意味をもつ生のエネルギーに変換することで成り立つとされるものです。「リビドー」とはフロイトの意味では「欲動」を「変換」して「社会的備給(投資)」に変えることで生まれるのです。「欲動」が本来的に自己中心的なものであるのに対して、「欲望」はそれを他者志向的な傾向へと変化させることで成りたつものです。それは必ずしも「博愛的」というわけではないのですが、「構造的に社会に向けられている」という意味です。「他者が必要かつ還元し得ないものであることを条件に成立するのが「欲望」であり、「リビドー経済」なのです。この原理は、シャーマンであろうとアニミズムであろうと、あらゆる人間社会の基礎にあると私は考えるのですが、こうした「リビドー経済」のない社会はない。ただ唯一の例外が、現代社会なのです。現代社会は、ある意味、リビドー経済の破壊のうえに成り立っているとさえいえる。欲動をリビドーのエネルギーに変換するためには、フロイトが 家族構造と呼んだものを初めとしてじつにいろいろな文化の枠組が必要である。そうした構造は、例えば日本ではアメリカとは違うとか、そうした文化や社会にしたがって差はあるのですが、そうした、象徴制度が、マーケティングによってなし崩しにされ、映画やテレビ、ゲームやアニメ、ネットなどの文化産業によってショートカットされてしまうようになった。

Ⅲ「象徴的貧困」と「投機資本主義」
石田 あなたのいう「象徴的貧困」は、文化産業の支配やマーケティング技術の行き着いた先に起こる人々の「生きうる象徴環境」の破壊ということですね。

スティグレール その通りです。文化産業によるリビドーの捕捉は、そもそもハリウッド映画産業の成立とともに発達したフォーディズムの条件であったのです。つまり大衆のリビドーを伝統的な象徴制度からそらせて、消費生活のなかに呼び込むことによって、大量生産と大衆消費の資本主義が成り立ったわけです。例えば、子供から親へのリビドーの流れ、家族的共同体や学校を通した文化の形成へと流れていたリビドーと昇華の回路を、大衆メディアが媒介する消費の生活へと転移する必要があったわけです。しかし、次第にそれが加速していくようになると、リビドーを生み出す装置自体の破壊へと向かうようになった。学校のような社会的な教育機関を精算し、家族を精算しという具合に、象徴制度をつくっていた文化の構造を根絶やしにすることになった。それが全面的な「象徴破壊」を招いた。それこそが私が「象徴的貧困」と呼んだものなのです。
 レーガン、サッチャーの「保守革命」以後、市場にすべてを任せればよい、象徴の制度を根絶やしにしようという圧力は増大してゆきました。情報革命やグローバル規模でのメディア統合はそれを加速させたのです。
 「企業家」の消滅
 そして、その結果こそ、2008年に人々が目にしたことです。幾つもの理由からそうなのです。第一に、資本主義は、シュンペーターがいう永続的イノベーションを第一とするもので、物をつねにより速いサイクルで時代遅れにすることで成長してきた。そのためには、たえずつねに、人々の行動をそれまでよりも速く変化させる必要があった。第二に、資本主義はいつもますます「短期的視野」にたつものになった。とくに1970年代以降、資本主義は、とくにアメリカの「保守革命」、つまりレーガン、サッチャー以後、そのドグマとは、社会の産業生産を組織するのに国家はもはや必要ない、マーケティングがじかにそれを組織するのがよい、国家は解決ではなくいまや問題であると、レーガン、サッチャーは言ったわけですが、産業生産の組織化は、マーケティングをとおして市場に100パーセント任せておけばよいとなったわけです。それこそが破局的なその結果を生んだのです。
 とつぜん人々は気づくことになった。例えば、資本家は今日では、「投資家」ではなく「投機家」となってしまった。「投資の資本主義」はもはや実質的に成立しなくなっている。資本主義がひとたびマーケティングに領導されるようになったとき、その戦略的マーケッティングは「企業家」によって行われるのではなく、株主によって雇われた「マネージャー」によって行われるようになるのです。「企業家」とはマックス・ウェーバーが1905年に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いていた、またシュンペーターが1912年に『経済発展の理論』でまだヘンリー・フォードをモデルとして描いていた存在だったのですが、レーガンの保守革命とともに「企業家」の人物像が破壊されてしまった。「企業家」とは「長期的視野」でものを考える人間であるのに対して、「投機家」とは「長期的視野」を一顧だにせず「短期的視野」でのみ物を考える輩である。例えば、ヘンリー・フォードは長期的タームでものを考える人でした。その当否はともかくとして、彼にはアメリカについての、単に社会的だけでなく技術的にも長期的な変革のビジョンを持ち合わせていました。
 しかし、保守革命以後、資本主義の時間性の組織は、「ウルトラ短期主義」になった。「投機家」に依拠するようになり、金融資本主義が生産による資本主義から全面的に自律化したものとなったのです。
 産業活動の基礎は時間なのですが、資金が短い期間で回収できないとなるとすぐに資金を引き上げて、別にうつす。「海賊」のように、土地にやってきてあるものを略奪し、女子供をさらい男は殺ししつくして何もなくなると別のところに去っていく。同じように今日資本主義は破壊者になり、投資家は投機家と化してしまったのです。

Ⅳ 中産階級の消滅と中毒化社会
石田 日本では高度成長期には「一億総中流社会」などと言われ、中産階級の国ということがさかんに言われたのですが、あなたのいう「保守革命」、日本でいう「ネオリベラリズム」の支配以後、「不平等社会」の進行があります。他方、精神的な荒廃と様々な「中毒現象」が社会問題化してきている。

スティグレール 消費者サイドも企業家と同じだからです。消費者とはますます構造的に「無責任」な存在にされていくのです。マーケティングによって、消費者とはいかなる責任感もないものと化すのです。じっさい責任の感覚があるとすれば、こんなに消費するのは危険だとあるとき思うはずでしょう。自分にとって危険であると同時に将来の環境にとっても危険だと判断するはずです。そしてそれ以上もはや消費しようとはしないはずです。 
 しかし10年ほど前から、アメリカでとくにそういう出版が盛んですが、マーケッティングは、大人の「幼児化」を全面化したという研究が発表されています。アメリカでは「幼児化 (kinderisation)」と呼ばれている現象が広がっています。アメリカから始まって世界中に広がっています。子供たちがいまでは人びとの行動様式を決める決定者の役割を果たすようになってしまった。子供をとおして大人に行動を指図するという状態になっているのです。マーケティング・モデルとはこうした社会のベクトル化の役割を果たしているのです。
 危機の現象の第三の特徴は、ドナルド・レーガンによる保守革命と同時に、東側陣営の崩壊が起こり企業は給与生活者を搾取することになんの躊躇いもなくなった。すべての人びとを競争させてもいい、アメリカ、アジア、ヨーロッパ、アフリカというすべての大陸を競争させていいとなった。結果として、世界中で全体的な貧困化が引き起こされ、世界中で中産階級の貧困化が広がった。かつて「中産階級」と呼ばれていた人々はもはや中産階級でなくなってしまったのです。

石田 日本でもそうですね。

そうですね、ヨーロッパでもそうです。世界中同じだと思います。フランスでも、イギリスでも、住民の貧困化が進んでいます。サラリーと生活費との関係がとても貧しいものになっている。サブプライム問題はその結果です。「消費主義」の行き着く先なのです。「消費主義」は、中産階級を厚く生み出すのでなければやっていけないものでした。ところがレーガニズムは、イノベーションと社会との調整を行うのは市場のみであるとしたので、各国でなにもかもが競争という状況を生み、その結果が、「債権の証券化」の発明にまでいたったのです。アメリカではアパートを40年の返済で買うことができる。しかし、まず人々はそれを支払うことはできないという意味で返済不能であると同時に、40年たてば何の値打ちもない安普請であるという意味でも救済不能です。返済不能を隠す数学的システムが導入され、「サブプライム」で「偽の長期」を作り出すことが行われたのです。
 他方で、短期的視野がますます支配的になり、エネルギー資源に対する投機で、「石油危機」がサブプライム危機の直前に起こりました。1バリル150ドルに達していました。これはシステム的な問題でしたが、単に、金融システムの問題ではなく、すべての資本主義の全システムの問題だったのです。消費型資本主義のシステムが文字通り崩壊したのです。
「消費中毒社会」と「精神のエコロジー」
 危機の、もう一つの側面は、この金融資本主義の有害性がとつぜん露わになったということです。CO2の環境破壊問題の浮上のように、産業モデルの限界が明白になった。コペンハーゲンのCOP15は大変不幸にも失敗に終わりましたが、大変深刻な事態です。ネオリベラリズムのイデオロギーが隠して金融資本主義の偽りが突如明らかになることで、一種のショック状態に陥り巨大なモラル低下に見舞われているともいえる。
 しかし、単にモラル(志気)の低下だけでなく、イモラル(不道徳的)といってもよい、嘘つきでマフィア的、横領や窃盗と同じような資本主義のあり方の不道徳性が明らかになったともいえます。
 また、とくに若者たちがマーケティングの標的にされ、精神的な危険にさらされている。アメリカでは15パーセントの子供たちが「注意力不全症候群」に見舞われているといわれる。フランスでは15パーセントの成人が肥満症を抱えていて第一の成人病理といわれています。もちろんそれは心理的な問題と関係している。消費の「中毒症」もあるわけです。
 ですから、「精神のエコロジー」を前面に掲げる必要を私は説いています。じっさい2008年の危機のポジティブな結果とは、「産業モデルの転換」ということだと思われる。今日、サルコジ仏大統領でさえ消費主義モデルは終わったと認めている。「消費のなかの居心地の悪さ」については、あらゆるひとがそれをみとめている。あるいは、他方で、景気回復、景気刺激などが唱えられ、グリーン・ニューディール、環境の経済などもさかんにとなえられている。それは私もよいことだとは思います。私もそれには賛成です。
 ただ、私は、いまの優先課題は「教育」だと考えています。そして「生活」です。再生可能エネルギー、環境に有害でない新素材、そうしたものを開発する計画が必要なことは論をまたない。しかし、そうしたプログラムを実行に移すためにも、新しい「生の様式」、新しい「生き方」を作り出すことこそが必要です。
 とくに、「欲求不満(フラストレーション)」に依存することのない「生の様式」を発明することです。1970年以降の「栄光の30年間」以後とくに支配的になった消費社会の生活は、「欲求不満」の消費主義でした。そして、それは「中毒的消費」と呼ばれるような消費をも引き起こすようになった。フランスでは「中毒化社会」が語られています。消費する必要もないのに消費する、消費する必要はないと分かっていても消費する以外に何もないので消費をやめられないという中毒状態です。「消費」依存症になっている、ヘロインやコカインや合成薬物の中毒患者と同じです。そうした中毒から回復するためには、「解毒治療」が必要です。世界的規模で焦眉の課題となっています。「精神の解毒治療」の問題を立てないかぎり、私たちはこうした問題から脱することができないのです。それは、「象徴制度」を再構築することによってしか可能にならない。「教育の計画」をやり直すこと、「政治の計画」を再建すること、「文明の大言説」を復興することが必要なのです。それを現在の政治家、経済人たちはまだ見ようとしていない。また人文科学にとっての課題とはまさにこれです。哲学とか文学とか以前には人文知と呼ばれていたものの再定義とはそれです。

Ⅴ「新しい産業モデル」と「寄与の経済」
石田 では、こうした資本主義の歴史的危機に対してどのような処方箋を考えるべきでしょうか。どのような新しい産業モデルを発明できるという希望があるでしょうか。

スティグレール 私の考えでは新しいテクノロジー基盤と情報コミュニケーション環境のうえに「象徴制度」のかたちを作らなければならないのです。それはかならずしも「公的な」と呼ばれる象徴制度ではないかもしれないのですが、私たちのArs Industrialisではそれを可能にする新しい産業モデルを構想しようとしている。 その象徴制度は、経済的アクターともなりうるのです。ヨーロッパの紀元1000年頃には大規模の象徴制度のイノベーションを引き起こしたのはシトー派修道会でした。私は宗教の回帰には否定的ですが、精神的なものの回帰の可能性は信じている。しかしまずそれは象徴制度であると同時に経済的な制度だったのです。シトー修道院は新しい経済を発明したのです。修道院は、例えば水車のシステムを発明し修道僧たちは当時の企業家であったのです。16世紀以降のブルジョワジーのように自分の富のためではなく、キリスト教の世界で言う貧しい人びとのための新しい事業、精神生活を発達させるための技術的産業的モデルの発明であったのです。
 その後、1213世紀のブルジョワが、そのやり方を回収し、ルネッサンス以前の「経済ルネッサンス」である13世紀の繁栄の時代を生み出した。修道僧の役割は技術面でとても重要なものであったのです。
  私たちは現在「寄与の経済」というものについて集中的に考えているところです。「寄与の経済」とはまず「リビドー経済」を生み出すものです。ウィキペディアが代表例ですが、ウィキは非常に大きな価値を生み出している。だれもがウィキを使っている。人びとに時間を稼がせその活動を活性化させ、したがって経済的価値を産みだしています。たとえば50ユーロ支払う必要があるとなれば誰でもが喜んで払うでしょう。しかし、ウィキの原理は、課金をしないというものです。それは、「贈与の経済」、「時間の贈与」からまず成り立っている。しかも純粋な悦び、寄与することの悦びの原理でなりたっているのです。それは「社会性」の価値の再評価でもあります。フロイトにおいて、それは「昇華」と呼ばれる原理です。キリスト教では「神への愛」と呼ばれているものです。アマルティア・センがいう「潜在能力(capability)」アプローチも、私たちの考えではやはり「リビドー経済」に関わっている。センは、「脱プロレタリア化」を目ざしてもいる。消費の資本主義は、全面的なプロレタリア化であるのです。なぜなら人々は「作り方の知」そして「生き方の知」をも喪失していく。ところがセンが主張するのは、人びとに作り方の知、生き方の知を再び与えるべきということなのです。
 人びとの新しい働き方、例えば、ウィキのような「寄与」のテクノロジーを発展させ、ソーシャル・ネットワークなどの技術を上手に発達させ、社会性の技術基盤を革新して、例えば「スマートグリッド」のように環境と社会性と情報基盤の整備とを結びつけることで、新しい「寄与の経済」を生み出すことで初めて新しい資本主義の姿が見えてくるはずなのです。

解説
 現代フランスを代表する哲学者ベルナール・スティグレールが展開してきた「象徴的貧困」論については、すでに本誌でも二度インタビューが行われてきた(「象徴的貧困というポピュリズムの土壌」、『世界』、No.752, 20065月号、および、「批評の危機という象徴的貧困」、『世界』、No.773, 20081月号)。昨年一二月に東大情報学環で開催された国際シンポジウムのために来日した機会に、二〇〇八年の「世界金融危機」を踏まえて、今回「資本主義の現在」をめぐって話を聞くことにした。スティグレールのいう「象徴的貧困」とは、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった世界の悲惨を指す言葉である。現在の産業社会の行き詰まり、投機資本主義のもたらした惨禍、「消費の終わり」の兆候、日本でもあらゆる階層に拡がりつつある様々な「中毒」現象、「不平等社会」・・・こうした一連の産業的、文化的、精神的な、「全面的な危機」をどう捉えたらいいのか、その問いに答えるのが現在の私たちの思想の課題である。スティグレールは五年ほど前からARS INDUSTRIALISという任意団体を立ち上げて、哲学者、経済学者、文化人、産業家たちと、資本主義の産業モデルの改革を掲げて運動を実践している。現代の哲学者たちが「経済」について語らないのはおかしなことだ、と日頃語ってきた彼のことだから、二〇〇八年以後は、経済学批判を旺盛に展開しつつあり、二〇〇九年初頭には冊子『新政治経済学批判のために』(ガリレー社、未邦訳)、さらにARS INDUSRIALの論集『成長不全と決別するために』(フラマリヨン社、未邦訳)などを刊行して、「寄与の経済」にもとづく資本主義のための新しい産業モデルを提唱している。本インタビューでも、「欲望の経済」を含めた「一般経済学」が、スティグレールの大きな見取り図をかたちづくっていることが分かるはずである。



注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...