2009年9月26日土曜日

「フレディの墓」試論 Pour « le Tombeau de Freddie » 石田英敬 シンポジウム「メディア・アートとは何か」2009.9.26  東京藝術大学大学院映像研究科横浜校舎





マルクスの「亡霊」、「声」と「現象」、そして「歴史の死」をめぐって

 フォルマント兄弟による「Le Tombeau de Freddie」(https://www.youtube.com/watch?v=hkfrU-EOQ-E)は、きわめて挑戦的なメディアアート作品である。
 本論考では、「墓」というモニュメントを「記号」ととらえて、「フレディの墓」という「記号体」が現代のメディア・コンディションについてどのようなクリティークの仕事をしているのかを論じていくことにする。
 それでは、これから「墓」に降りていくことにしよう。
 「フレディの墓」にたどり着くためには、その前にあらかじめ、いくつかの「墓」を経由していく必要がある。




探検その1 : マラルメの「墓」を入り口に ..

 私が提案するのは、マラルメの「墓 Tombeaux」を入り口とする経路である。
  「Le Tombeau de Couperinクープランの墓」の作者ラヴェル Maurice Ravelは、「マラルメの三つの詩 Trois poèmes de Stéphane Mallarmé」の作曲家でもあり、ならば、「フレディの墓」は、インターテクストの回廊を通して、マラルメの墓につながっている。
  マラルメの「墓 Le Tombeau」詩篇群(Toast funèbre, Le Tombeau d’Edgar Poe, Le Tombeau de Charles Baudelaire, Le Tembeau de Richard Wagner, etc. )は、「詩」を「墓」としての「言語記号体」とする実験作品だった。
   マラルメの「作品=書物」のプロジェクトは、初期の散文作品「イジチュール Igitur」に始まる。この「哲学的コント」の冒頭、序幕「真夜中Le Minuit」で、主人公Igiturは、呪文の言葉(=詩の言葉)を発することで、「人称性」を失い、「夜 la Nuit」と解け合う「影(Ombre)」と化して、「賽子」を投げに、「人間精神の階段」を「事物の底」へと降りてゆく[1]。地下墓室で、「賽子を投げ」(詩作の寓意の身振り)て「偶然」が「廃棄された」ことを確かめると、 イジチュールは、生命の象徴である「息吹き」で蝋燭を「吹き消し」墓に横たわる。「墓」としての「詩」が完成されたのである。
 「Le Minuit私が消滅する時」に始まる、この難解な作品は、詩を書く主体が、詩のシニフィアンを組織する時間性をとおして人称性を失って「亡霊」と化す、「エクリチュールのコギト」(Philippe Sollers)の実験だった。
 これ以後、マラルメにおいて「詩」は「墓」となる。「生命」の「息吹き」が、「文字の結晶体」をとおして「精神」と化し、死者の「声」が「亡霊」として「現象」しつづける「言語的時間意識」のモニュメントである。

 イジチュールの「身ぶりとことば」が、「フレディの墓」へといたる最初の「通路 passage」である。なぜなら、真に「モデルヌな」意味で、「詩」とは「言語」から成り立つ芸術であり、「音韻論の革命」の前夜に、「詩」とは「音素」から成り立つシニフィアンの組み合わせであって[2]、「精神」とは「息吹き」が「音素組織」 -- 「精神の楽器」としての「書物」 -- を通過することで産出され、言語意識における「現前」とはシニフィアンによる「内的時間意識」の組織のことであることを示したのは、マラルメの「墓」だったからだ。
 マラルメの「墓」は、「言語」と「文字」と「書物」から成り立っている。「フレディーの墓」は、「フォルマント」と「フォノグラム」と「ヴィデオグラム」から成り立っている。二つの墓の距離は大きいが、しかし、「声」と「現象」、「記号」と「内的時間性」の意識、シニフィアンの「装置」による「現前」の「亡霊化」などの原理は、すでにマラルメの「墓」の構造に書き込まれていたのである。

探検その2 「記号とピラミッド」、あるいは、「記号の問い」の起源へ..

  「フレディの墓」にいたるには、「時間の回廊 corridor du temps」を伝って、つぎに、「ピラミッド」にまで遡行することにしよう。
  「ピラミッド」こそ「記号」の記念碑、「記号の記号」(デリダ)だからだ。
ヘーゲルは、「美学講義」で述べている:
「記号とは無関係な魂が運び込まれたピラミッドである」。

そのヘーゲルを受けてデリダは書いている。
「記号とはひとつの墓、ピラミッドである。その記号体の内部に、魂が閉じ込められ、守られ、生き永らえ、現前し、シニフィエとして意味されている記念碑なのである。」[3]

 「記号=ピラミッド」論は、すべての「記号論の歴史」をその射程のなかに収めることができる。ヘーゲルにおいて、ピラミッドの結晶体の隆起は、地下建築が土地という自然の部分をうがつという人間文化の否定性の身ぶりから、その第一の否定性がつくりだした雌型がさらにもう一段階の否定をへて自立した文化の空間が成立したことを示している。
 このプロセスは、ヘーゲルにおいては個々の自然的な事象のしるしとして、自然物との感性的な結びつきを持った象徴(エジプトの象形文字がそれに当たる)の段階から、その結びつきを否定して自己体系化した恣意的な記号の段階への移行という<記号の問題系>とパラレルに論じられている。
 ピラミッドが示しているのは、魂の不死という自然的生死の否定によって生み出される観念の自立の記念碑である。ただし、ピラミッドが内部に宿しているのは未だ死者の魂の空間であって生者の生きる空間ではない(生者のための空間の誕生はヘーゲルにとってギリシャの建築の出現をまたねばならない)。ピラミッドは死者の魂の記号だが、その記号の特徴は死者との感性的な類似性をもはやもたないこと、したがってこの記号は「無関係な魂が運び込まれた」記号、すなわち「恣意的な記号」であり、そのことによって自立した精神の活動を宿すことができる記号である、ということにある。 

 ピラミッドは「幾何学の起源」の問題系とも結びついている。「ターレスの計測」を思い出せばよい(ミシェル・セール「幾何学の起源」)。象形文字と地下墓室の「エジプトの象徴空間」を、「比例」によって「幾何学化」し「射影 projection」したギリシャ的エピステーメの「記号空間」の成立である。さらにまた、「象形文字」から「アルファベット」の「正定立」の「ポリス世界」へ、さらには、「歴史」の誕生へとそれはつづいている。ピラミッドとは、以上のように、「記号論」の全問題系を提起しているのである。

3 ここでひと休みして、お勉強的まとめ、その1: 「記号のピラミッド」と「記号論」

  ヘーゲルがピラミッドについてのべている「象徴」から「記号」への移行は、パース記号論の用語でいえば、「類像記号(アイコン)」から「象徴記号(シンボル)」への移行に対応するといえる。非構築な「自然」から「文化」が「隆起」する。自然の「痕跡」から「象徴」へ、そして、「記号」へという「記号化」のプロセスを、パースのindex, icon, symbolという枠組みで扱うことは容易に想像しうる。 

 「記号のピラミッド」(Bougnoux-西兼志)の図式が召還されるべきだ。[図式については印刷版画像を参照して下さい。石田記
 自然的な事物や出来事との「接触」の経験は、さまざまな「痕跡」を生み出しつづけているが、それは物質的生や生物的身体の「地下」部分に埋もれている。そこから取り出される「痕跡」が「指標記号」となり、イメージや音響としての「類像記号」となり、さらに「ことば」や「文字」や「数式」のような「象徴記号」となる。そのように、「ピラミッド」の「記号体」は成り立っている。

 「フレディ」の「身体」もまた、「記号のピラミッド」である。その「無縁な魂」は、いまでは、「フォノグラム」と「ヴィデオグラム」として「生成」された人工の「ピラミッドのなかで、「声」として「現前」して「歌って」いる。問題なのは、「フレディの墓」のピラミッドはどのように作られていて、どのような「セミオーシス」が働いているか。どのような「魂」が、合成された「声」と「身ぶり」をとおして「亡霊」として宿り、その「息吹き」をとおして、どのような「精神」が醸し出され、「歴史」を作り出そうしているか、である。
 

4 ひきつづきお勉強、その2:フォノグラフ・シネマトグラフの「墓」

 「フォノグラフ」の革命以後、「記号のピラミッド」の建築工法は大きく変化した。「文字」と「書物」で「墓」を作るのではなく、「指標記号(index)」のレベルから「テクノロジーの文字」(フォノグラムとヴィデオグラム)によって「記号体」を作ることができるようになったからだ。
 このフォノグラムの革命にいち早く答えたのがソシュールの「記号学」とフッサールの「現象学」だった。(そして、おそらくフロイトの「精神分析」も)。
 アルファベット文字による書き取りにもとづく「博言学 philologie」に替わって、glossa(舌) phone(音声) logos(言理)の統一に関する「知」は、フォノグラフによる書き取りにもとづくようになる。
 「音声」は「音響」として「スペクトラム」で書かれ(「音声学」の誕生)、「ロゴス(言理)」は「音韻」を基礎に書かれるようになる(「音韻論」の誕生)。そのことによって、「意識」が「テクノロジーの無意識」から説明されるようになる。ソシュール「記号学」と「構造主義」の誕生である。
 
 「フォノグラフ」を聴く意識をとおして「内的時間意識」が分析される。「シネマ」が、視る意識の「クレチョフ効果」を発見させる(フッサール「現象学」の誕生である)。「情動」から「ロゴス」にいたる「魂」「精神」の組織の仕方にも、メディオロジックな変化が生み出された。
  アナログメディアにおけるGlossaは機械の振動であり、phoneは空気振動の再生であり、Logosはフォノグラフにより書き取られた「痕跡」の効果となる。

 ただし、「アナログ革命」は、「(精神の)歴史」の「亡霊化」を一挙にすすめはしなかった。「アナログ革命」が生み出したのは、「精神」と「歴史」の「大衆化」である。あるいは、それを「歴史」の「弁証法」といってもいい。
 フォノグラフはまず「アイコニック」な声である。人がまねて歌うことができる「声の類像」である。「音符」や「歌詞」をどのように「声」に変えるかの「タイプ」である。音の「解像度」の低さが「像」としての「類像音」をまず流通させる。
 さらにレコードは「録音」された「音」である。「映画」が「撮影=現像」される「映像」であるように。そこには、「時差」という「遅延」が介在し、「劣化」という「非動機化の契機」が紛れ込んでいる。
 「レコード/シネマ」を通して、「聴く/視る身体」が「フォノグラフ/シネマトグラフ」の「類像」に触発され、さらに「曲(メロディ)/ 映像」と「歌詞(パロール)/台詞」をとおして生み出された「魂」は、「歴史の物語」(イデオロギー)の「精神」へと媒介される。アナログメディアの「記号のピラミッド」は、まず、そのような個を大衆と化す「啓蒙の弁証法」(Adorno-Horkheimer)の装置なのである。
 「インターショナル」はあからさまに、このアナログ・メディアの「記号の体制(レジーム)」に属している。

5. さらにもっとお勉強:その3 デジタル・メディアの「逆ピラミッド」

 ところが、デジタル革命は、こうした「記号のピラミッド」を「底辺」から顚倒させる可能性を生み出した。
 デジタル・テクノロジーは、すべての「痕跡」を「計算」に置き換える「微分」技術の完成である。アナログメディアが、「指標(index)」から「類像(icon)」へそして「象徴(symbol)」へと底辺から頂点へと向かう記号化の抽象度の高低、記号の物質性の度合いを図式化した「記号のピラミッド」でいえば、ピラミッドの底辺の「指標」の帯域を使用する記号テクノロジーであったとすれば、デジタル・テクノロジーは、アナログメディアが捕捉する指標をすぐさま「数値」に換え「計算」に変換する、記号の「逆ピラミッド」の図式の成立である。
 言語と文字をピラミッドの頂点としていた「人間の時代」の「記号のピラミッド」のコミュニケーションに対して、「計算」を逆ピラミッドの頂点とする「デジタル記号のピラミッド」のコミュニケーションが対をなす配置が生まれるのである。
 デジタル・テクノロジーによって、「痕跡」はリアルタイムで「数値」(=「情報」)となり、「計算」として存在するようになる。そこにはいかなる「時差」も「劣化」もなく、「記録」と「再生」は同値である。
 「すべては<計算 ratio>をもつ。<計算ratio>のないものなどない。 Nil est sine ration」ライプニッツの「根拠律」の究極のあり方である「情報律」の時代である。「Le réel est rationnel :現実的なものは理性的である。」(Hegel)は、いまでは、「Le réel est computationnel:全ては計算である」である。
 このデジタル革命は、究極の「差異のシステム」の成立であると同時に、「差延(la différance)」の「微分化=離散化」による、「痕跡」と「差延」の作動の「ニュートラル化」をもたらす。
 あらゆる「痕跡」が「計算」となる(計算によって生み出される)という「記憶」のレジームの大変化にともなって、「それはかつてあった le ça a été」出来事の「本当に」性が、揺らぐのである。

6. 「息切れ」する「歴史」


「書物の時代」にあって、「文字」の「記号体」とは、「息吹き」や「身振り」を「魂」および「精神」に変える装置であった。
 「書物の終焉」以後、「息吹き」と「声」、「身振り」、「文字」が一致しなくなる。「息吹き」がそのままフォノグラフの「エクリチュール」により書き取られることになる。「身ぶり」、「運動」と「表情」は、シネマトグラフのエクリチュールで書き取られる。
  歴史の「息切れ」は、書物とアナログメディアの黄昏に対応しているように思われる。アナログメディアの「記号のピラミッド」が、次第に身体を精神へと媒介しなくなる。 デリダのいうように「書物」の「形而上学」の「息切れessoufflement」が起こってくる。
  身体・声・曲(楽譜・歌詞)・魂・歴史精神という「媒介=昇華」の回路が「息づまる」。身体・声の現前 声のイマージュとしての録音 聞き取れるメロディー、歌詞、生み出される魂、聞き分けられる「精神」という、身体の「現前」度が、媒介にしたがって「減殺」され、「精神」の「超越の形而上学」へと「昇華」される「弁証法」が機能しなくなる。
 「歴史」には、「語る現在」の「声」と、「語られる」現実の「光景」の成立が必要である。GeschiechteHistorie、「物語(Récit)」と「物語られる事実(Diégèsis)」の差異である。「写真」以来、出来事の「現実」は機械的に保証されている。あとは、視る「時間意識」をいかに「運動イメージ」として駆動させるかである。写真以来、ましてや、シネマ以来、「歴史」は「モンタージュ」を内在させる。
 他方、「語る」、そして「歌う」現在の「指標性」は、「対象化」されない。「あの声」の「痕跡性」の「かつてあった」現前は、「写真」のように「現実的(Réel)」であるのだが、その「声」が「話す/歌う」のを「聴く」意識のなかで、いつも「内側から聞き取られる」指標性である。「語る/歌う」声は、「意識の現在」の内側からしか聴くことはできない。「(自己/他人が)語るのを聴く」のは、つねに「声の現前」の審級の内側からである。「声」が亡霊的であるのは、そのような「現前の亡霊性」であって、「写真」や「映画」の亡霊性とは異なっている。
 「声」の「指標性」の前景化は、「モンタージュ」映画を不可能にする。「映像」の指標性に「声」の指標性が従属しなくなれば、「ナラティヴ」は不可能になる。「書物の歴史」に続いて、「映画の歴史」も「息切れ(à bout du souffle)」する。
 「歴史」はそのとき「ミュージック・クリップ」となるのかもしれない。

7. そして、「亡霊」が徘徊し始める...ヴィデオ・グラムのエクリチュール

 私たちは、ようやく、「フレディの墓」に辿りつくことになる。
 「Le Tombeau de Freddie」は、「ロック・スター」の声が、「歴史」を「亡霊化」しにやってくる「歴史の終わり」のPVである(のかもしれない)。
 「冷戦」の終わりに、「歴史の終わり」が語られ、Freddie M.の生が「終わり」をむかえた年に、「マルクスの亡霊」は「徘徊し始めた」。そのPVである。
 では、その「墓」の構造を見てみよう。

1)  「声の現前」の生成: 亡霊化1
冒頭、We will rock you を想起させる、足踏みのリズム
「フレディの亡霊」が呼び出され「フレディのあの声の現前」が回帰する
つづいて、「フレディの亡霊」(=イマージュ)が「出現」し、そして「歌い」だす。(フレディの「実映像」は一貫して映し出されない。)
「声」の審級(l’instance de la voix)が、そのように「生成」され、「声の現れ」が生み出される。これ以後「歌=騙り」(l’instance cantato-narrative)を担当するのが、「フレディの声」である。ロックスターの「声」が、「歴史」を「亡霊化」しにやってくる
2) 「演奏者」の映像:批評1
次に、「フォルマント兄弟」の映像のレベル
「これは演奏である」という「言表行為(énonciation)」を映し出す、「批評的」、「メタレベル」の映像?
3) Historie」の映像:亡霊化2
「歴史」の「物語内事実Diégèsis」へと「投錨」するために挿入された「Historie」の映像
4)  Machina」の映像:批評2
énonciation」の「音声-音響」学的マトリクス自体を「解体」してみせる、中央部の映像。「声の亡霊」の「生成」装置の開示

 ほぼ、以上のように、レベル分けすることができる、この作品において、何が「メディア・アート」のステイクなのか?
 次節では、「プラトン的対話篇」のスタイルをかりて論じてみることにしよう。

8 スレッド 批評座談会「歴史のデジタルな熱死」をめぐって


では、「亡霊」たちの「討論会」を始めよう。

1 「亡霊1」名無しさん:もれの考えでは、この作品のテーマは、「社会主義革命」か「デジタル革命」か、じゃねえか?

2 「亡霊 2」名無しさん:いや「インターナショナル」か「ポップ」か、だろうよ。

3 「亡霊 3」名無しさん:「フレディ・M」は、「ポップ」の王ってわけなんだろ?ミュージック・クリップが、「革命の歌」を終わらせたって、いう。

4 「亡霊2」名無しさん:その「フレディ・M」は、おれたちみたいに「亡霊」なんだぜ。

5 「亡霊4」名無しさん:そもそも「メディア」は「亡霊」をつくるものだって、いう

5 「亡霊3」名無しさん: もともと、「Medium →「霊媒」

6 「亡霊1」名無しさん: Λ_Λ   パンパンパン…
           (;#゚Д゚ ) タテ! ママ゚チヒトゴロシ゚! カクメイ セィヤセィヤ!
        ((  つ Λ_Λ
           ) ,ィ⌒(#゚Д゚ ) タマンネェタマンネェ! マジタマンネェ!
          _____, 、つ

7  「亡霊2」名無しさん: 「歴史」の亡霊か「スペクタクル社会」のスペクトルか、かっていう

8 「レノンさん」(の「亡霊」):漏れも「亡霊」なんだけどな。どうして「フレディー」じゃなきゃ、なの。

9 「亡霊1」名無しさん:アンタはダメなのよ、サヨクだから。「記号のレジーム」が違っている、っていう。

11「亡霊3」名無しさん:そうそう、「インターナショナル」とか歌っていた。「イマジン」の歌詞で。

12「亡霊2」名無しさん:で、「インターナショナル」は、「フレディーさま」が歌う前は、誰が歌ってたのだっけ?

13「亡霊1」名無しさん:「人民」!「大衆」!「万国の労働者」!

14「レノンさん」(の「亡霊」): われら「(サヨク系)亡霊」!

15 「ジャン・リュックさん」(の「亡霊」):漏れのコトバには(東から)神々の風が吹いてくる

16「亡霊2」名無しさん:もしかして、ハスミセンセイ

17 「ジャン・リュックさん」(の「亡霊」)):いえ、そのワタクシがいいますのは、スベテの映画はサイレント・ムービーであるという二十世紀においては至極当たり前の事実でありまして、この認識なしに、ワタクシの「映画の(複数の)歴史」も考えられないわけであります。といいますのも・・

18 「亡霊3」名無しさん:アヤシイ

19「亡霊4」名無しさん:アヤシイ

20「亡霊2」名無しさん:ヤッパイ





17「亡霊4」 : 名無しさん:「歴史の弁証法」か「理性の離散的計算化」か、というべき

18 「亡霊5」名無しさん:「歴史の終わり」か「普遍的アーカイヴ」か

(この「座談会」、まだ続きます ….


9 暫定的な総括とテーゼ


1 フォルマント兄弟が述べているように、「ロック・スター」フレディ・Mの「声と現前」を作り出しているメディウムとしてPVがある。そのPVを「墓」はシミュレートしている。「フレディ・M」の「声の現前」のシミュレート(再現=生成)である。デジタルメディアによるPVによる「声の現前」批判である。

2  PVと「インターナショナル」は二つの「音曲のレジーム」に属している。「文化産業資本主義」と「社会主義」のように。二つの「記号のレジーム」を重ねて交錯させることは、一方を他方に対する「批評」として機能させる。
3 前項の「二つの体制」を「止揚」しにやってくる「総合」は、デジタルな「アナリシス/シンセシス」である。「普遍」はいまでは「デジタル技術」である。

4 「歴史」の「現実性Le Réel」とは何か
「声」と「歴史」、「歌」と「歴史」、「物語」と「歴史」についての、ジェネラルな問いを提起している。

5 「本当に起こった」出来事として「記憶」されている20世紀の出来事の映像群の「モンタージュ」によって「語り出す」映像的記憶は、「どこから」「誰が」「語っている」のか。それもまた「亡霊」(=「歴史の亡霊」)の「声」か?

6 「歴史」も「映像的モンタージュ」なのか? 確かに起こった出来事として「記憶」されてはいるのだが ….

7 「語る/歌う」声の現前が「装置」化されるとき、「歴史」を「実時間」で「語る/歌う」ことは「可能」なのか?
……….
……….

X  「現実界(Le Réel )が不可能になる」とき、「歴史のデジタルな熱死」が起きる。Le Réel est rationnelLe Réel est computationnel となると、Compter/CountすることとRaconter/Recountすることが同値になる。「差延(différance)」の「微分化(différentiation)」の先には、「現実界」と「歴史」の統合化、すなわち、すべての存在者の「亡霊化」が見えてくるようだ。





[1] Igitur descend l’escalier de l’esprit humain et va au fond des choses.

Certainement subsiste  la présence de Minuit. L’heure n’a pas disparu par un miroir, ne s’est pas enfouie en tentures. Car voici l’unique heure qui s’est créée…


[2] Cf. Les Notes sur la Science du Langage, Les Mots Anglais
[3]Le corps du signe est un tombeau, une pyramide, un monument dans lequel l'âme est enfermée, gardée, maintenue en vie, présente, signifiée (Marges p.95)


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