2006年10月1日日曜日

「高度情報化社会が抱える「象徴的貧困」という問題」、季刊Anywhere No. 08, autumn 2006、NTT DoCoMo Mobile Life Communication Magazine, pp. 09-10

高度情報化社会と「象徴的貧困」


0. イントロ

 現在、私たちの社会は「情報過多の時代」と呼ばれるほど、様々な情報に満ち溢れている。新聞・雑誌・ラジオ・テレビといった従来のメディアに加え、Eメールやブログ、ケータイやiモードといった新たなコミュニケーション・ツールや情報通信機器が続々と登場してきたことで、情報量もコミュニケーション量も爆発的に増大した。
 デジタル・メディアの展開は、「情報」や「文化」を産業の基盤とした「文化資本主義」の時代の到来を告げているかに見えるが、社会の深部では、意識や欲望の基盤を掘り崩すような、「人間」の危機が進行している。情報が溢れるほど、その情報に対する不信感や不満が増え、日々のコミュニケーションから「リアリティ」が消滅していくような飢餓感を覚える人が増えるという現象が起き始めている。「消費」という活動自体が成立しない時代の到来を告げているとさえ考えられる。いったい何が問題なのか、高度情報化社会における「象徴的貧困」と呼ばれる問題を考えてみることにしよう。

1. 文化資本主義の時代

 二十世紀が生みだしたアナログおよびディジタルのメディア技術は、人々の「意識」や「意味」の活動を「微分化」して計算処理することによって、「価値」を生みだす産業テクノロジーをもたらした。
 産業資本主義であれば、「自然」を資源として商品を生みだし、その加工による「差異」を「価値」として成立する産業経済であった。ところが、現在の情報資本主義は、「文化」や「意識」を資源として「文化商品」を生産し、「欲望」を生みだし「消費」を誘発するという、「文化資本主義」の様相を深めている。
 ところが情報社会の社会的ステークについては、「ウェブ2.0」にしても、「グーグル」問題にしても、情報秩序の問題にしても、テレビ放送の再編やディジタル化にしても、公共放送の問題にしても、文化産業の振興にしても、バラバラな産業的技術的な問題として語られても、「市民社会」の側ではそれが社会にとってほんとにどのようなステークをもたらしているのかについて本質的な問いかけを受けることは少ない。
 これは極めて危うい状況である。テレビやネットなどを通じて、人びとの意識に働きかけ生をコントロールする情報資本主義の全面化こそ、現在の世界を支配している力だからだ。
 歴史的に振り返れば、一九世紀末に電話が発明されてから、人間のコミュニケーションや情報の伝達は「計算が可能になった」といえる。原理的には、電話線でつながることで計算で処理できる(デジタル化)コンピュータができ、現在のケータイのようなモバイル・メディアまで発展してきた。情報テクノロジーの発展で、私たちが扱う情報量は飛躍的に増大したが、ここで問題なのは量的な増大ではなく、どういう情報が、どのような増え、人びとの意識生活にどのような影響をもたらしたのかという点にある。

2. 微分化される時間と意識

 現在、私たちの情報テクノロジーは、「ビット化」することで成り立っている。数学的に言えば、「微分化」だが、私たちの生活の時間は、非常に微細な微分化が進んでいる。ここでキーワードは「時間」である。メディアとは「時間」の「微分」テクノロジーである。人間の「意識」は「時間」にもとづいて構成されるものだから、メディアによって人間の意識も微分化を受けるようになる。
 昔なら、それぞれの個人の生活に朝があり、昼があり、夜があるという〝ざっくりとした時間〟の流れがあり、人間の意識の生活は、どこか牧歌的であったともいえる。ところが人間の意識の生活を一変させたのは、リアル・タイムのメディアである。
 例えば、テレビというメディアが登場すると、個々の番組で時間が分割・細分化され、私たちの社会生活の時間もテレビ番組に合わせるように分割されていった。
 テレビは人々の時間をマネージするメディア特性があるから、これまでの朝とか午前という時間の概念も、一〇分、三〇分、一時間といった番組をいくつ観るかという組み合わせで成り立つようになった。映画やテレビは、人間の知覚を一秒あたり20数コマに微分することから、逆に意識を構成する技術である。テレビの後に登場したケータイのようなモバイル・メディアは、「隙間の時間のメディア」で、テレビの三〇分、一時間という番組よりもさらに微分化され、電車を待つ数分間という時間まで情報を取り入れるために使用でき、生活に組み込むことができるコミュニケーション装置である。このような情報機器に囲まれることで、人間の生活時間のほとんどすべてが、情報の微分テクノロジーのプロセスに組み込まれて「意識」が人工的に生み出されるようになった。これは同時に人間の生活全体が「情報量」として技術的および経済的に扱えるようになったことを示している。

3. 「情報過多」と「象徴的貧困」

 一日二四時間という人間の生活の時間は変わらないが、組み合わせや選択肢が増えることで、ひとちの個人が扱いうる情報量はたしかに飛躍的に増大した。情報機器による「処理能力」に応じて爆発的に増加したといってもよい。
 これは時間が「微分化」し、量的に扱える情報が増えたことが、かえって人々が処理しきれないほどの「情報過多」という問題を招いたということでもある。しかし、情報の「選択可能性」が増えたことが問題なのではなく、「どのような情報」が増えたのかという「情報の質」が問題である。
 モバイルというと「空間」とか「移動」という側面に着目されだが、実は、「時間」を微分化するというメディア特性が強い。時間を微分化するテクノロジーを人類が手に入れた時、それを何に使ったのか。この点は、反省すべき点が多いといえる。
 じっさい、モバイルを片手に、地下鉄にのってケータイ画面を凝視しつつ都市空間のなかを移動していれば、見知らぬ光景や他者たちに出会うことなく、自分の「既知の世界」に閉じこもって、自分が必要とおもう「既知の情報」をさらに「クラスター化」していていくことができる。人びとはそのようにして「情報」を増やし、自己の世界に引きこもり「オタク」化していくことになる。これは既知の情報をさらに細かく砕いていくことに微分テクノロジーが使われていることを意味している。
 情報を質的に高めるよう努めるとか、新たな情報生活やコミュニケーション・モデルを提示することなく、誰でも知っているような知識や情報を「便利」という使い方だけで消費した結果が、現在起きている情報過多の問題で、これが「象徴的貧困」につながっている。「象徴的貧困」とは、もともとはフランスの現代哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった「世界の悲惨」を指す言葉である。
 今日の世界は「文化産業」が「消費者」の「意識」そして「記憶」を生み出す「ハイパー産業の時代」であるとスティグレールは言う。映画、テレビ番組、音楽CD、映像DVD、あるいはiPodなど情報端末に配信されるコンテンツのかたちで文化産業が流通させるのは、「微分化された時間」をそれ自身のうちに帯びた「時間商品」である。
 そのような時間的商品においては、購買者の「意識」自体が「商品」の「時間」によって構成されるようになる。現代人の生活がこうした産業品に依存すればするほど、ひとびとは自分たちの「意識」をそうした「商品の時間」をとおして構成するようになる。「消費者」としての「欲望」が産業的に生み出され、人びとの意識自体が「市場」と化す。
 しかし、テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとすればするほど、消費社会が人びとの欲望を喚起すればするほど、人びとは逆に欲望や想像を自己のものとする契機を次第に失っていく。自分自身の欲望が「みんな」と同じものでしかない、自分自身の特異性の感覚が失われていくからだ。そんなふうにして「ほんとうの自分」が失われてしまう。そして究極的には、「自分の欲望」がどこにあるのかさえ分からなくなり、欲望自体が「萎えて」しまう。そして、人びとは退行し衝動に身を任せることにもなるかもしれないともこの哲学者は述べている。
 欲望をベクトル化するマーケティング技術、ユーザー・プロファイリング、消費資本主義のテクノロジー全体が、人びとをそのような「象徴的貧困」へと導いている。コンテンツによって意識を生産するハイパー産業の時代では、想い出さえもが「シンクロ」してしまう。カラオケやポップソングを考えればよい。自分たちの「過去」が、文化商品が生み出した「意識」によって構成されていく。
 文化産業によって「生みだされた」イメージに大量に曝されることによって、つねにすでに「既成」や「既知」のイメージ」しかなく、「すでに自分が知っている情報」の「消費」以外に「自分の像」がない世界。マーケティングによるリビドーの搾取からリビドーの枯渇へ「存在」の「耐え難さ」が露呈するようになるのである。
 よく「ITで便利になった」などと言われるが、便利になっただけでは真に豊かな情報社会ではまったくない。スティグレールたちがいうように、現在、メディアから伝えられる情報はあまりにも貧困で、社会全体が、幼児化・単純化・均一化し、人々の想像力が失われてきている。
 現代人の多くが、情報量が増し、便利になったと感じている反面、どこか現在の情報社会に「リアリティ」を感じなくなっているのは、そういう背景がある。
 例えば、「2ちゃんねる」のネットの使い方などは、世の中の既知の話題や同じ趣味や主義の共同体意識を微分化、クラスター化しているだけで、こういう使い方は、人の想像力を枯渇させ、情報社会の可能性を閉じてしまう。また情報社会の進行によって、「リアリティを感じない人」が増えたことは、実存的犯罪の増加と、根っこの部分でつながっているといえる。本来、もっと豊かな情報生活が送れるはずなのに、現状は非常に貧しい状況なのである。

4. 持続可能な情報社会へ

 では、こうした「象徴的貧困」の状態から脱して、如何にして「豊かな情報社会」へと転化させることができるのか。
 情報テクノロジーによる「微分化」が推し進めれている現在の状況とは逆のベクトル、人間の意味生活および文化における「意識」の「積分化」の方向に「情報社会」を全面的に組み立て直す必要がある。
 「人間」と「文化」という「有限な情報資源」からの発想がなによりも重要だと私は考えている。
 現在のコンピュータを可能にした「シャノン・モデル」が、「エントロピー量」の計算式によって「情報」を量として扱う計算モデルを確立したことが端的に示すように、現在の情報産業や文化産業は、人間の意味生活一般、さらにいえば「文化」を、微分化しエントロピー化する技術によって産業的に発達してきた。
 しかし、「文化」とは、そもそも微分化とは逆のインテグレーション(全一化=積分化)であり、置き換え不可能な固有の文脈を構成するものであるからだ。個体としての人間もまた、自己に固有な文脈を形成することによってしか、インテグラル(全一の=積分的)な意味生活の主体として自分を構成できない。
 計算モデルにもとづく「人間や文化のメディア産業化」の図式には、一方における機械による情報処理のプロセスと、他方における有限な資源としての「人間」および「文化」とのあいだに超えがたいギャップが存在しているのである。
 人間の情報処理能力には限界があり、文化という象徴資源もまた無限ではない。 産業資本主義が「有限な自然」をまえにゆきついた矛盾とまったく同じタイプの限界が「人間と文化の有限性」を前にした文化資本主義にも待ち受けているのである。
 最近の「情報社会」をめぐる世界的な論議を見ると、微分化とビット化による情報の無限拡大という主張は後退期を向かえている事が分かる。現在のキーワードは、「情報」ではなく、「知識」や「信頼」というタームへと重心が移動している。「ウェブ2.0」をめぐるマーケティングを基調とする論議も、大きくいえばこうした重心移動を示すものだ。微分化や脱文脈化が経済的「価値」を生みだすという局面から、むしろ「積分化」へ、マクロな文脈の確保へ、ひとびとが自らの固有な生を組織化することができる意味環境へ、信頼の醸成や文化的環境の構築へ、文化的価値の創出へと向かう方向こそ、今見えてきている情報社会の近未来なのである。
 ディジタル・メディアにおいて顕著になってきているこうした傾向は、テレビを典型例とするディジタル化しつつあるアナログ・メディアにも影響を与えないわけにはいかない。テレビのディジタル化やテレビとネットの融合などにすでに現れてきているように、ディジタル技術化はアナログ・メディアの前提的な相関項としての「マス(大衆)」の成立を不可能にしてしまう。近い将来、「マス」など存在しないというまでに情報化が及ぶことが予測される。情報が飽和し、「広告」が成立しない世界がそこには広がってきている。「人間」や「文化」を無尽蔵な「欲望」の「象徴資源」とみなす「消費資本主義」も行き詰まることになるのである。
 文化資本主義の未来を考えるならば、人間の象徴資源を枯渇させるのではなく、「文化」にせよ「人間」にせよ、そのインテグリティを維持し発展させる方向へと情報技術の活用をシフトさせるべきであることは、長期的視野をもつ者なら誰の目にも明らかなのである。
 環境問題から補助線を引くと、この間の議論は理解しやすいだろう。資源の有限性からの発想、環境という「生の文脈」のインテグリティの意識、品質表示など商品の反省的次元の重視などが生きる環境の積極的な価値を生みだしてきた。
 同様のことは文化環境や情報環境をめぐって、情報メディア産業に対して同じタイプの問いを引き寄せるのでなければならない。人間の心的リソースを無尽蔵な資源として想定し、そこから無際限に「利益」=「関心」を引き出せると想定することはもはや不可能な段階にメディア技術の進歩は来ている。
 オープンソースやウェブ2.0の議論に表れているにように、ディジタル・メディアは公開性や環境をキーワードに進化をとげていくことが見えてきている。20世紀にアナログ・メディアとして出発した文化産業もまた産業としての生き残りのためには同じような変容を遂げる必要があるだろう。
 環境基準に適応できない企業が淘汰されたように、文化資源の有限性を自覚しないメディア産業は淘汰されていくことになる。それこそが、「持続可能な情報社会」の要求を必然化するものである。情報から知識へ、知識から文化へと組織化された生きうる環境を支えるテクノロジーへと情報技術の社会的使用を変えていくことが現在の文明的な課題なのである。
 象徴的貧困は経済的貧困と同様、市場原理に任せてしまうと、文化のエントロピー化が進行し、人間の象徴資源を枯渇させることになってしまう。持続可能で安定した文化資本主義の発展のためには、むしろ「人間」の意識や欲望を確保し「文化」という象徴資源を担保する活動が必要なのである。
 こうした流れを作るのは、ユーザーではない。ケータイ事業者やプロバイダーといった民間企業やメディア業界、教育や公共機関も含めた情報の送り手である。情報産業の「社会的責任」は大変大きいのである。


【石田英敬・プロフィール】
一九五三年生まれ。東京大学文学部卒業後、東京大学大学院人文学科研究科博士課程中退。パリ第一〇大学大学院博士課程終了。パリ大学客員教授などを経て、二〇〇〇年より東京情報学環・学際情報学府教授。専攻は記号論、情報学。著編書に『記号の知/メディアの知日常生活批判のためのレッスン』(東京大学出版会)、『シリーズ言語態』(同 全6巻)、『知のディジタル・シフト:誰が知を支配するか』(弘文堂近刊)など。



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