1997年4月1日火曜日

詩学のポリティクス4 <ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学 初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



詩学のポリティクス4

<ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学

初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



わたしが、たとえば、
  dhcmrchtdj
のような、任意の文字列を組み合わせるとすると、神聖な図書館はその文字列をすでに予想しており、その隠されたことばは恐るべき意味をふくんでいたことがわかるのである。
   ボルヘス「バベルの図書館」


1. <http://www.>

「インターネットは世界を変えるか」というような法外な問いに答えるのがここでの目的ではない。「インターネットはコトバを変えるか」という問いにも、いまのところ答えられそうにない。「インターネットは文学を変えるのか」という問いに答える準備もまだできていない。おそらく確実なのは、ひとつには、インターネットは<辞書>および<事典>を変えつつあるということであり、もうひとつには、インターネットは、<テクスト>の成立条件を変えそうだというものである。「WWW ブラウザー」と称する閲覧ソフトの登場によって、わたしたちは、とつぜん、<百科全書>の時代に逆戻りした、あるいは、<新しい百科事典>の時代にたどりついた。パソコンを“開く”たびに、「検索」と「閲覧」という行為から、わたしたちは毎日を始めるようになりつつある。これは、たぶん、ヘーゲルが「近代人は、朝の礼拝の替わりに、新聞を読む」といったのとはちがう新たな日常の儀式を、巨大な<百科事典>を前に、人々が始めているということなのかもしれない。

 ところで、その<新しい百科事典>だが、中世から18世紀の百科全書にまでいたる時代に夢みられた、「完全言語」あるいは「世界(=普遍)言語」、「世界(=万有)事典」、そして、「人工(=記号)言語」などを結ぶ問題系と類似した問題圏が、そこには新たに出現している。インターネットも、コンピューター言語という人工言語をもち、世界中の言語を結んで、世界の全ての事象の分類、すなわち電脳空間(サイバースペース)のなかに日々更新される巨大な万有百科事典を閲覧に供しようとしているからだ。

 自然言語の辞書としての<辞典>と、事物の辞書としての<事典>との関係を取り結ぶのが、人工言語の夢であり、その人工言語が可能にした検索・参照・転送にもとづいて、世界の秩序づけと、ことばの秩序づけとの照応による宇宙全般の秩序づけがめざされる。そのような被造物の総目録の作成による<神の計画>の復元の企てが、<新しい百科事典>の計画の根源にはあるようなのだ。こう考えてみれば、「インターネットは世界を変えるか」や「インターネットはコトバをかえるか」といった問いに、少し接近することができるような気がするのである。

 ここで確認しておくと、現在「インターネット」という語でわたしたちが理解しているのは、<WWW>と呼ばれるハイパーテクスト方式による世界規模のネットワークである。「ハイパーテクスト」とは、テクストのマークを付された箇所から複数の別のテクストへと結ぶ参照関係が何重にもはりめぐらされた<超--テクスト>のことである。WWW(World Wide Web)では、そのようなハイパーテクストを連結した網の目が、世界規模でそのクモの巣(Web)を拡げ地球全体を覆っている。わたしたちは、<http>( HyperText Transport Protocol)と入力することによって、そのようなハイパーテクスト空間の参照関係に入り、その転送と移動のルールにしたがうという、「取り決め(プロトコル)」を結ぶのであり、<WWW>と指定することによって、世界規模でひろがるハイパーテクスト連結のなかに無限の襞を繰り広げる<万物(=宇宙)の百科事典>を検索する航海(ナヴィゲーション)へと出発するのである。

 検索の<場(サイト)>は国別や言語別に設定されているにせよ、無数の方向へのびていくハイパーリンクのクモの糸は、知らぬ間に、自然言語の壁や文化の境界を超えていく。

 マラルメは、自らが紡ぎだす作品のテクストをクモの巣のレース編みに、自分自身を「一匹の聖なるクモ」に喩えていたけれど、今日のわたしたちは、じっさいに、インターラクティヴなハイパーテクストのリンクによって関係性の糸を日々無数に紡ぎ、世界規模に拡がる<WWW>の巨大なクモの巣の一点にそれぞれが糸を掛け、私たちひとりひとりが作者であるというよりは、むしろ一匹のクモである世界を生き始めている。ハイパー・リンクの糸を掛けることをとおして巨大なテクストのクモの巣と共振し、それぞれがそれぞれのやり方で<全宇宙>を映し出す、そのような<汎テクストの時代>にもう突入しているのである。


2. <ボルヘス>

宇宙規模に拡がる<百科事典>、すべての事象を収めた巨大な図書館、テクストがそれ自身の内部から無数に別のテクストへ転送されていく<超-テクスト>の迷路、すべての事象があらゆる言語を包摂した分類をうける場所、しかも、言葉と事物の記憶は無限に拡がって相互に入り組んだ襞をつくり無数の迷路として延びている... そのような、サイバースペースの「バベル問題」を考えるうえで、20世紀のテクスト宇宙の迷宮(ラビリンス)の奥に異形の光彩を放って控えている主は、まちがいなく<ボルヘス>である。このバベルの図書館の盲目の館長の頭脳の襞のなかにはあらゆる図書の記憶が折り畳まれて迷路をつくり、そのテクスト空間の迷路を世界規模にまで拡げて過激に夢みえた作家は他に例をみないのだ。

 そのボルヘスのハイパーテクストの迷宮のなかでも、わたしたちが今回アクセスしてみたいのは、『異端審問』中の「ジョン・ヴィルキンズの分析言語」(以下、中村健二訳、晶文社刊より引用)というエッセイが照らしだしているテクストの回廊である。この回廊は、<普遍言語>、<人工言語>、<百科事典>、<カテゴリー分類>、<神の計画>といった、以上に述べた問題系へとその影をのばしているからだ。

 ファルツ選帝候の私設牧師、オックスフォード大学某学寮の学寮長、英国王立協会の初代事務局長ジョン・ウィルキンズ。『大英百科百科事典』から記述が削除され、アルゼンチン国立図書館にもその本を欠いたウィルキンズの記述を、ボルヘスがかれ自身の一種の“反-百科事典的”エッセイにおいて復元しようとするのは、1668年に発表された『即物的記号ならびに哲学的言語にむけての試論』に述べられた、人工的な普遍言語の創造の計画について考察するためである。

 ウンベルト・エーコも近著の『完全言語の探求』(上村忠男・廣石正和訳、平凡社刊)で、ウィルキンズの「普遍言語」の計画を再検討しているが、ボルヘスとエーコの記述を総合するならば、ジョン・ウィルキンズのプロジェクトの発想の中核にあるのは、<カテゴリー分類>と<人工言語>とを対応させることにより、<コトバ>が同時に<万有百科事典>でもあるような「哲学的言語」を創出しようとする試みである。ウィルキンズは、宇宙のすべての事物を4つの「類」に分類し、さらにそれを251の「種差」に下位区分し、さらにそれから2030個の「種」を派生させるという方法で、万物を<分類>していく。そして、かれの考案した人工言語には、これらのカテゴリー分類にたいして、記号を割り振り、分節してゆくという役割が与えられる。「類」には二文字の単音分節が充てられ、「種差」には子音、「種」には母音が充てられる。「de」は四大元素を、「deb」は四大元素の第一の種差「火」、「deba」は第一の種「炎」といったぐあいに...。こうすれば、すべての事物は、発音あるいは記されると同時に、宇宙の百科事典のなかに自動的に位置づくことになる。<百科事典すなわちコトバ>という「普遍言語」が創造されるのである。この普遍言語のなかでは、いかなる恣意性もありえない。

 恣意性が紛れこむとすれば、それは、むしろウィルキンズが行ったカテゴリー分類の原理そのものにあることを、ボルヘスは指摘している。例えば、第8類の「石」は、「普通(燧石、砂磔、粘板岩)、中間(大理石、琥珀、珊瑚)、貴重(真珠、蛋白石(オパール)、透明(紫水晶、青玉(サファイア)、不溶(石炭、粘土、砒石)」と分類される。第九類の「金属」も、「未完(辰砂、水銀)、人造(青銅、真鍮)、廃物(鑢屑、銹)、天然(金、錫、銅)」というカテゴリー化をうける。「鯨」は「長方形の胎生魚」だと、分析的に普遍言語のなかでは位置づけられている。

 ところが、このウィルキンズのカテゴリー分類に見られる「曖昧・重複・欠点」の検討において、とつぜん、ボルヘスは『善知の天楼』という中国の百科事典の例を引き合いに出してみせる。その中国の百科事典では、「動物」は、次のように分類されているというのだ---

(a) 皇帝に帰属するもの、(b) 剥製にされたもの、(c) 飼い慣らされたもの、(d) 幼豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) 野良犬、(h) この分類に含まれるもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 無数のもの、(k) 立派な駱駝の刷子をひきずっているもの、(l) その他のもの、(m) 壷を割ったばかりのもの、(n) 遠くから見ると蝿に似ているもの。

なぜ、ボルヘスの引く中国の事典にアルファベットで項目が立てられているかは分からないし、『善知の天楼』なる書物についてはその実在をふくめて不詳である。出典は、「フランツ・クーン博士の指摘」と書かれているが、中国の百科事典の消息は、ボルヘスのバベルの図書館の迷路の闇に閉ざされたままである。読者は、ウィルキンズの分類に似たカテゴリー分類の不備の例として、この中国の百科事典についての言及の前を、何気ない記述を通り過ぎてしまいそうだが、じつは、この箇所には<ボルヘス的な罠>が仕組まれている。それについては、後述する。

 ウィルキンズの「分析言語」に対するボルヘスの評価はむしろ高く、カテゴリー分類の混乱にこそ恣意性の原因がはあるが、その理由は、「われわれが宇宙が何であるかを知らないから」であり、「われわれは宇宙を創造した神の計画を測り知ることができないからだ」と述べている。そして、「分析言語」の計画については、「しかし、だからといって人間によって試みられた一連の計画について諦める必要はないし、われわれはそれらが暫定的なものであることを弁えている。ウィルキンズの分析言語は、こうした計画のなかで少なからず賞賛に値するものである。なるほど、それは相互に矛盾した曖昧な類と種とからなっている。しかし、項目と下位項目を示すために文字を使うやり方は、疑いもなく巧妙な趣向である。」と結論づけている。

 同じウィルキンズの普遍言語の計画を論じたウンベルト・エーコも、やはり同じように、カテゴリー分類の不完全を指摘している。ところが、エーコの方は、ウィルキンズの「分類」の欠陥をより積極的に理解しようとしている。「この体系の欠陥が、ある可能性を指示していたとしたらどうだろう」とかれはいう。それは、「分類」というより、むしろ、ひとつの「ハイパー・テクストを構築しようとしたのだ」というのである。つまり、これは、カテゴリー分類というよりは、様々な関連指示をとおした多様な節点に結びつけた「情報の目録」への無限の送付であるというのだ。例えば、「<犬>を基点にして、哺乳類の一般的な分類を指示し、猫、牛、狼をふくむ類名(taxa)の系統樹のなかに犬を組みいれるようなハイパーテクストを考えてみることができる。しかし、その同じ節点からは、犬のもろもろの特性、あるいはそれのもろもろの習性についての情報の目録へと送付されることもできる。また、他の連結系統を選択すると、さまざまな時代における犬(新石器時代の犬、封建時代の犬...)のさまざまな役割の一覧や、美術史における犬の図像のリストにアクセスすることができる。」ウィルキンズが考えたようなリンクは、まさに、カテゴリーの系統樹というよりは、次々とそのつどその連結の原理を変えて行くハイパーテクストによるクモの巣状のテクスト組織だというのである。

 人工言語の記号列により連結されて、<コトバ>は、無数のリンクの可能性へと連鎖を拡げてゆく。しかも、その拡がりには、まさに<迷路>のように性格を変えていく、そのような<コトバ>の無限の関係付けの連鎖へと、人工言語のつくるハイパー・リンクは、<コトバとモノの関係づけ>を運んで行くことになることになった。そのようなハイパーテクストの<WWW>を、ボルヘスは、「神の計画」の代補として、ただ静かに肯定しているかようにも見えるのだ。ただし、あの謎の「中国の百科事典」の一頁の引用を除くならば...


3. 「中国百科」の<ヘテロトピア>

しかし、あの「中国の百科事典」はいったい何だったのか。まさしく、そのボルヘスの一頁を前にして沸き起こる哄笑、そのなかからこそ、『言葉と物』は生まれたのだ、とフーコーは宣言する。フーコーは、この分類目録(タクシノミア)の眩暈において示されているのは、われわれ(「西洋の」という意味だが)の思考の限界、このような分類にしたがってすべてを思考することの不可能性なのだという。「人魚」にせよ、「狂ったように震えているもの」にせよ、中国百科の分類のそれぞれの項目については、たしかに、考えることができる。しかし、それら全ての項をともに思考することの不可能性に私たちは直面させられるのだというのである。ウィルキンズの分析言語が思考可能なあらゆるモノすべてのリストであろうとしていたとすれば、「中国の百科事典」が示している怪物性は、それら全てのモノを同じ<表>のなかで考えることをゆるす「共通の場」そのものの不可能性、お互いにどのように結ばれているのかを思考することをゆるす<同一性>の場の崩壊の事態なのだ。フーコーは、ここに出現しているのは、思考の秩序立てを不可能にする不等質な場、異なるモノがひとつの土台を共有せずに混在する<異質性の場>としての<ヘテロトピア>なのだというのである。やや長くなるが肝要な箇所なので引用する---
 
 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、<唐突なもの>や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生まれたためだったろう。それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もない<混在的なもの(エテロクリット)>の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか。<混在的なもの>という語を使ったが、この場合、それを語源にもっとも近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで物は、じつに多様な座に「よこたえられ」「おかれ」「配置され」ているので、それらの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある<共通の場所>を規定することも、ひとしく不可能だという意味である。<非在場(ユートピア)>というものは人を慰めてくれる。つまり、それは実在の場所をもたぬとしても、ともかくも不思議な均質の空間に開花するからである。たとえそれに近づいていくということが幻想にすぎぬとしても、それはひろびろとした並木路のある街、植え込みのある庭園、安楽な国々をひらいてくれる。だが、<異質性の場(ヘテロトピア)>は不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに、言語を堀崩し、これ<と>あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法(シンタクス)」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではない --語と物とを「ともにささえる」(ならべ向きあわせる)、より顕在的ではない統辞法をも含んでいる。だから非在場(ユートピア)は、物語や言説(ディスクール)を可能にし、言語の正当な線上、<ファブラ>の基本的次元にあることとなろう。他方、<異質性の場(ヘテロトピア)>は(しばしばボルヘスに見られるように)ことばを枯渇させ、語を語のうえにとどまらせ、文法のいかなる可能性にたいしても根源から異議を申し立てる。こうして神話を解体し、文の叙情を不毛のものとするわけである。
    佐々木高明・渡辺一民訳 新潮社刊 16頁

 言葉と物をともにささえる<同一性の場>、物に秩序をつける言説(ディスクール)の秩序の歴史的編成、発話可能性の規則性の体系を、<表象の体制>から<人間のフィギュールを中心にもつ配置>への転換において論じたのが『言葉と物』だったとすれば、ボルヘスの<ヘテロトピア>は、そのような<秩序>の外部、言葉と物の秩序の<零度>、思考の不可能性の<異場>を指さすことによって、フーコーの知の考古学そのものを可能にしたというのである。


4. <ハイパー・フーコー>

フーコーに『言葉と物』を書かせた<ヘテロトピア>を、今日のハイパーテクスト空間の問題系にフィードバックすると見えてくるのはどのような構図だろうか。WWW時代の<言葉と物>はどのような配置を生みだそうとしているのだろうか。

 理論上は、コンピューターの記号言語は、<0>と<1>という二つの記号の組み合わせで、あらゆる<カテゴリー>を弁別する完全に有意的な<普遍言語>の体系と、それにもとづく<百科事典>をつくることができる。ハイパーテクスト空間において、ウィルキンズの分析言語は完全に成立しうるのである。しかし、そのときに、次々とつくりだされる分類の体系は、お互いに異質な秩序にもとづいてリンクしてゆき、お互いに異質な<分類>の宇宙は拡大し、関係性のクモの巣は錯綜し複雑化してゆく。ウィルキンズのようなカテゴリー分類の「曖昧・重複・欠点」はむしろ増大する傾向にあるのだ。

 このような状況は、それぞれの<テクスト>が、均質でグローバルな全体的ディスクールの<共通の場>をえることによって、無数のテクストが相互に共存しつつ参照しあう、テクストの巨大な<ユートピア>が、世界的規模で実現するという<予定調和>を約束するのだろうか。そのようにして、インターネットは、新しい<神の宇宙> --つまり、言葉と物の普遍的な秩序-- となるのであろうか。例えば、人々があらゆる種類の<情報>に自由にアクセスすることが可能になり、あらゆる普遍的な価値(例えば、「人権」のような)の均質な体系を共有し、民主主義の物語や言説を前進させ、「ひとびろとした並木路の街、植え込みのある庭園、安楽な国々」をひらくことができると考えるなら、それは、まぎれもなく、あの「百科全書」の<啓蒙のユートピア>がいま実現しかけているのだと考えられるわけであるが...

 しかし、フーコーが読み解いているボルヘスの一頁が私たちに指し示しているのはそのような<ユートピア>ではないのだ。

 ハイパーテクストというあらたな<超分類>の出現は、ハイパーテクストとハイパーテクストとのあいだに、そのような予定調和的な連結だけでなく、「思考不可能性」のリンク、あの「中国の百科事典」の不可能な分類を繰り広げていく可能性をつねに秘めている。拡大しつづけるハイパーテクストの宇宙には、あるとき、ブラック・ホールのようにこのような<ヘテロトピア>がしのびより、そのとき、バベル的な企てとして拡大しつづけるコンピューターの世界言語は、ある本源的な<失語>に見舞われることになるのではないか。それはもはや、<中国>という他者の名を冠せられることもないし、私たちの文化の失語するスキゾフレニックな異場として、とつぜん、わたしたちの世界の意味空間に空隙を穿ち全てを停止させるのかもしれない。それは、光をけっして発することのない宇宙の闇、あらゆるコトバと記号の可能性の条件にして不可能性の潜勢として潜み、夢さえもが侵入していくことができない「コトバの不可能性のなかにのみある場所」(フーコー)として立ち現れてくるかもしれないのである。<ハイパー・フーコー>が予示するのは、むしろ、<コトバ>と<モノ>の秩序が途切れるそのような場所、世界のシンタクスが凍てつく<神の秩序の零度>なのかもしれないのだ。

 そのようなゼロ地帯にたって、世界化の秩序から自らを<差し引こう>とする<詩>のコトバも、<文学>も、そして、<詩学>も、近未来の宇宙の危険な闇の近接地帯を航行することになるのかもしれない...