2009年12月1日火曜日

「『生政治』からみた政権交代」、『世界』、岩波書店、No.799 臨時増刊号「大転換」, 2009年12月号1日発行, pp. 37-44

「政権交代」の思想的意味
 この「変革(チェンジ)(ルビ)」をどう捉えるのか 
            石田英敬

 

1 「変革」の世界的な文脈 

 「政権交代」によって現在起こりつつあるこの国の政治の変化とは何であるのか。その本質をとらえるためには、少しマクロな視点に立って考えることが何よりも重要と思われる。
 現在の政治は、日常ややもすると近視眼的な捉えられ方に終始する傾向がある。たしかに、私たちの世界の出来事は、日々報道され、媒体もリアルタイムで伝えるメディアによることが多いので、政治的出来事の本質が何を意味するのか逆に問われることが少ない。
 しかも、それぞれの国の政治の出来事は、それぞれ別々に起こっているように見える。しかしほぼ同時に同じような問題が現れるから、現在の世界情勢を、よりジェネラルな観点から捉えうる「思想的な見取り図」が必要だ。
 そのための言説を今日私たちはかつてのようなかたちでは持ち合わせていない。「社会主義」 「資本主義」のようなイデオロギー・マップや筋書きがない世界に私たちは住んでいる。しかし、世界の動きのどのあたりにさしかかっているのかを見極める判断ポイントを描くのが「思想」の役割である。
 本論で、私はフーコーの「生政治」および「統治性」という、現代思想関連の読者以外にはあまり耳慣れない概念を使用することにする(この問題については、ミシェル・フーコー『生政治の誕生』などを参照されたい)。
 フーコーの権力論は、二十世紀以降の国家主権や統治権力の問題、自由主義や福祉国家の問題を考えるうえで、とても重要なトータルな視座を提供してくれるからである。
 まず、やや教科書的ではあっても、世界史の大きな流れを復習しておこう。現在の世界は二〇〇五年頃をピークとして成立していた「〈ポスト冷戦〉の世界秩序」が崩れた「ポスト〈ポスト冷戦〉」の世界である。
 

 (1)戦争による「主権」秩序の破綻

 冷戦後の湾岸戦争とともに立ち上がったアメリカの戦争秩序が、アフガン・イラク戦争に見られるように明白な破綻をむかえて、アメリカ大統領が「核兵器のない世界」に向けた演説を発表するまでになった。
 このような世界文脈との関連に、これから議論が起ころうとしている「イラク給油」問題や「米軍再編」、「普天間基地代替」問題、さらには、民主党が掲げる「対等な日米関係」、そして「東アジア共同体」といった政治テーマが呼応していることに注目すべきだ。
 ()「生政治」の破綻 
 世界の「改革」を長らく主導してきたネオリベラリズムによる統治の破綻がある。世界中に、「新しい貧困」、「プレカリアート化」が広がり「世界の悲惨」が露わになった。世界金融危機は「市場原理主義」の行き着いた先の「金融資本主義」の崩壊を明らかにした。福祉国家の解体が進み、フーコーがいう「住民を生かし、人口の生を再生産して統治する」という国家の「生政治」の現代的なあり方が問い直しをうけている。
 民主党の「国民の生活が第一」の主張はそのような現在の世界の「生政治の危機」に根ざしているのであって、「少子化」や「医療福祉」の問題、「年金」問題の露呈、「新しい貧困」や「プレカリアート化」などは、私たちの国が典型的に戦後続いた社会国家による「生政治」の破綻を経験していることを意味している。

 () メディア統治の破綻

 「〈ポスト冷戦〉の世界」は、世界の情報化の時代であった。情報の世界化とメディアの寡占化をとおして、ネオリベラルな政治のヘゲモニーがメディア権力をとおして塑形され、「メディアを通した統治」が、基本的な政治テクノロジーとして根づいた時代だったのである。
 自民党末期のメディア政治の破綻は、この「メディア統治」によって国民の支持をえるという政治的合力をつくりえない時代の到来を意味していた。小泉政治以後の政治の急速なメディア化と、それにつづく権力の瓦解は、時代の潮目の変化に適応できなかった統治権力の姿を示していたのである。世界は、アメリカの「オバマ選挙」以後、メディアをとおした「新しい政治的説得」のフォーマットの模索の時代へと向かっていると考えられるのである。

  () 「自己」の危機(あるいは「生きにくさ」)

 グローバル化する世界、情報化、市場原理主義、ネオリベラリズムの支配は、ひとびとの内面的生にも大きな影響を与えてきた。「自己責任論」の横行があった。人々が孤立して「リスク」の前に立たされる。それと相関するかたちで、「自殺」の増大がある。ナショナリズム・ポピュリズムの横行や人々のアイデンティティー・クライシスがある。「生きにくさ」感覚の蔓延や「動機なき殺人」、「象徴的貧困」の進行がある。
 こうした観点からいえば、「大企業のせいで家族間の殺人が増えた」という亀井発言など、「トンデモ発言」とは言い切れない。オバマの「Yes We Can」にせよ、鳩山首相の「友愛」、自民党谷垣幹事長も唱える「きずな」にせよ、「希望のない」社会の主体性の危機に対応しているのである。

 以上のように見れば、日本の政治状況は、すべて、程度の差こそあれ、現在の世界各国に共通した状況であると認識できる。こうした世界的な文脈に根ざして、「政権交代」が起こっていること、そのマップをまず私たちは頭のなかに持つべきである。
  

2 「生政治」の変革

 では、私たちの国での「政権交代」にフォーカスを絞り込んでみよう。
 民主党新政権の政治的方向は、「社会国家」あるいは「福祉国家」の再定義をめざすものだといえるだろう。
 この変革には二つのベクトルがある。「社会」政策の更新というベクトル、そして「国家」の統治構造の変革のベクトルである。
 二十世紀には「国家」と「社会」との境界が相対化し、「国家」の社会化と「社会」の国家化が相互浸透的に進み「社会国家」、あるいは「福祉国家」が先進国の政治の基本形となる。
 こうした「国家」による「統治」の仕組みを、「権力」の行使の観点から系譜学的に説明するのが、フーコーの統治権力論である。衛生や医療、保健制度や、保障といった、セキュリティの仕組みを社会に配備して、領土の住民を生かし、人口として管理していく近代的な権力による政治のあり方を「生政治 (biopolitique)」と呼ぶ。市場経済をうみだした「自由主義」の「レッセ・フェール」による「経国済民」(福澤諭吉)もそのような「生政治」の発明したものである。
 人々を生かし人口を増大させ、住民の安心と安全を保障し、産業を興隆させる「生政治」を行う権力の実践が、フーコーが「統治性gouvernementalité」と呼ぶ問題系である。「政府(gouvernement)」という権力のかたちがどのように生まれたのか、近代以降の政治をいかに生み出したのか、現代国家をどのようにかたちづくったのか、それらが「統治性」の問題である。
 ネオリベラリズムも社会民主主義もともに「生政治」と「統治性」の歴史的形態ということになる。問題は、現在私たちが相手にしているのが、このような問題系のどのあたりに位置付き、現代政治では、「生政治」や「統治性」の問題がどのような形で浮かび上がってきているのかということにある。
 さて、現在の世界の文脈において、「福祉国家」の「再生」と「統治構造」の「改革」はどのように行われるべきか、そのような問いが、私たちの国の「政権交代」には伴っている。
 民主党のマニフェストには、「子育て・教育」「年金・医療」、「地域主権」「雇用・経済」を結ぶ、一連の生政治の再配置に取り組むと述べられている。 
 じっさい、二十世紀半ばの「日本型福祉国家」は、社会国家の複雑化、その後のネオリベラリズム政策と市場化、ピラミッド型人口構成の終わりによって衰退への道を歩んできた。
「人口」は減少・高齢化し、人々の生活の「安心(セキュリティー)」は低下し、「貧困率」が増大して、「中央と地方」という地域の絆は断たれている。気がついてみれば、人口の高齢化・少子化が進み、デモグラフィックな衰退は、「国力」の減退に直結して、アジアの「中等国」への道を進みつつあるといわれる。
 経済のグローバル化、情報資本主義(ポストフォーディズム資本主義)にともなう労働形態の変化、非正規雇用の発達、リスクの個人化によって、二十世紀の社会が経験したことのない、「新しい貧困」や「新しい社会的不平等」が生み出された。
 民主党の「政策集INDEX2009」に盛られた政策目標を見れば、こうした全般的な問題系に対して、「生政治」の変革のモチーフは明白である。
 「子ども手当」創設、「男女共同参画」に見られる家族政策、「高校無償化」のような「教育負担」の削減と「機会均等」の教育政策、年金一元化のような「生涯保障」政策、「医療・介護」政策というように、まず「人口」の統治に関わる「生政治」的テーマが基軸に据えられている。
  さらに、非正規化する雇用、プレカリアート化する若者、労働形態の変化に対応して、雇用や貧困対策が掲げられている。また、「地域」への住民の配置を再定義し保障する」。「農業者戸別所得補償」などとともに、生活保障政策
 これらは、実際に、どこまで、どのぐらいのスピードで実現するのかまだ不明だが、これらの政策パッケージと環境福祉型社会への展望を「地方分権」組み合わせて、「生政治」を立て直すことが打ち出されている。
 これにいわゆる「財源問題」に関して、税負担の増大を含む実現可能性が担保されれば、新しいかたちの「福祉国家」のパラダイムを明確に打ち出すことができるだろう。
 さらにまた、CO2二五パーセント削減の宣言に見られるように、「持続可能な経済社会」、「循環型社会システムの構築」というテーマが組み合わさって、すくなくとも、机上の理論としては、グリーン・ニューディールによる新しい福祉社会という、二十一世紀型の「生政治」のパラダイムの模索が読み取れるのである。
 言い古されたことだが、グローバル化は、「市場原理主義」の席巻を引き起こし、「格差社会」を生み出した。その結果の世界金融危機である。アメリカでは「プライムローン」問題以降、貧困の問題がクローズアップされ、「国民皆保険」が課題となった。このような「生政治」の再編成は、世界規模で起こりつつある。日米での民主党への政権交代は、ネオリベラリズムの実験が終わり、福祉国家の再定義へと政治の極が、振れたことを意味している。
 だが、高度な技術と知識産業の創出なしには復興は難しく、人口の回復や知識社会のための教育の向上は一朝一夕にはいかない。新しいニューディールは可能か、私たちの社会は、「新しい社会契約」への途上にあるというべきなのだろう。

3「統治性」の変革

 他方で、こうした政策の実行のためには、「統治システム」の変革を避けて通れない。「生政治」と「統治性」とは、近代国家の権力の二つの側面なのである。
 十九世紀の社会思想の実験の最大の問題点は、思想が「権力論」を欠いたことであると私は思う。政治権力の行使としての「統治(=政府)」をどのように変更しうるのかが、国家の政治を変えることに結びつく。それを行わなかったことがマルクス主義のような十九世紀の改革思想の失敗をつくったことを思い出せばよい。それこそが、フーコーの権力論の意義だと私は考えている。ここでも、「思想的な見取り図」を描いてみよう。
 民主党マニフェストの冒頭、「五原則五策」に掲げられているのは、まさしく「統治性」に関わる命題である。
 新政権がめざしているのは、「政治主導」や「内閣一元化」、「官僚支配」の打破、省益・業官利権構造の除去など、国家の統治システムの改革である。それはもとより自民党政権時代から、「行政改革」や「政治改革」以来つづいてきた、一連の「改革」プロセスの延長上に位置づいている、「内閣制」をめぐる「社会国家」の「統治性」の再編である。
 「原則一」には、「官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。」と述べられている。政治学者たちが、「官僚内閣制」から「議院内閣制」へと呼ぶ統治システムの変革である。さらに「原則二」は、「政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。」とされて、これまた政治学者たちが「政府・与党二元体制の克服」と呼ぶ改革を述べている(以下は、飯尾潤『日本の統治構造』にもとづく整理。この本は民主党マニフェストも下敷きにしていると思われる)。さらに、「原則三」は、「各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。」と「省庁代表制の打破」をうたっている。さらに、国家と社会をつらぬく政・官・業の利益媒介システムの解体と横型の「絆」をとなえる「原則四」、「中央集権」から「地域主権」への移行をとなえる「原則五」まで。
 およそ、「議院内閣制」の権力の源泉から、「与党」と「省庁官僚制」、さらに中間団体、外部団体をつらぬいて、「社会」の底辺および「地方」にいたる、「統治権力」のネットワークの編成変えと再定義という、まさしく「統治性の革命」ともいうべき変革がうたわれているのである。
 スローガンをはなれて統治のシステムと政策形成プロセスの変更が、どこまでどのようなかたちで具体的に進むのかとなると、まだよく分からない。
 基本策を述べた、マニフェストの「五策」では、第一に、議院内閣制の原則の確立のために、大臣・副大臣・政務官・大臣補佐官など 政権党の国会議員百名を政府に配置して、政治主導で政策を立案・調整・決定するという、「議院内閣制」の「権力」の確立のための策が掲げられている。
 つづいて、「大臣」の内閣の一員(「国務大臣」)としての役割の重視、「閣僚委員会」の活用、「事務次官会議」の廃止が述べられて、「内閣による統治」が打ち出されている。さらに、総理大臣への権力の中心化を、官邸機能の強化と総理直属の「国家戦略局」の設置による、国家ビジョンの設計、予算の骨格の策定としてうたっている。
 それに対して、「行政全般を見直し、全ての予算や制度の精査を行う」ために「行政刷新会議」を置いて「社会国家」の更新をおこなうことを述べている。
 最後に、官・民、中央・地方の役割分担の見直し整理による国家の「主権」の再定義をうたっている。
 「議院内閣制」の確立、「内閣」の再定義、官邸を中心とした「国家戦略」の策定、「社会国家」の更新、「主権」の再定義という基本線にそって、「統治性」の変革が目ざされていることがわかる。
 今のところ「青写真」の段階だが、新しい「生政治」のための、新しい「統治性」の行使・実践が描かれている。
 もちろん、こうした「統治システム」の変革は、90年代以降さまざまなかたちで議論され、断続的・部分的に実行に移されてきた。「政治主導」や「内閣主導」、「官邸機能の強化」など、自民党時代になんども唱えられ、部分的・断続的に実行に移されてきた。
 「統治構造」の改変のどのあたりにさしかかっているのか。「統治性」の変革は、どのような変化を私たちの社会と生活にもたらすのか。それはこの後の実際の政治の推移から判断する以外にない。

4「透明性」の変革 

 「議院内閣制」の権力の源泉は、根本的には選挙で示される国民の支持である。政権党が、「政治主導」で政府を構成して政策立案をおこない、内閣の下に政策を一元化する制度をつくっても、実際に政策立案をおこなうコンピテンス(能力)をもち、的確な説明と説得を行うことができなければ、権力の源泉としての中心性を取り戻すことはできない。メディアが発達した現代世界では、日々行われる世論調査に示される「世論」が、「選挙」にとって代わる傾向が顕著である。
 政治家たちは、自ら説明することによって、合意をとりつけ、政策を立案し、実行に移すことで、国民動向をコントロールし、国を統治していく。それが、「良き統治」の実践、というものである。そして、それは「世論」の動きと刻々と相関する。
 「政治的説得」の技術の再配置と「統治性」の変革とはしたがって緊密に連動することになる。その意味では、「統治性」の変革は、メディア政治の終わりを意味しない。むしろ逆である。あるいは、スペクタクルとしてのメディア政治は終わるが、より本質的な政治的コミュニケーションとしてのメディア政治が始まるというべきである。
 「演説」を復権させたオバマの政治コミュニケーション技術の革新を見ればよい。「雄弁」による説得の技術とは、アメリカの場合、ローマ的雄弁術を起源とするというよりは、より「牧師」的な政治技術であって、フーコーが「統治性権力」の原型を導き出した「牧人型権力」(羊の世話をやき群れを群れとして自由放任のままに導く権力技術)にちかい政治テクノロジーだといえる。ブッシュ・ジュニアのような「見せ物」と「シンボル」のトップダウンの政治コミュニケーション実践と、「語りかけ」と「説得」による「統治型権力」の実践の差を考えれば、統治性の変革のための、これからの政治的説得のあり方が見えてくる。
 じっさい、日本の民主党の場合も、政治家による答弁、「事務次官」記者会見の禁止、記者クラブ主催にかぎらない記者会見の実施、閣僚、副大臣、政務官それぞれによる会見など、政治の「透明性」への積極的な取り組みを打ち出している。これは、単なる情報サービスや政治広報というより、「統治性」の変革が原理上、「透明性」の実践と内在的に不可分であることを意味している。
 「政府=統治(ガバメント)」とは「統治すること」の実践のみを権力の源泉とする政治であって、その統治のさまの「情報公開」と「説明能力」の高さこそが唯一の権力の源泉となるからである。
 
 こうした政治権力の変化は、政治報道のあり方そのものにも大きな変化を求めることになる。
 政治家に高度な政策説明の能力が求められるのとシンメトリックな関係で、政治家を問いただし、政治を伝える側にも、それに対応しうる高度な知識とジャーナリズムとしてのコンピテンスが求められることになるからである。
 この数年来、私たちの国でも、長らくメディアの報道から消えていた「社会への眼差し」が、人々の生の劣化の現実が認識されるとともに復活してきた。ここ数年ほど社会問題の可視化、「ジャーナリズム」の危機の議論とともに、その重要性が認識された時期はない。本格的な新聞報道や公共放送の役割が再認識されるということも起こった。社会国家の「生政治」の綻びに対して、メディアにも「社会的なもの」が回帰しているのである。「生政治」の変革には、その課題および問題点を洗い出し、社会の問題を可視化し、政策的妥当性を問いただすコンピテンスが求められる。
 現状では、現象的な「無駄な公共工事」批判、ポピュリズム的な「官僚たたき」や「天下り」批判が目立つことも事実だ。
 より深く政治的変革や社会でおきている変化の兆候を掘り下げ、その全体的な問題の見取り図を提示して、公論に供する本格的なジャーナリズムの取り組みが重要となる。統治システムの変更と政策形成プロセスの変化をとらえ、内閣や議会の動きを観察し的確にリポートすることが求められる。
 現在のメディアの配置は、そうしたことににわかに応えられるとは必ずしもいえないだろうが、新聞などでは、明確に新しい政治報道のシフトを敷こうという動きも見られる。ルーチンの「政局」報道、政治家取材、省庁まわりにとどまらず、新しい媒介の取り組みとは何か、それもまた、今回の「変革」で問われていることなのである。


2009年9月26日土曜日

「フレディの墓」試論 Pour « le Tombeau de Freddie » 石田英敬 シンポジウム「メディア・アートとは何か」2009.9.26  東京藝術大学大学院映像研究科横浜校舎





マルクスの「亡霊」、「声」と「現象」、そして「歴史の死」をめぐって

 フォルマント兄弟による「Le Tombeau de Freddie」(https://www.youtube.com/watch?v=hkfrU-EOQ-E)は、きわめて挑戦的なメディアアート作品である。
 本論考では、「墓」というモニュメントを「記号」ととらえて、「フレディの墓」という「記号体」が現代のメディア・コンディションについてどのようなクリティークの仕事をしているのかを論じていくことにする。
 それでは、これから「墓」に降りていくことにしよう。
 「フレディの墓」にたどり着くためには、その前にあらかじめ、いくつかの「墓」を経由していく必要がある。




探検その1 : マラルメの「墓」を入り口に ..

 私が提案するのは、マラルメの「墓 Tombeaux」を入り口とする経路である。
  「Le Tombeau de Couperinクープランの墓」の作者ラヴェル Maurice Ravelは、「マラルメの三つの詩 Trois poèmes de Stéphane Mallarmé」の作曲家でもあり、ならば、「フレディの墓」は、インターテクストの回廊を通して、マラルメの墓につながっている。
  マラルメの「墓 Le Tombeau」詩篇群(Toast funèbre, Le Tombeau d’Edgar Poe, Le Tombeau de Charles Baudelaire, Le Tembeau de Richard Wagner, etc. )は、「詩」を「墓」としての「言語記号体」とする実験作品だった。
   マラルメの「作品=書物」のプロジェクトは、初期の散文作品「イジチュール Igitur」に始まる。この「哲学的コント」の冒頭、序幕「真夜中Le Minuit」で、主人公Igiturは、呪文の言葉(=詩の言葉)を発することで、「人称性」を失い、「夜 la Nuit」と解け合う「影(Ombre)」と化して、「賽子」を投げに、「人間精神の階段」を「事物の底」へと降りてゆく[1]。地下墓室で、「賽子を投げ」(詩作の寓意の身振り)て「偶然」が「廃棄された」ことを確かめると、 イジチュールは、生命の象徴である「息吹き」で蝋燭を「吹き消し」墓に横たわる。「墓」としての「詩」が完成されたのである。
 「Le Minuit私が消滅する時」に始まる、この難解な作品は、詩を書く主体が、詩のシニフィアンを組織する時間性をとおして人称性を失って「亡霊」と化す、「エクリチュールのコギト」(Philippe Sollers)の実験だった。
 これ以後、マラルメにおいて「詩」は「墓」となる。「生命」の「息吹き」が、「文字の結晶体」をとおして「精神」と化し、死者の「声」が「亡霊」として「現象」しつづける「言語的時間意識」のモニュメントである。

 イジチュールの「身ぶりとことば」が、「フレディの墓」へといたる最初の「通路 passage」である。なぜなら、真に「モデルヌな」意味で、「詩」とは「言語」から成り立つ芸術であり、「音韻論の革命」の前夜に、「詩」とは「音素」から成り立つシニフィアンの組み合わせであって[2]、「精神」とは「息吹き」が「音素組織」 -- 「精神の楽器」としての「書物」 -- を通過することで産出され、言語意識における「現前」とはシニフィアンによる「内的時間意識」の組織のことであることを示したのは、マラルメの「墓」だったからだ。
 マラルメの「墓」は、「言語」と「文字」と「書物」から成り立っている。「フレディーの墓」は、「フォルマント」と「フォノグラム」と「ヴィデオグラム」から成り立っている。二つの墓の距離は大きいが、しかし、「声」と「現象」、「記号」と「内的時間性」の意識、シニフィアンの「装置」による「現前」の「亡霊化」などの原理は、すでにマラルメの「墓」の構造に書き込まれていたのである。

探検その2 「記号とピラミッド」、あるいは、「記号の問い」の起源へ..

  「フレディの墓」にいたるには、「時間の回廊 corridor du temps」を伝って、つぎに、「ピラミッド」にまで遡行することにしよう。
  「ピラミッド」こそ「記号」の記念碑、「記号の記号」(デリダ)だからだ。
ヘーゲルは、「美学講義」で述べている:
「記号とは無関係な魂が運び込まれたピラミッドである」。

そのヘーゲルを受けてデリダは書いている。
「記号とはひとつの墓、ピラミッドである。その記号体の内部に、魂が閉じ込められ、守られ、生き永らえ、現前し、シニフィエとして意味されている記念碑なのである。」[3]

 「記号=ピラミッド」論は、すべての「記号論の歴史」をその射程のなかに収めることができる。ヘーゲルにおいて、ピラミッドの結晶体の隆起は、地下建築が土地という自然の部分をうがつという人間文化の否定性の身ぶりから、その第一の否定性がつくりだした雌型がさらにもう一段階の否定をへて自立した文化の空間が成立したことを示している。
 このプロセスは、ヘーゲルにおいては個々の自然的な事象のしるしとして、自然物との感性的な結びつきを持った象徴(エジプトの象形文字がそれに当たる)の段階から、その結びつきを否定して自己体系化した恣意的な記号の段階への移行という<記号の問題系>とパラレルに論じられている。
 ピラミッドが示しているのは、魂の不死という自然的生死の否定によって生み出される観念の自立の記念碑である。ただし、ピラミッドが内部に宿しているのは未だ死者の魂の空間であって生者の生きる空間ではない(生者のための空間の誕生はヘーゲルにとってギリシャの建築の出現をまたねばならない)。ピラミッドは死者の魂の記号だが、その記号の特徴は死者との感性的な類似性をもはやもたないこと、したがってこの記号は「無関係な魂が運び込まれた」記号、すなわち「恣意的な記号」であり、そのことによって自立した精神の活動を宿すことができる記号である、ということにある。 

 ピラミッドは「幾何学の起源」の問題系とも結びついている。「ターレスの計測」を思い出せばよい(ミシェル・セール「幾何学の起源」)。象形文字と地下墓室の「エジプトの象徴空間」を、「比例」によって「幾何学化」し「射影 projection」したギリシャ的エピステーメの「記号空間」の成立である。さらにまた、「象形文字」から「アルファベット」の「正定立」の「ポリス世界」へ、さらには、「歴史」の誕生へとそれはつづいている。ピラミッドとは、以上のように、「記号論」の全問題系を提起しているのである。

3 ここでひと休みして、お勉強的まとめ、その1: 「記号のピラミッド」と「記号論」

  ヘーゲルがピラミッドについてのべている「象徴」から「記号」への移行は、パース記号論の用語でいえば、「類像記号(アイコン)」から「象徴記号(シンボル)」への移行に対応するといえる。非構築な「自然」から「文化」が「隆起」する。自然の「痕跡」から「象徴」へ、そして、「記号」へという「記号化」のプロセスを、パースのindex, icon, symbolという枠組みで扱うことは容易に想像しうる。 

 「記号のピラミッド」(Bougnoux-西兼志)の図式が召還されるべきだ。[図式については印刷版画像を参照して下さい。石田記
 自然的な事物や出来事との「接触」の経験は、さまざまな「痕跡」を生み出しつづけているが、それは物質的生や生物的身体の「地下」部分に埋もれている。そこから取り出される「痕跡」が「指標記号」となり、イメージや音響としての「類像記号」となり、さらに「ことば」や「文字」や「数式」のような「象徴記号」となる。そのように、「ピラミッド」の「記号体」は成り立っている。

 「フレディ」の「身体」もまた、「記号のピラミッド」である。その「無縁な魂」は、いまでは、「フォノグラム」と「ヴィデオグラム」として「生成」された人工の「ピラミッドのなかで、「声」として「現前」して「歌って」いる。問題なのは、「フレディの墓」のピラミッドはどのように作られていて、どのような「セミオーシス」が働いているか。どのような「魂」が、合成された「声」と「身ぶり」をとおして「亡霊」として宿り、その「息吹き」をとおして、どのような「精神」が醸し出され、「歴史」を作り出そうしているか、である。
 

4 ひきつづきお勉強、その2:フォノグラフ・シネマトグラフの「墓」

 「フォノグラフ」の革命以後、「記号のピラミッド」の建築工法は大きく変化した。「文字」と「書物」で「墓」を作るのではなく、「指標記号(index)」のレベルから「テクノロジーの文字」(フォノグラムとヴィデオグラム)によって「記号体」を作ることができるようになったからだ。
 このフォノグラムの革命にいち早く答えたのがソシュールの「記号学」とフッサールの「現象学」だった。(そして、おそらくフロイトの「精神分析」も)。
 アルファベット文字による書き取りにもとづく「博言学 philologie」に替わって、glossa(舌) phone(音声) logos(言理)の統一に関する「知」は、フォノグラフによる書き取りにもとづくようになる。
 「音声」は「音響」として「スペクトラム」で書かれ(「音声学」の誕生)、「ロゴス(言理)」は「音韻」を基礎に書かれるようになる(「音韻論」の誕生)。そのことによって、「意識」が「テクノロジーの無意識」から説明されるようになる。ソシュール「記号学」と「構造主義」の誕生である。
 
 「フォノグラフ」を聴く意識をとおして「内的時間意識」が分析される。「シネマ」が、視る意識の「クレチョフ効果」を発見させる(フッサール「現象学」の誕生である)。「情動」から「ロゴス」にいたる「魂」「精神」の組織の仕方にも、メディオロジックな変化が生み出された。
  アナログメディアにおけるGlossaは機械の振動であり、phoneは空気振動の再生であり、Logosはフォノグラフにより書き取られた「痕跡」の効果となる。

 ただし、「アナログ革命」は、「(精神の)歴史」の「亡霊化」を一挙にすすめはしなかった。「アナログ革命」が生み出したのは、「精神」と「歴史」の「大衆化」である。あるいは、それを「歴史」の「弁証法」といってもいい。
 フォノグラフはまず「アイコニック」な声である。人がまねて歌うことができる「声の類像」である。「音符」や「歌詞」をどのように「声」に変えるかの「タイプ」である。音の「解像度」の低さが「像」としての「類像音」をまず流通させる。
 さらにレコードは「録音」された「音」である。「映画」が「撮影=現像」される「映像」であるように。そこには、「時差」という「遅延」が介在し、「劣化」という「非動機化の契機」が紛れ込んでいる。
 「レコード/シネマ」を通して、「聴く/視る身体」が「フォノグラフ/シネマトグラフ」の「類像」に触発され、さらに「曲(メロディ)/ 映像」と「歌詞(パロール)/台詞」をとおして生み出された「魂」は、「歴史の物語」(イデオロギー)の「精神」へと媒介される。アナログメディアの「記号のピラミッド」は、まず、そのような個を大衆と化す「啓蒙の弁証法」(Adorno-Horkheimer)の装置なのである。
 「インターショナル」はあからさまに、このアナログ・メディアの「記号の体制(レジーム)」に属している。

5. さらにもっとお勉強:その3 デジタル・メディアの「逆ピラミッド」

 ところが、デジタル革命は、こうした「記号のピラミッド」を「底辺」から顚倒させる可能性を生み出した。
 デジタル・テクノロジーは、すべての「痕跡」を「計算」に置き換える「微分」技術の完成である。アナログメディアが、「指標(index)」から「類像(icon)」へそして「象徴(symbol)」へと底辺から頂点へと向かう記号化の抽象度の高低、記号の物質性の度合いを図式化した「記号のピラミッド」でいえば、ピラミッドの底辺の「指標」の帯域を使用する記号テクノロジーであったとすれば、デジタル・テクノロジーは、アナログメディアが捕捉する指標をすぐさま「数値」に換え「計算」に変換する、記号の「逆ピラミッド」の図式の成立である。
 言語と文字をピラミッドの頂点としていた「人間の時代」の「記号のピラミッド」のコミュニケーションに対して、「計算」を逆ピラミッドの頂点とする「デジタル記号のピラミッド」のコミュニケーションが対をなす配置が生まれるのである。
 デジタル・テクノロジーによって、「痕跡」はリアルタイムで「数値」(=「情報」)となり、「計算」として存在するようになる。そこにはいかなる「時差」も「劣化」もなく、「記録」と「再生」は同値である。
 「すべては<計算 ratio>をもつ。<計算ratio>のないものなどない。 Nil est sine ration」ライプニッツの「根拠律」の究極のあり方である「情報律」の時代である。「Le réel est rationnel :現実的なものは理性的である。」(Hegel)は、いまでは、「Le réel est computationnel:全ては計算である」である。
 このデジタル革命は、究極の「差異のシステム」の成立であると同時に、「差延(la différance)」の「微分化=離散化」による、「痕跡」と「差延」の作動の「ニュートラル化」をもたらす。
 あらゆる「痕跡」が「計算」となる(計算によって生み出される)という「記憶」のレジームの大変化にともなって、「それはかつてあった le ça a été」出来事の「本当に」性が、揺らぐのである。

6. 「息切れ」する「歴史」


「書物の時代」にあって、「文字」の「記号体」とは、「息吹き」や「身振り」を「魂」および「精神」に変える装置であった。
 「書物の終焉」以後、「息吹き」と「声」、「身振り」、「文字」が一致しなくなる。「息吹き」がそのままフォノグラフの「エクリチュール」により書き取られることになる。「身ぶり」、「運動」と「表情」は、シネマトグラフのエクリチュールで書き取られる。
  歴史の「息切れ」は、書物とアナログメディアの黄昏に対応しているように思われる。アナログメディアの「記号のピラミッド」が、次第に身体を精神へと媒介しなくなる。 デリダのいうように「書物」の「形而上学」の「息切れessoufflement」が起こってくる。
  身体・声・曲(楽譜・歌詞)・魂・歴史精神という「媒介=昇華」の回路が「息づまる」。身体・声の現前 声のイマージュとしての録音 聞き取れるメロディー、歌詞、生み出される魂、聞き分けられる「精神」という、身体の「現前」度が、媒介にしたがって「減殺」され、「精神」の「超越の形而上学」へと「昇華」される「弁証法」が機能しなくなる。
 「歴史」には、「語る現在」の「声」と、「語られる」現実の「光景」の成立が必要である。GeschiechteHistorie、「物語(Récit)」と「物語られる事実(Diégèsis)」の差異である。「写真」以来、出来事の「現実」は機械的に保証されている。あとは、視る「時間意識」をいかに「運動イメージ」として駆動させるかである。写真以来、ましてや、シネマ以来、「歴史」は「モンタージュ」を内在させる。
 他方、「語る」、そして「歌う」現在の「指標性」は、「対象化」されない。「あの声」の「痕跡性」の「かつてあった」現前は、「写真」のように「現実的(Réel)」であるのだが、その「声」が「話す/歌う」のを「聴く」意識のなかで、いつも「内側から聞き取られる」指標性である。「語る/歌う」声は、「意識の現在」の内側からしか聴くことはできない。「(自己/他人が)語るのを聴く」のは、つねに「声の現前」の審級の内側からである。「声」が亡霊的であるのは、そのような「現前の亡霊性」であって、「写真」や「映画」の亡霊性とは異なっている。
 「声」の「指標性」の前景化は、「モンタージュ」映画を不可能にする。「映像」の指標性に「声」の指標性が従属しなくなれば、「ナラティヴ」は不可能になる。「書物の歴史」に続いて、「映画の歴史」も「息切れ(à bout du souffle)」する。
 「歴史」はそのとき「ミュージック・クリップ」となるのかもしれない。

7. そして、「亡霊」が徘徊し始める...ヴィデオ・グラムのエクリチュール

 私たちは、ようやく、「フレディの墓」に辿りつくことになる。
 「Le Tombeau de Freddie」は、「ロック・スター」の声が、「歴史」を「亡霊化」しにやってくる「歴史の終わり」のPVである(のかもしれない)。
 「冷戦」の終わりに、「歴史の終わり」が語られ、Freddie M.の生が「終わり」をむかえた年に、「マルクスの亡霊」は「徘徊し始めた」。そのPVである。
 では、その「墓」の構造を見てみよう。

1)  「声の現前」の生成: 亡霊化1
冒頭、We will rock you を想起させる、足踏みのリズム
「フレディの亡霊」が呼び出され「フレディのあの声の現前」が回帰する
つづいて、「フレディの亡霊」(=イマージュ)が「出現」し、そして「歌い」だす。(フレディの「実映像」は一貫して映し出されない。)
「声」の審級(l’instance de la voix)が、そのように「生成」され、「声の現れ」が生み出される。これ以後「歌=騙り」(l’instance cantato-narrative)を担当するのが、「フレディの声」である。ロックスターの「声」が、「歴史」を「亡霊化」しにやってくる
2) 「演奏者」の映像:批評1
次に、「フォルマント兄弟」の映像のレベル
「これは演奏である」という「言表行為(énonciation)」を映し出す、「批評的」、「メタレベル」の映像?
3) Historie」の映像:亡霊化2
「歴史」の「物語内事実Diégèsis」へと「投錨」するために挿入された「Historie」の映像
4)  Machina」の映像:批評2
énonciation」の「音声-音響」学的マトリクス自体を「解体」してみせる、中央部の映像。「声の亡霊」の「生成」装置の開示

 ほぼ、以上のように、レベル分けすることができる、この作品において、何が「メディア・アート」のステイクなのか?
 次節では、「プラトン的対話篇」のスタイルをかりて論じてみることにしよう。

8 スレッド 批評座談会「歴史のデジタルな熱死」をめぐって


では、「亡霊」たちの「討論会」を始めよう。

1 「亡霊1」名無しさん:もれの考えでは、この作品のテーマは、「社会主義革命」か「デジタル革命」か、じゃねえか?

2 「亡霊 2」名無しさん:いや「インターナショナル」か「ポップ」か、だろうよ。

3 「亡霊 3」名無しさん:「フレディ・M」は、「ポップ」の王ってわけなんだろ?ミュージック・クリップが、「革命の歌」を終わらせたって、いう。

4 「亡霊2」名無しさん:その「フレディ・M」は、おれたちみたいに「亡霊」なんだぜ。

5 「亡霊4」名無しさん:そもそも「メディア」は「亡霊」をつくるものだって、いう

5 「亡霊3」名無しさん: もともと、「Medium →「霊媒」

6 「亡霊1」名無しさん: Λ_Λ   パンパンパン…
           (;#゚Д゚ ) タテ! ママ゚チヒトゴロシ゚! カクメイ セィヤセィヤ!
        ((  つ Λ_Λ
           ) ,ィ⌒(#゚Д゚ ) タマンネェタマンネェ! マジタマンネェ!
          _____, 、つ

7  「亡霊2」名無しさん: 「歴史」の亡霊か「スペクタクル社会」のスペクトルか、かっていう

8 「レノンさん」(の「亡霊」):漏れも「亡霊」なんだけどな。どうして「フレディー」じゃなきゃ、なの。

9 「亡霊1」名無しさん:アンタはダメなのよ、サヨクだから。「記号のレジーム」が違っている、っていう。

11「亡霊3」名無しさん:そうそう、「インターナショナル」とか歌っていた。「イマジン」の歌詞で。

12「亡霊2」名無しさん:で、「インターナショナル」は、「フレディーさま」が歌う前は、誰が歌ってたのだっけ?

13「亡霊1」名無しさん:「人民」!「大衆」!「万国の労働者」!

14「レノンさん」(の「亡霊」): われら「(サヨク系)亡霊」!

15 「ジャン・リュックさん」(の「亡霊」):漏れのコトバには(東から)神々の風が吹いてくる

16「亡霊2」名無しさん:もしかして、ハスミセンセイ

17 「ジャン・リュックさん」(の「亡霊」)):いえ、そのワタクシがいいますのは、スベテの映画はサイレント・ムービーであるという二十世紀においては至極当たり前の事実でありまして、この認識なしに、ワタクシの「映画の(複数の)歴史」も考えられないわけであります。といいますのも・・

18 「亡霊3」名無しさん:アヤシイ

19「亡霊4」名無しさん:アヤシイ

20「亡霊2」名無しさん:ヤッパイ





17「亡霊4」 : 名無しさん:「歴史の弁証法」か「理性の離散的計算化」か、というべき

18 「亡霊5」名無しさん:「歴史の終わり」か「普遍的アーカイヴ」か

(この「座談会」、まだ続きます ….


9 暫定的な総括とテーゼ


1 フォルマント兄弟が述べているように、「ロック・スター」フレディ・Mの「声と現前」を作り出しているメディウムとしてPVがある。そのPVを「墓」はシミュレートしている。「フレディ・M」の「声の現前」のシミュレート(再現=生成)である。デジタルメディアによるPVによる「声の現前」批判である。

2  PVと「インターナショナル」は二つの「音曲のレジーム」に属している。「文化産業資本主義」と「社会主義」のように。二つの「記号のレジーム」を重ねて交錯させることは、一方を他方に対する「批評」として機能させる。
3 前項の「二つの体制」を「止揚」しにやってくる「総合」は、デジタルな「アナリシス/シンセシス」である。「普遍」はいまでは「デジタル技術」である。

4 「歴史」の「現実性Le Réel」とは何か
「声」と「歴史」、「歌」と「歴史」、「物語」と「歴史」についての、ジェネラルな問いを提起している。

5 「本当に起こった」出来事として「記憶」されている20世紀の出来事の映像群の「モンタージュ」によって「語り出す」映像的記憶は、「どこから」「誰が」「語っている」のか。それもまた「亡霊」(=「歴史の亡霊」)の「声」か?

6 「歴史」も「映像的モンタージュ」なのか? 確かに起こった出来事として「記憶」されてはいるのだが ….

7 「語る/歌う」声の現前が「装置」化されるとき、「歴史」を「実時間」で「語る/歌う」ことは「可能」なのか?
……….
……….

X  「現実界(Le Réel )が不可能になる」とき、「歴史のデジタルな熱死」が起きる。Le Réel est rationnelLe Réel est computationnel となると、Compter/CountすることとRaconter/Recountすることが同値になる。「差延(différance)」の「微分化(différentiation)」の先には、「現実界」と「歴史」の統合化、すなわち、すべての存在者の「亡霊化」が見えてくるようだ。





[1] Igitur descend l’escalier de l’esprit humain et va au fond des choses.

Certainement subsiste  la présence de Minuit. L’heure n’a pas disparu par un miroir, ne s’est pas enfouie en tentures. Car voici l’unique heure qui s’est créée…


[2] Cf. Les Notes sur la Science du Langage, Les Mots Anglais
[3]Le corps du signe est un tombeau, une pyramide, un monument dans lequel l'âme est enfermée, gardée, maintenue en vie, présente, signifiée (Marges p.95)


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