1999年5月1日土曜日

「<マラルメの世紀>とは何(だったの)か?」、『現代詩手帖』、1999年5月号特集「マラルメ2001」、pp.32-40

 <マラルメの世紀>とは何(だったの)か?

  石田 英敬


I. マラルメ以後<一世紀>

「書くとは何であるかをひとは知っているか」とか、「文芸のような何かは存在するのか」という究極の問いによって、文学の存立についての二十世紀の問題論的な地平を拓いてきた<マラルメ>だから、マラルメ以後の百年は、<文学>の成立する人間的経験の深部にむかって、「書くとは何か」、「文学とは何か」という問いの垂鉛を下ろす試みが辿ってきた二十世紀文学の軌跡自体でもある。<文学>や<詩的言語>や<エクリチュール>についての問いは、つねにマラルメの名に重ねられて問われてきたし、偶然を廃棄しようとする「賽子一擲」の詩は二十世紀の<文学の問い>の方位を指す北極星の役割を果たしてきたといえる。この文字通りの<文学の極北>が私たちに指し示している<マラルメの世紀>の問題論的方位を本稿では簡単におさらいしてみることにしよう。

2. 詩と<言語の世紀>

「エロディアード」詩篇制作の途上でマラルメが<虚無>に出会ったのは、「詩句を穿つ」ことによってだった。詩的言語の探求が、世界の存在の根源の問題と通底する、という出来事がそのとき起こった。そのときに、世界の根拠を言語において問うという<言語の世紀>としての二十世紀は始まる。言語は実体の方から出発して説明されることはもはやできない、<言語>は<言語>自身の方へと折り返される以外にない。現実という<虚構>を説明するのは<言語>の方であり、<言語>は<言語>によって「証明」される以外にない。ここに<メタ言語>の時代の到来がある –
言語はかれに虚構の道具であると思われた。かれは言語の方法に従うであろう(…)。言語が自己反省しつつ。
  ・・・
 「<言語>」において<言語>を説明すること、その<精神>に対する働きにおいて、<言語>を証明すること(…)。(「言語についてのノート」 一八六九年)

言語の「自己反省」は二つの方向をとる。言語による言語の批判としての「メタ言語」、そして言語そのものの「自己反映」としてのの「詩的言語」。意味生成の順序を逆転させてシニフィアンの自己反映から「ptyx」という謎の言葉の「意味」を作りだそうとする「yxのソネ」(一八六八年)は、そのような「ことばの研究」から取り出されたのだとマラルメは述べている。そしてじっさいマラルメの詩学の成立にとって決定的な役割をもった哲学的コント「イジチュール」は、そのような言語の自己反省=自己反映を極限まで押し進めたテクストだったのだ。
 マラルメの問いに入るためには、かれの詩のコトバのこの自己反省=自己反映の回廊を通らなければならない。そこにマラルメの「晦渋(obscurité)」の名で呼ばれてきた問題がある。マラルメの言語は難しいか?そう確かに難しい。私たちはかれの言語が繰り広げる息詰まるような反省の狭い道を丹念に辿っていくことによってしか、かれの文学の問いの中へと入ってゆけない。それは、あたかも、「真夜中(le Minuit)」の「私(ego)」は「私」の究極の完成=消滅を告げる「時(heure)の打つ音(heurt)の黄金(or)」の「こだま(écho)」であり…、といった類音・類義語のシニフィアンの反映するネットワークを繰り広げる、あのイジチュールの推論を辿るようにしてでなければならない。それは、テクストの襞にそって、テクストの網の目を辿ることによってでなければならない。その複雑な襞を折り畳んだコトバは、言語がメタ言語へと、詩句が詩の問いそのものへと、折り返される地点にそってコトバを折り返していくのである。
 詩のコトバを書くことがメタ言語でもある、詩を書くことが、世界の象徴的根拠を問う身振りでもある、そのような言語が<マラルメ>とともに出現した。コトバを書こうとすることが、世界の不在化と私の死の出来事でもあるというような、そのような絶対の臨界へと差し向けられたコトバ。そのコトバのネットワークは、まさにマラルメの書くごとく「一匹の蜘蛛の糸のレース編み」のように、現前の世界を成立させている意味経験の<痛点>をめがけてのびていく。発話する<私>を不在の影へと変貌させ、発話主体をテクストの配置のなかに<非人称化>し、言説の一義的参照作用を消し去り、現前する世界への帰属を保証していた発話行為のあらゆる公準を宙づりにしていく。しかし、かれのコトバはけっして難解な語彙から成り立っているわけではない。「語にイニシアティヴを返す」ことが試みられているのであり、詩句は日常の言語から「国語には無縁な新しいトータルな語」をつくる営みなのだ。「ザーウミ」にしても、「妙なる死体」にしても、自動書記にしても、レットリズムにしても、詩のことばを分解し、「鋳直す」、ことばのマテリアリスト的試みはここから始まったが、それでも、マラルメはそれだけの詩人ではない。テル・ケル派やヌーヴェル・クリティックやフォルマリズムは、詩から「参照作用」や「表象作用」を消したけれど、マラルメの「転位」や「心的な場所」は、単なるフォルマリズムではない。マラルメの言語は、自由詩を可能にしたが、自らは伝統的な韻律の最後の自覚の位置にとどまっている。
狂気(「エルベノンの狂気」)に接しつつ、コトバの始源の問題へと関わりつつ、しかし、最も日常的なコトバの宛名とも戯れながら、このコトバの蜘蛛のネットワークは、十九世紀と二十世紀との臨界線にそって私たちのことばの経験の縁を囲い込んでいるのだ。いま私たちのことばの一文字一文字を書くたびに、マラルメの問いは回帰すし、私たちの本のページを繰るたびに、その問いは折り重なる。
もっとも音韻論的な発明に満ち(あの「空ろな音のする廃れた品プティックス(ptyx,  aboli bibelot d'inanite sonore)」のように)、「文」をもっとも複雑なシンタックスの仕掛けとしてつくり(「シンタックス、唯一の理解可能性の軸」)、もっとも洗練された参照作用の捻れのゲームを生み出し、詩の行為によって言語行為を宙づりにしつつ、マラルメの言語の複雑な襞のゲームこそ、音韻論から統語法、認知意味論や言語行為論へという、二十世紀のメタ言語の学のすべての試みをカッコに入れて見せるような、<コトバの知>の実践が繰り広げられたのだった。<コトバの知>の世紀を、マラルメのコトバはそのまま自らの複雑な襞のなかに包み込んでいるのだ。そのような意味で、マラルメの言語は、二十世紀の<詩>と<批判>とが臨界する特権的な場所でありつづけてきたといえるのである。

3. 詩と<政治の世紀>

「そう文学は存在する、お望みなら、全ての例外として」とマラルメはいう。この誇張語法(イペルボール)の断言が表しているのは、フランス革命一世紀をへたフランス第三共和制の存在論的状況である。第三共和国では、<文学>も<宗教>も<国家>もアウラを失い、折しも、一八八九年は、フランス大革命からちょうど一世紀をへて、<共和国>が、まったく散文的な裸形の姿を現そうとしている。マラルメがいう「空位」の時代とは神権的基盤を失い世俗化した<政治>の全面的な裸出の時代なのである。このとき、歴史上初めて、<国民国家>という擬制が、生のかたちで問われることになる。「宿命性を連続性に、偶然性を意味にかえる」(アンダーソン『想像の共同体』)<国民>の虚構(フィクション)と、「偶然を廃棄する」(マラルメ)の<文学>のプロジェクトとが、そして、国民国家の「空虚で均質な時間」(ベンヤミン-アンダーソン)と、詩による「時間の黄金」(マラルメ「イジチュール」)の探求とが、対照的に浮かび上がる。共和国の匿名の市民の「宿命性を連続性」に変えようとする「無名戦死の墓」の「国民的想像力」の仕掛けと(アンダーソン)、マラルメの「喪の乾杯」に読まれるように、擬制の共同性の空虚な連続性を断ち切って自己の無と非人称性のなかに完結しようとする「詩人の墓」との対立が、裸出した<国民国家>と、裸形をさらす<文学>の対立として相互の根拠を根底的に問う状況が現出したのである。
 じじつ、ルナンの「国民とは何か」(一八八二)中の、「毎日の人民投票」という一般意志による<国民>を基礎づけは、<現在>以外に根拠をもたない<国民国家>の<無根拠性>を逆に露呈させる。しかも、この共和国において、もっとも散文的な、散種の力を発揮しているのは<資本=金(かね)>の力であり、「すべての精神的探求」が導くのは、「経済」か「美学」であるというマラルメの対位法にもとづいた、<資本=金(かね)>に対する詩の<黄金>の対置(マラルメ「重大雑報」中の散文「金」を参照)とは、「パナマ疑獄事件」に示されるような金権の支配する共和国の偶然に対する詩の戦いなのである。あるいは、また、鉄とガラスの産業としてのびていく、鉄道と都市の空間、それ自身のうちに、<無>を抱え込んだ「プロレタリア」の出現、『ディヴァガシオン』におけるマラルメの一連の「批評詩」は、裸出した現実の「共和国」に対して、象徴権力のあらゆる戦線において繰り広げられる<文学>による<偶然の廃棄>の戦いの観を呈している。その限りにおいて、一八八五年から一八九八年まで書きつがれるマラルメの後期散文は、「第三共和国」に対置される<文学の共和国>の擁護と顕揚なのである。
 国民国家と、文学と、宗教とが、徹底的に裸形の姿を曝した地点から、マラルメの<文学>の問いは出発する。そして、マラルメが、国民国家の問題に介入するのは、とりあえずは、<宗教>の問題系をとおしてである。
 一八六十年代の有名な<危機>以来、マラルメは徹底的に無神論者である。<虚無>を発見したと語られる「エロディアード」詩編制作が教えたのは、端的にいえば、<言語>が、<神>に先行するという認識である。そして、そこから引き出されたのは、言語の否定性を基礎とした認識の方法としての<虚構>(フィクション)の理論であった。すでに、一八六十年代末に言語学と同時に「神性について」というラテン語副学位論文を書こうとするときすでにこの発想はすでに芽生えている。そして、神話を言語問題に還元するという方法にもとづいた一八七六年の『古代の神々』に、宗教を言語からとらえようという方法は実践される。マラルメは、<文学>を<言語>という基礎の上におくと同時に、言語が究極的には基礎となる<虚構>の一般理論にもとづいて、人間学的事実は整理されていくことになった。「存在する」のは、<文字>のタームで語られる言語だけなのであり、他の全ては<虚無>なのである。「文芸と音楽」中の「文芸というような何かは存在するのか」という問いに対する「そう、文学は存在する、お望みなら、全ての例外として」という答えは、言語の組織の「証明」としての<文学>だけが存在する、その他は<虚無>であるという意味なのだ。「現代人は想像することを厭う」とワーグナー論のなかで書いているのだが、「想像する」とは、人間が世界と自己の虚無に向かい合う契機をなす活動なのである。そして、マラルメは、共和国が、様々な想像の装置を発達させていること、様々な「キマイラ」の口を拡げていることに注目し始める。アンダーソン流の「想像の共同体」との関係でいうならば、共和国とは、群衆の<虚無>が露呈した、マラルメにとっては、いわば、最も理想的な状態なのであり、その<虚無>と<文字>のエコノミーとして、<国家>という<虚構>はつくりなおされるべきものなのだ。「社会的関係というものは、虚構であり、したがって、<文芸>に属すべきものだ」(「擁護」)というような主張にそれは要約されている。散文集『ディヴァガシオン』は、マラルメの、その<虚構>の方法が全面化し、第三共和国と一致した姿を示しているのだ。そこには、<虚無>の境位としての都市、想像力の主要な制度である劇場、演奏会、教会の儀式など、想像の共同体のあらゆる「想像の制度」が書き込まれている。「自然はそこにある。なにも使えることはない」という<自然>から切り離された、<都市>の生活はそれ自身、<虚無>をベースにした生活である。その自然が闇に沈む<夜>になって、無のなかに想像力の<虚構>に光が浮かび上がるのである。そして、群衆の抱え込んだそれぞれの<虚無>を動機づけるべく、劇場という想像力の<シメール(幻想)>の装置は口をあけるのだ。
 マラルメの「批評詩」は、第三共和国の想像の共同体の諸機関を、<文学の共和国>というある極限的なユートピアの視点から、批判する運動の軌跡を描いてみせる。「共和国」とは、周知のように、もともとラテン語で「res publica」つまり「公共の事物」というわけだが、マラルメの<文学の共和国(République des lettres)>は、<文字(レットル)>という無を折り畳んだ契機を共有することによって成り立っている。「物(res)」は、マラルメにおいては「無を帯びた事物(rien)」に変えられ、それこそが、物が文字という否定性の契機を帯びた状態なのだ。そのような、「無を帯びた物」を共有することによって成り立つ<無の共同体>、それこそが、マラルメが、「第三共和国」に対置する<文学の共和国>なのである。
 <文学の共和国>は、現実の共和国の想像の諸制度に、つぎつぎと、みずからの無を分泌する襞のヴェールを打ち掛けていく。そして、しばしば、じっさいの共和国のナショナリズムと相似した<ナショナリズム>をそれ自身も描いているかに見える。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれるのであり、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じているのだが、「この外国人に対する感情は複雑である」と述べているように、「厳密な意味で想像力があり抽象的な、従って詩的であるフランス精神」の名において、「己が民族の誕生を飾る壮麗な光景に立ち会う」ような<神話>にもとづくゲルマンの楽劇に異を唱えている。ここには、ドイツ的な「民族国家」対フランス第三共和国的な「国民国家」という対立の図式に相似的な対立の構図が見えるわけだが、それがしかも、<音楽>と<詩>との関係として捉え直されている。
 「カトリシスム」というキリスト教の典礼に関する中心的なテクストにおける<文学の共和国>のオペレーションは、一見まさしく、「われらの民族」である<フランス国民>に、カトリシスムの典礼儀式の形式をもとにして、「想像の共同体」の儀礼をつくりなおすことをめざすしているように読める。「大雑把にいえば問題は、<神性>という、<自己>に他ならぬもの、(...)そのような<神性>を、地面すれすれのところで、出発点として、人間社会の慎ましやかな基盤、各人のうちにある信仰として、取り返すことである」とされ、「我らのコミュニオン、すなわち個から全体へ、全体から個への参与」は、聖体拝領の「野蛮な食事」やキリストという「姿を消した俳優」を取り去ったミサの形式として、「<祖国>とか<名誉>、<平和>という勝ち誇る光となった言葉の正統性の刻印を受けたものとして」とり行われることを夢想している(マラルメ自身は、「私は、夢を見ているとは、全然思わない」と続けて書いているが)。つまり、<文学の共和国>も、その襞の体系のうちに、現実の第三共和国の<ナショナリズム>をシミュレートし増殖させているように見えるということなのだ。
 しかし、むしろ問題は、「<民衆>を魅惑し、教化する」詩の<朗読会>を構想し、フランス大革命の一世紀を記念して「<歴史>の一サイクルを閉ざすべく、<詩人>の大臣(祭式執行者)としての働きを要求」するこの<文学の共和国>のユートピアが、<文学>と<国民>との関係について、何を述べようとしているのか、ということなのだ。つまり、より徹底した「想像の共同体」の在り方を、「未来の祝祭」として述べようとしているようなのだが、そして、そこでは、<宗教>も、<国家>も、さらには、「金」を記号とする<経済>もが、<文学>による、裏打ち(マラルメの言葉でいえば「証明」)を受けようとしているのだ。第三共和国という<国民国家>と<文学>との結びつきのもっとも深い根拠とは、「なにか或ものが存在するということに関係がある」インクの「暗黒の滴」に最終的にはもとづいた、「虚構」、つまり、<擬制>の無根拠性ということなのだ。<無>のレース編みの襞としての<文字>によって結びついた共同体、成員のそれぞれが抱え込んだ<虚無>の襞を編成し、しかも、その襞に向き合うべく、劇場、コンサートホール、祭式の場の暗闇に想像のための穴(「シメールの開口」)を穿ち、それ自身が<自然>から離れて<無>を折り畳んだ<政治体(ポリス)>としての「都市」。「空位」という「時代のトンネル」を、言語の無の襞によって覆い包もうとする、詩のポリティクスとして、<文学の共和国>は対置されているのである。

4. 詩と<メディアの世紀>

マラルメの仕事の大きな部分は、メディア批判としての詩の実践と理論である。一八七〇年代には、自ら「ジャーナリズム」に乗り出すと宣言して、モード雑誌『最新流行』(一八七四年刊)を一人で編集し、しかも、発行人の名前から各種記事の署名まで、すべてマラルメの偽名であるこの雑誌は、モード記事、ファッション情報、パリ消息、「料理・インテリア・庭仕事」欄、娯楽情報欄、果ては読者欄にいたるまで一人で書かれたものである。あたかも、複数の偽名的エクリチエールの下に姿を消すことによって、自己を、非個人化=複数化しながら、モードという、メディアによってのみ生み出される世界に自ら包み込まれようとする実験であるかのようなのだ。
 あるいはまた、いわゆる「折節の句」に分類されて来た「郵便詩」はいったい何を示しているだろうか。手紙の宛名を四行詩で書いたそれら無数の詩の存在。

   この本を持ってゆけ、森に
   鶏頭色の曙が昇るとき
   ウジェーヌ・マネ夫人
   遠くヴィル・ジュスト街四〇番地

郵便夫は詩を読みながら配達する、というこの発明は、詩人の洒落た趣味というよりは、むしろ、通信メディアに関して、マラルメが試みた「メディアはメッセージ」だという詩的パフォーマンスだと理解すれば、彼のメディア批判の射呈がよりはっきり見えて来る。後期になれば、『ディヴァガシオン』は、ジャーナリズム・新聞への言及に満ちている。『詩句の危機』のなかで、「ことばの二つの状態」について、マラルメが述べた有名な定式、「本質的な状態」としての詩のことばと「ユニバーサルなルポルタージュ」のことばという区別は、詩的言語とジャーナリズムの言語の対比に他ならない。『重大雑報』と名打った散文詩連作は、「パナマ旋獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面雑報記事」を詩の言葉で書き直したものである。そして、大文字で書かれる<書物>をめぐる考察は、かってマクルーハンが指摘したとおり、必ず<新聞>をめぐる問題から出発して説き起こされることになるのだ。晩年の<書物>論を頂点とするマラルメの詩学が、メディアの詩学を主要な次元に持ちつつ成立する様子がそこにはうかがえるのである。そして、マラルメにおいては、<メディア>は、インクと紙、活字と紙面、字組と頁、冊子と本など、もっとも厳密で具体的なレヴェルでその成立の根拠を問われることになるのである。     ‘
 文学の存在をラディカルに問うマラルメだが、その問いの問い方の特異性は、文学の存立の根拠を、文字どおりに、すなわち、必ず<文字>のタームで問うところにこそある。例えば、『音楽と文芸』の中のあの問いかけ、「文芸のようなものはそもそも存在するのか」の<文芸 le Lettres>は、<文字>の複数形である。一九世紀人にはむしろ珍しく、マラルメにおいては、文学の本質が問われるときに、<文学 la littérature>は、はとんどの場合、<文芸=文字>と故意に言い換えられる。その方が、文学の問題が文字どおりに見えるからである。そして、文学を文字どおりに問うところから、文学の問いは,メディアの問題系へと開かれてゆく。じじつ、マラルメは、<文学>の問題を、<文字>・<頁>・<本>といったメディアの用語で一貫して考えるのだ。
 紙は物質であるが、それをメディアとしての<紙面>に変えるのは、そこに<文字=記号>が書き込まれるという事件である。インクから文字へ、紙から頁へ、頁から本へと、物質と記号が出会う固有の次元、物質のメディア化という記号形成にとつて根源的な出来事へと、マラルメの問いは遡行する。文字が書かれるという出来事によってメディアが<存在>し始める。文学は、そのようなメディア世界の生成についての知でもあるのだ。

意識のようなクリスタル、インク壷は、その底には、何かが存在するということに関する闇の滴をたたえている。 (『局限された行動』)

メディアを生み出す<文字>こそが意味世界の<存在>を保証する。そして、その文字の働きの集成としての文学のみが従って究極的には<存在する>と言えるのである。
「文学のみが存在する」とマラルメが言う場合、<文字>−<頁>--<本>という、文学の書物の存在を構成する諸単位の水準間の必然的相互連関、及びそれを可能にする<リズム>が問題とされているのだが、それらを通して、<書物>は、「文字の全体的拡張」と定義される。「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」のだが、その<絶対の書物>は、そうした<文字>の布置(=星座)の宇宙的な拡大なのである。だからこそ、宇宙の方も‥神秘主義やピタゴラス主義の用語を借りて、文字や頁とのアナロジーで語られることになる。「星は天空のアルファベット」であり、「空は、二つ折判(フオリオ)の頁」なのだ。
マラルメにとつて<文字>がメディアの成立の最も基本的な要素であるとしても、それだけでは、メディアを形成するにはいたらない。<文字>の運動と同時に、紙という物質が、<メディア>へと変容することが伴わなければならない。それは、紙の上に文字が書き込まれることで実現される、と考えることもできるのだが、より“反省的”に,紙がそれ自体の運動として、自らがメディアと化す身振りを示すとき、それは、紙が折られるときである。そしてそれこそが頁の成立なのだ。<折り畳み>の運動によって、紙は、物質としての紙ではなく、文字という記号を受け入れるメディアの墳位、すなわち頁となる。そして、頁の定義とは、折り畳まれた紙である。印刷紙は二つに折られることにより「二つ折判(フォリオ)」の頁となる。この<折り目>こそ、マラレメの詩学にとつて最も核心的な<問題系>をかたちづくるものなのだ。フランス語では、「折り目」も「襞」も同じ語pliで指される。詩の一節をとつて、<襞にそって襞を(プリ・スロン・プリ)>と言い表されるこの<襞=折り目>の運動は、マラルメの詩と詩学において、特権的な<形態生成>論的、かつ<リズム論>的フィギュールなのである。カーテンにせよ、布地にせよ、あるいは紙にせよ、一定の物質素材が、<かたち>の場と化すことを示すのは、そこに<襞=折り目>がうまれる瞬間である。ある素材が、物質としての墳位から、それ自身の物質性を変質させることなく、<かたち>の境位へと変化する運動、それこそが<襞=折り目>という<かたちの出来事>である。<襞=折り目>は、実体も固定した輪郭も持たない<かたち>である。しかも、その<かたち>は素材と不可分であり、それ自身の場所から引き離しえない。それゆえ<襞=折り目>は、ラディカルに<単独性>を帯びた出来事である>。同じ二つの<襞=折り目>はない、のである。そしてまた、<襞=折り目>は、それ自身の反復として、つねに他の<襞=折り目>を生み出してゆく。これが<襞が/襞を>(折り目が/折り目を)うみだしてゆくリズムである。だから、<襞=折り目>が作る<頁>の編成体として書物が読まれるとき、それは、つねに、<折れ目から折れ目へ>というリズムで読まれてゆくことになる。

折り畳みの介入、あるいはリズム(「書物、精神の楽器」)

 新聞に対する関心も、この折り畳みの可能性との関連において、<書物>と対比的に論じられる。文字と頁という構造を持っているメディアは、書物を除いては、新聞である。新聞はだから、最も本に近いメディアなのだが、<折り目>の扱いにおいて劣っている。様々な活字の字体やそのポイント、棒組や校正刷など、文字メディアの可能性について「印刷術が見出したすべては⋯初歩的には新聞というものに凝縮されている」(「書物、精神の楽器』)。だが、活字が作り出す文字のスペクタクルにもかかわらず、新聞紙面は、<折り畳み>がもつ決定的な可能性を生かしていないのである。

 印刷された大きな紙面に対して、折り畳むということは、ほとんど宗教的な印である。          (「書物、精神の楽器」)

そして、その折り畳まれた編成体であることによって、本こそは最高のメディアなのである。

   書物こそは最高のものだ、新聞は出発点にとどまる。   〈同)

通常のメディアの理解が事実を伝達するたんなる手段=媒体であるとすれば、マラルメのメディアの詩学は、文字から頁へ、頁から書物へと、あくまでもメディア自体の生成に固有な運動の次元にとどまり続けようとする。そして、そのことにより、逆説的に、徽底的に反--伝達的である(例えば、「宮殿の石の上には頁は閉まらない」と『詩句の危機』に言われているように)。本は、そのようなメディア性のもっとも完全なありかたであって、その「処女的な折り畳み」(同)は外界に完全に閉ざされている。
 白い頁の上に書かれる文字の襞、それこそが、詩の本のテクストが生み出す最初の<かたち>の単独な出来事であるとすれば、<活字>はまさしく、同一の型(タイプ)の反復によって、頁の上に生みだされたテクストの襞を微分してしまう。自らの<かたち>としての出来事の<場>と、単独性の相において結びついていた<文字>は、その<絶対的=単独な>結びつきを失って、マラルメの用語を使うならば、<偶然性>を帯びてしまうのである。頁と文字との分離が引き起こされる、文字は<型〈タイプ〉>へ、頁は<地>の位置へと後退してしまう。マラルメの活字メディア批判は、今日ますます進行するこのメディア・テクノロジーによる意味の微分化の問題に焦点を当てている。
 マラルメの頁は、そうした<偶然>の侵入に闘いを挑む。ひとつひとつの文字は、頁の上に、その場において絶対に置き換え不可能な必然性において書き込まれるのでなければならない。頁と文字の布置としてのテクストとの間に、絶対的な動機付けを与えること。そのことによってのみ、頁が読まれるとき「当初は無根拠な」白い部分が、「偶然が一語一語打ち負かされる」ことにより、必然化され、意味をもつようになるのである。

 活字の偶然が、わずかに黒く砕け散り、散種され、詩行となり、白が回帰する、当初は無償のものとして、偶然が一語また一語打ち負かされるにつれ、必然的なものとして…。
                      (「文芸のなかの神秘」)

余白や空白がテクストの意味形成に十全に参加するようになるのはそのときだ。マラルメの本は、そのように、活字の<偶然>に抗して構想される。活字がもたらした<偶然>を、活字と頁の可能性を駆使することによって廃棄すること。活字メディアの批判を、<偶然を廃棄するテクストと頁の実現の運動>そのものとして遂行的(パフォーマティヴ)に実現すること。それこそが、活字詩『髄子の一投げ』の制作に賭けられていたものである。文字・頁・書物のメディア性をテクストと頁の運動自体によって指し示し、それを可視なものにすること。<活字>、<頁>、<本>のメディアとしての本質こそ、マクルーハンが言うように近代の「活字人間」の無意識であるとしたら、マラルメの<文学>は、まさにそれを見えるものにすることをめざす、メディアの批判的パフォーマンスである。ここで、<文学>は、遂行的なメディア批判となる、あるいは、文学は、メディアの自己反省となる、と考えることもできる。
メタ言語(=言語批判)、メタ記号(=記号批判)としての<詩>の実行と同時に、マラルメの<書物>はメタ・メディア(=メディア批判)としての詩の実践でもあったのである。


付記:
本稿は、「ポスト・マラルメの世紀」の問題系の全体的輪郭を筆者なりに提示することをめざしたものであり、それぞれの問題系についてはすでに別の箇所で発表した論文と重複があることをお断りしておく。マラルメとメディアについては、拙稿「マラルメ・メディア・マクルーハン」(『現代思想』、一九九三年十月号)、マラルメと第三共和国については拙稿「<文学の共和国>論」(『現代詩手帖』、一九九七年十月号)を参照いただければ幸いである。

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