2005年11月1日火曜日

「コイズミの新しい衣裳」、『世界』、岩波書店、No.745, 2005年11月号, pp. 84-93

コイズミの新しい衣裳

ネオリベラリズムのヘゲモニー戦略


「愚かな者と賢明な者とを選り分けてやろう。・・・」
(アンデルセン「皇帝の新しい衣裳」)

 2005年9月11日は、日本の戦後政治を葬り去る「保守革命」の日付として記憶されることになるだろう。ここでいう「保守革命」とは、ドイツのナチやイタリアのファシズムの政権奪取にいたった1920年代ヨーロッパの「保守革命」と響き合う歴史概念である。無党派層の支持を追い風に民主党による政権樹立にまで至ろうとしていた「都市の反乱」を前に、地方と都市の支持基盤をトレード・オフし、一挙に形勢を挽回すべく打たれたカードの総取替えの一手、今回小泉政権は狙い通り「劇的どんでん返し(ルビ:クー・ド・テアートル)」に成功したかに見える。
 この保守革命の原動力は、誰の目にも明らかなように、テレビを中心としたメディア・ポリティクスである。「変人」とも呼ばれた小泉純一郎という特異な政治家(本稿ではこの”変人”性を強調して以下「コイズミ」と記す)は、じっさい、稀有のメディア・アクターとしての能力を身に帯びることによって、いつもいくぶんかは”キッチュ”な劇場型政治を繰り広げてきた。そのコイズミは、今回、メディアの象徴効果をフルに活用して、政権党内および国政におけるネオリベラリズムのヘゲモニーを確立したのである。  
 しかし、なぜかくもやすやすと、この「メディア戦略」は功を奏したのか?「シングル・イッシュー」で「白紙委任」をとりつけるような稚拙な戦術がどうして人びとの支持をえることができるのか。なぜひとびとは自らの利害もまた将来をも省みずに、「ネオリベラリズムの政治」を「自由に選択」し喝采を送るのか。
 以下ではアンデルセンの寓話「皇帝の新しい衣裳」を下敷きに、スペクタクルの政治技術を捉えてみることにしよう。「コイズミの新しい衣裳」は、一見きらびやかな新しそうな「改革の衣」の姿をしている。しかし、それは人びとを”自由な”選択肢の連続の前に立たせることによって、ネオリベラリズムの政治への「合意の調達と強制」へと誘惑するために織り上げられた幻影の幕(ルビ:スクリーン)ではないのか。コイズミのスペクタクル政治のメカニズムと象徴効果を以下では考えてみることにしよう。

  I スペクタクルの政治

 「小泉劇場」という呼び方が定着したように、コイズミの政治力とは、政治をスペクタクル(=見せ物)として「プロデュース」し「演ずる」力である。
 「コイズミ語録」と呼ばれる、「改革なくして成長なし」、「聖域なき構造改革」などのスローガン、「米百俵」などのエピソード、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチがメディアを通して大量に流され、国民はそれをすでにかなりの期間受容し記憶してきた。小泉政治の4年半とは文字通り「コイズミ劇場」の4年半であった。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた、第一次「コイズミ・ブーム」以後蓄積されてきた様々なシーンやエピソードやスローガンの記憶を元手に、今回打たれた芝居が「郵政民営化」という「大芝居」だったのである。この集合的記憶なしに、今回の「第二次ブーム」はありえない。一時は興ざめし白けさせていた芝居だが、あらかたの予想を裏切って「解散」に打って出るという、コイズミが身をもって示した本気とパトスゆえに、人びとは喝采を送る。「コイズミ劇場」は、悲願の「本丸、郵政民営化」という演出で遠のいていた観客を呼び戻すことに成功したわけである。
 コイズミ政治の「劇場」は「テレビ」である。そして、コイズミ政治の基本技術とは、「アジェンダ(政治課題)」を、テレビをとおして流通させる「物語」の「トピック(=テーマ)」に書き換えることである。その基本操作を挙げれば次のようになる。

①「改革」プロット

政権のすべての政治アクションは「改革をめぐる物語」に書き換えられる。「改革」をおこなう政治主体(「コイズミ政権」という主人公)と、それを妨げにくる「敵対者」(「守旧派」や「抵抗勢力」)という図式が、個々の政策課題・政治争点をつらぬいて機能する。「改革」というマジックワードは、あらゆる政治課題の実行を貫く、マスター・プロットの名前なのである。主人公、敵対者、依頼者、受け手、援助者といった物語項が、この図式にもとづいて配置され、メディアを通じて機能し始める。このような物語トピックの配置のなかにひとたび引き込まれれば、「改革」に反対し異を唱える者は、ネガティヴな烙印をおされて排除される以外ない。政治の物語化は、メディアを通した「象徴支配」のための暴力的仕掛けなのである。

肖像とポーズ

コイズミは、かつての佐藤栄作首相のように「テレビはどこだ」と叫んで新聞記者を退場させるような露骨で不快なアンチ・パフォーマンスを必要としない。彼は記者の質問に答えるときも、もともとテレビカメラに向かってのみ話しており、テレビの向こう側にいる視聴者に対してのみ語りかけているからだ。コイズミは、カメラの前を過ぎるときには「全身ショット」でどのように手を振ればよいのか、質問に答えるときには「バストショット」でどのように顔を映し出されればいいのかを知っている。インタビューに答えるときもカメラからの眼差しを軸に質問に答えるよう身構えている。大統領型の「肖像とポーズ」のアイコンが、テレビを通して、そのように人びとの意識のなかに作り出されるのだ。

③ワンフレーズ・ポリティクス

コイズミの発話もまたテレビを念頭に計算されつくしている。テレビ・ニュースではひとつのトピックに充てられるのは、長くてもせいぜい数分である。「直接話法」で、話者がカメラに映し出され、発話が直接放送されるのは首相であってもせいぜい数十秒である。どの部分を切り出されて編集されてもよいように、発話は短く、フレーズはシンプルに、印象的な「せりふ」を人びとに記憶させる必要がある。
 テレビ的発話においては、スローガンやことわざのような、短くて記憶されやすく、メディアによって反復されやすい「決めせりふ」や「決まり文句」が頻用され、CMのようなメッセージのつくりが必要とされるのだ。秒単位のパフォーマンスが重要であって、言説のマクロな論理構成や忠実な文脈参照は二の次である。数分の輪切りのところで「話」の括りができるように話すこと、いつどの部分を切り出されて編集を受けても、狙い通りの効果があるように話すことが求められる。

④引用と演説

コイズミ政治のキッチュな性格は、「演説」における「引用」に集約的に表れている。政治家にとって、議会での演説は、自己の政治方針の正当性とオリジナリティを主張するためのもっとも核になる言語行為である。古典的図式でいえば、政治家は、演説において、自国の政治的伝統のなかに位置づけたり、古典的権威を引き合いにだしたりすることによって、正当化をおこなうものである(従来の自民党政治家たちの漢籍古典引用の習慣を見よ)。だが、コイズミには「古典」が存在しない。
 「改革なくして成長なし」、「痛みをともなう構造改革」のスローガンを定着させた「米百俵」にしても、小学教科書にも載っているような故事、民間伝承の類であって、オーソドックスな古典的正当化の型から外れている。あるいは、自衛隊イラク派兵の際の、「憲法前文」のつまみ食い的引用の杜撰さを見よ。ここでは、「引用」は、政治的正統の名における権威づけなのではなく、メディアを通したさらなる引用やコピーの反復を生み出すための、都合のよい文脈へのパラサイトなのである。コイズミの「ポスト・モダン」な政治家としての側面が端的に表れている。
 郵政国会解散直後の記者会見における「ガリレオ」演説は、こうしたキッチュな引用の典型例であろう。

⑤バラエティ的パーソナリティ

 テレビ政治においては、話し言葉で、「これは、ですねえ」、「どうして・・・なんでしょうねえ」、「分かりませんねえ、なぜ・・・」など、微笑みを交えてうち解けた親称モードで、相手を取り込んでコミュニケーションすることが重要だ。コイズミの国会答弁におけるように、あるときは牽強付会な揚げ足取りや、とぼけ、話題の強引な転換など、トピック・コントロールの即興能力を身につけていることが望ましい。「人生いろいろ」のように顰蹙を買うこともあれば、「他人事のような」とか「人を食った」とか評されることもあるが、「スタジオの私たち」に近い発話のポジッションを占めることによって、「政界」の三人称をコメントするメタ的立場に立つことが、視聴者との間に共感と同調を作りだす技術である。コイズミは、この点で、「バラエティー的パーソナリティ」である。

 8月の郵政民営化法案否決の解散劇から総選挙への流れを思い起こしてみよう。これまで4年半にわたって組み上げられた「コイズミ劇場」の装置全体をガラガラと動かすことによって、世論操作が行われた。
 ① 8月6日には、解散回避の説得にむかった「後見役」森元首相との、「干からびたチーズと潰された缶ビール」のエピソードが演出された。自民党派閥による古い密接政治との決別が演出され、「おれは殺されてもいい」という「パトス」の表明がもたらされた。② 8月8日、解散直後の記者会見での「ガリレオ演説」というコイズミ流のキッチュな正当化の身振りが実行され、「改革プロット」の「本丸」(=コア物語)としての「郵政民営化」という目標が指定され、「国民に聞いてみたい」という国民への呼びかけが演出された。③8月後半には、次々と繰り出された, 「刺客」という援助的役割の人物の配役キャストが発表され、④「官から民へ」、「小さな政府」、「改革を止めるな」というスローガンが設定され、⑤「敵対者」の指定と排除という闘争の場面がセットされた。
 まるで古典劇のような「後見役」の語りに始まり、「決意の表白」があり、引用にもとづく「正当化」があり、国民への「呼びかけ」があり、「核になるストーリー」が発動され、「援助者」たちが組織され、「スローガン」が発せられ、「敵」に烙印が押される。明快に分節化された「物語」がプロデュースされ実行されたのである。コイズミ政治とは、このように「政治」を「物語」に書き換えるメディア操作の技術なのである。メディアを活用して長い年月をかけて準備されてきた、この一大政治劇の象徴効果を前に、野党が太刀打ちできなかったとしても不思議ではない。

 II テレビとネオリベラリズム

 プロデュースと演出によって繰り広げられるコイズミ政治と、テレビ・メディアとの「共犯性」の原理は、それではどこにあるのだろうか。現在の日本のテレビにおいては、「官製報道」のようなかたちでの政治のメディア支配は成立しない。政治とメディアとの関係は、むしろ「誘惑」の関係である。政治権力は様々な「話題(トピック)」をセットすることによってテレビを「誘惑」しようと働きかけ、テレビは政治権力が設定するトピックを、メディア的に増幅し、バラエティー的おしゃべりを組織することで視聴者による「話題消費」へと差し向ける。
 現在の日本のテレビは、報道番組の編成において「ワイドショー」や「情報バラエティー」などのバラエティーを主流とした、社会的コンフォーミズムの生産装置である。自立的な「ジャーナリズム」として、政治権力が設定しようとするトピックを批判し、真に社会にとって重要な論点とは何かを検証し、社会的現実を判断するためのイッシューを自ら抉り出そうというような姿勢は、現在のテレビには希薄である。そもそも「ジャーナリズム」という考え方自体が、現在のテレビ界にとって、すでに「対抗理念」に属するといっても過言ではない。今回の総選挙の報道に関して、およそ、「ジャーナリズム」としての本来の機能を果たし得ていたのは、筑紫哲也キャスターによるTBS番組「New23」の連続特集「コイズミ的を問う」のみであったといえる。「報道」と「バラエティー」との間にバランスをとって、テレビにおける「報道番組」の準拠点となっていた、久米宏キャスターの「ニュース・ステーション」が終了し、今回の衆議院選挙の報道に関して言えば、後続番組「報道ステーション」では、スペクタクル政治と共振する古館キャスターのバトル・トークによって、ほとんどまともな論点検証の議論が成立しなかったことが、テレビ報道番組のバラエティー化の行方を象徴的に表している。
 そして、バラエティー化したテレビにおいて、「ネオリベラリズム」は、水のなかの魚なのである。なぜなら、「ジャーナリズム」という職業的・倫理的規制をはずされてしまえば、テレビとは「ネオリベラルな市場」そのものであるとさえ言ってもいい。「バラエティー」とは、あらゆるトピック(話題)を、スタジオのおしゃべりによって扱うことができる、テレビ番組のメタ・ジャンルである。世の中のニュースはこのとき、日常的な「空談」によるマッサージ的消費の対象となる。その消費を計るのは、視聴率という市場原理である。テレビ界が、次々とスペクタクルをプロデュースし話題を投入してくれるコイズミ的スペクタクル政治に、自らのインタレストを見いだしたとしても驚くにあたらないのである。「政治場」と「テレビ場」との間の、「利害=関心(インタレスト)」にもとづく「共犯関係」がそこにはある。
 政治的テーマがテレビ・バラエティー的な話題に置き換えられると、どのような効果が生まれるだろうか。
話題性=非政治化:「くのいち候補」とか、候補者が「何足のスニーカー」を購入したかという点にニュースが集中されれば、政策課題の論及にはいたらない。「話題性」とは、「論点」を隠蔽する機能を果たすのである。政治的なものと日常的なもの、抽象的なものと具体的なもの、目的と手段の序列関係の遠近法がくずれ、取材対象との無媒介的な親近感だけが効果として生み出される。そのように「注目区」の候補は、「話題性≒人気」という象徴資本を増していくことができるわけだ。
②焦点化=盲目化:テレビは「社会的なもの」を表現することは不得意である。テレビには「個」しか登場しないし、孤立した「個別の出来事」しか映し出すことはできない。映し出されたものこそが「事実」であり、すでにポジティブな自明性を帯びてそれは現れる。単一の「トピック」に焦点が当てられれば、それが位置づく社会的・政治的背景、そこに働いている見えざるロジック、本質的な政治的争点は、言説の助けなしに視聴者の意識にのぼらないのである。テレビにはつねに「シングル・イッシュー」化の論理が働いている。
論理力の後退:テレビはまた「論理的文脈」を伝えることも不得手である。一般概念や抽象的論理はテレビカメラでは映し出すことができない。「イメージは否定を知らない」といわれるが、「〜がない」、「〜ではない」と、「否定」を表現することもできず、「選言(・・・または・・・または)」や「仮定(もし・・・なら)」といった論理的な推論を映像のみで語ることはできない。
④コミュニケーション資本:テレビにおいては、短いフレーズ、孤立した文脈しか映し出されず、カメラへの現前こそが証明であり、カメラの前で語ることができる「テレビ顔」がコミュニケーション資本である。テレビにおいては、すべては「個」に帰される。そして「個」は「セレブ」として崇められるか、バッシングされるかしかないのである。
 このようなテレビ・コミュニケーションにおいては、「トピック設定能力」こそが、資本」である。視聴者と即座にチャンネルをつくり、話題に引き入れ、さまざまなコメントの交通の場を組織し、さらにあたらしい話題をつぎつぎに即興的に繰り広げうる能力こそが、テレビにおいては重要なのである。短い時間において、印象的な発話をおこなうことができる人物こそ、ポジティブであって、「キャラだち」し、「タレント化」する可能性がある人物である。
 田原総一郎の政治ショー番組「サンデープロジェクト」のように、政治界のアジェンダをテレビ界のトピックへと書き換える入り口の役割を果たしている番組もあれば、たけしの「TVタックル」のような、政治的アリーナのグロテスクなショー化を担当している番組も存在している。だが、いずれも、テレビ的バラエティーの原理は、ステレオタイプにもとづいた単純化を促進する方向に向かい、モデレートな立場や、緻密な議論は置き去りにされる。話題性や物語性が、論理的妥当性や事実性よりも優位に立つ、スペクタクル政治の競り上げとジャーナリズムの融解現象を招いているのである。

小選挙区制の「二進法アルゴリズム」

 冷戦終結後のグローバル化する世界における体制選択の幅の減少と歩を合わせるように「政権交代を可能にするシステム」として94年に導入された、わが国の「小選挙区制」は、対抗的パラダイムの形成に向かうよりは、単純化された「二者択一」による「論点同化」と「思考の一元化」を加速させるメカニズムを働かせはじめているようである。
 それは、あたかも二進法による「演算手続き」のアルゴリズムに似ている。ある論点、例えば、「民」か「官」か、という単純な二項対立の前に立たせれば、その差は「0」と「1」とでかき分けることができる。さらに「小さな政府」か「大きな政府」か、と設問すれば、さらにかき分けは進むし、「民営化」か「公営」か、などなど、一連の二項選択のディジタルな連続項のふるいにかけてやれば、人びとの実世界におけるアナログなオピニオンを、ディジタルな政治選択式に置き換えて演算処理し、「割り切って」いくことができるだろう。割り切れない部分は、「剰余」として、再度、サブの二項演算のふるいにかけ直せばよい。あるいはまた、還元不可能な部分は、「残余」として切り捨てればよい(ちょうど、自民党内の反対派を切り捨てたように)。個々の有権者がもつ固有のオピニオンも、「遺伝子情報」のようにビット化することができるかもしれないのである。
 小選挙区制は、このような「オピニオンの差」の「ビット化」を推し進めていないだろうか。体制選択の可能性が消え、共通の政治的チェス盤において、二つの政治勢力が競争するとすれば、理念的には、それぞれのポジッションは、究極的には0か1かに限りなく「微分化」することができる、二項対立の連続として書き取ることができるはずである。そして、政治的立場の差とは、コンピュータを動かすプログラムの差のようなものである。どの論点を先に処理するか、どのような分岐項のセットに括りをいれて、演算プログラムを組織するかという、「演算手続き」の差にすぎなくなる。一見対立する二つのポジションは、「カレーライス」か「ライスカレー」かの差にすぎなくなるのだ。
 あれか、これか、という二項択一式が、政治イッシューを「微分」して「処理」する「手続き」となり、複合的な政治的課題をつぎつぎと「整序」していく。このような事態を、政治の「二進法アルゴリズム化」と呼ぶことにしよう。
 アルゴリズムに「対話」は不要である。ある視点から、二項化された「価値選択のシステム」に、争点を呼び込めばよく、自分たちの都合の良いトピックの経路の中で、問題を「処理」すればよい。「シングル・イッシュー」とは、そのような「ビット化」のための、演算処理のための戦略的「結節点」のことである。
 「二進法アルゴリズム」が、もっとも、合理的なアルゴリズム算法であることは、コンピュータが示している。「小選挙区制度」は、「政治的諸課題」を「二進法化」することを可能にし、政治選択を「二進法アルゴリズム」に書き換えることを可能にしたのである。
 「郵政民営化」に賛成か反対か、という択一式によって二分化して処理すれば、政権党内のネオリベラル派と「守旧派」との間は整序される。反対する「割り切れない」勢力は、さらに別の二分法の前に立たせて整序していけばよい。同じ「ネオリベラリズムの演算式」によって、民主党内の組合勢力も整序することができる。
 有権者に対しても同じである。「官か民か」、「大きな政府か小さな政府か」、「公営か民営か」、「民営化に賛成か反対か」など、自明と映る「わかりやすい二項選択」の連続のまえに有権者を立たせていけば、おのずから、政治的な演算処理のプロセスがはたらき始めるのである。
 このように、政治の布地を織り上げるための「小選挙区制」という「織機」は、「あれか・これか」という二項式によってオピニオンの差異を微分化し、政治的同質性の布地を織り上げるシャトルの往復運動をつくりだしているといえる。相互に還元不可能な多様な差異をインテグレート(=積分)して、新たな「対抗的政治理念」を構築しようという、「積分法」的アプローチが、私たちの政治には欠けているのである。

ネオリベラリズムのヘゲモニー

 小選挙区制という二進法の織機が織り上げるネオリベラリズムの同質性の布地、その生地をもとにテレビ・メディアを使ってイマジナリーな物語を仕立て上げ、人びとを幻影的な「政治的選択」のなかに導き入れるスペクタクル政治の仕掛け、これこそが、「コイズミの新しい衣裳」の正体ではないのか。グラムシは、「ヘゲモニー」を、世論操作による「合意の調達と強制」という概念で説明したが、「国民に聞いてみたい」というコイズミの呼びかけ、「国民投票」の演出を通して、観客としての国民は、ネオリベラリズムによる「合意の調達と強制」の回路のなかに呼び込まれていく。国民は「自由な選択」をとおして、ネオリベラリズムのヘゲモニーに従えられていくのである。
 このスペクタクルに掛けられている争点は深刻であって、選挙において焦点化された一見自明な選択肢には重大な詐術が仕掛けられている。
①「民/官」の対立による「市民社会」の消去:「官から民へ」というスローガンにおいて、「民」とは、「私企業」、「民営化」のことであって、「市民」や「市民社会」のことではない。「国家」か「市場」か、という選択の強制は、「市民社会」を消去するオペレーションでもある。
②「大きな政府/ 小さな政府」の対立による「社会」の消去:官僚統制か市場原理かという対比からは、福祉や社会政策にかかわる「社会的なもの」の次元は消去されている。
③「女性候補」擁立劇による「性差別」問題の消去:すでに多く指摘されたが、「刺客」騒動は、「女性」を前面に立てているようで、「くのいち」とは男支配の道具にすぎず、コイズミに「お仕え申し上げる」(猪口邦子)比例候補に名をつらねた「セレブな女たち」の表象は、性差別問題の隠蔽を明確にねらったものである。
④「セレブ」、「勝ち組」という象徴支配:カリスマ料理家から、ホリエモンまで、あるいは女性国際学者まで、クローズアップされたのは「庶民型のタレント候補」ではなく、「ヤッピー型」、「勝ち組」、市場原理のヒーローたちである。今回の選挙の特徴は、「セレブ」の支配であって、「象徴資本」が、「政治権力」と相同化する「勝ち組」の時代の到来を告げている。そこで消去されたのは、「フツーの人」、「庶民」、「地方」という存在である。
 市民の消去、性差別の消去、社会の消去、地方の消去、弱者の消去・・・、このように考えれば、すでに、この選挙キャンペーンには、「市場原理」に支配された私たちの社会の光景が先取りされているの。近い将来、国民は、それぞれが「個」の「自己責任」において「リスク」の前に立たされることになることを予告している。
 

「新しい不平等」の社会とスペクタクル

 しかし、それではなぜ、自己の利益に反する選択を人びとが自由に行うというようなことが起こるのだろうか。
 「スペクタクル」(ドゥボール)とは、自分自身の姿が分離したものであって、テレビ的コンタクトの擬似的な近さにおいて、スペクテーター(見る者)に見えているのは、自己の願望や不安が、別の場に分離して投影された姿であることを思い起こそう。
 地方においても都市においても、中間集団の解体、公共空間の崩落によって社会の遠近法は崩れている。二極化していく社会にあって、それぞれの個は、個として自らのリスクに向き合う以外になく人びとのあいだに社会的連帯が成立する余地は少ない。
 拠り所となる政治勢力はもはや存在しないという感覚に支配された状況においては、「日本をあきらめない」という「不安」を直視させるようなペシミスティックなメッセージを発信した野党よりは、明確に「改革」に対する「敵」の征伐という明確なプロット提示した、コイズミ政治とのコミュニケーション的な近さに投票したとしても不思議ではないのである。
 だれもが自由に参入できる個の競争という「新しい不平等」の社会のシナリオに、まだ自分たちの願望と不安を投影することを選んだということだろうか。しかし、いずれにせよ、いま「市場原理主義」を選び取ることは、ひとびとを捉えている不安の原因そのものを選び取ることを意味している。そして、それがスペクタクル政治を通して選び取られたことの結果をだれも請け負うことはできないのだ。
 「マニフェスト選挙」といわれた前回の総選挙に比して、今回の選挙の「学力崩壊」ぶりはすさまじい。イメージや劇場が、政治権力の正当化となるということは、政治的議論の論理的手続きや主張の事実性の検証という、政治における「妥当性」の請求が飛ばされていることを示している。しかし、理性から神話へと後退するのではなく、イメージや劇場にこめられたメディア社会の真の争点を見抜き、スペクタクルを政治的理性の言語に置き換えて真の政治的想像力を働かせる必要は、まともにこの国の将来を考えようとする者ならばだれもが共有している常識ではなかろうか。


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