2016年8月11日木曜日

「座談会 デジタル・スタディーズへの道」(後編)

石田英敬×マーク・スタインバーグ×中路武士×吉見俊哉『UPNo.525 July 2016東京大学出版会, pp. 1-13

東京大学出版会『UP』7月号の座談会を再掲します。


 (以下の文章は『デジタル・スタディーズ』シリーズ刊行のことばです。)

 インターネット、モバイル・メディアからウェアラブル端末、ICタグまで、SNS、ブログから、動画サイト、デジタル・アーカイブ、電子図書館まで。二一世紀の人類文明は、時間と空間、行為と場所、ヒトとモノ、感性と心理、思考と判断のあらゆる次元においてデジタル・テクノロジーに媒介されて成り立つようになった。

  ルネッサンス以降の近代において、〈知〉は活字をベースとした人文知(ヒューマニティーズ)として成立してきた。そして、一九世紀後半以降、人類文化は二つの大きなメディア革命を経験した。アナログ革命とデジタル革命である。二〇世紀のメディア研究はアナログ革命を契機として生まれ、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に述べられたように、活字メディアに基礎づけられた近代以降の知を問い直す役割を担った。
  
  そして、二〇世紀後半のコンピュータの発達によるデジタル革命は知をこれまでとは別の形で問い直す認識論的衝迫をもたらしている。今日では世界のあらゆる情報がデジタル化されるにともなって、人文知も再定義へと向かい、世界の大学・研究機関では、いわゆるデジタル・ヒューマニティーズの動きが盛んである。

そこで、そうした世界的な動向を踏まえ、本シリーズ「デジタル・スタディーズ」は、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象とすると同時に、デジタル技術を認識の道具とすることで、知の成り立ちを根本的に問い直し、その枠組みの組み替えをめざす「デジタル転回」による、新しい知のパラダイムを見いだそうとするものである。

 東京大学大学院情報学環では二〇〇七年に、メディア哲学のフリードリヒ・キットラー、映画批評の蓮實重彦、脳神経美学のバーバラ・マリア・スタフォード、技術哲学のベルナール・スティグレール、ニューメディア哲学のマーク・ハンセン、ポストヒューマン研究のN・キャサリン・ヘイルズ、メディア・アーティストの藤幡正樹らメディア・スタディーズの代表的な理論家たちを集めて大規模な国際シンポジウム「ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成(Ubiquitous Media Asian Transformation)」を開催した。
  この会議を契機に、東京やパリ、ロンドンなど欧米各地から集った研究者から、その後、デジタル・ヒューマニティーズの理論と実践を革新する動きが起こってきた。これらの動きは、ニューメディアの哲学、ポストヒューマン研究、ソフトウェア・スタディーズ、デジタル・カルチャー研究といった多様な呼称のもとに先進的な研究動向として国際的に繰り広げられている。さらに、スティグレール、石田英敬らは国際的に研究連携することで、新たな知のネットワークを形成するにいたっている。
  本シリーズでは、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象にしつつ、過去八年におよぶこのような国際的な研究協働の成果の体系化を試みる。そして、これらの研究をここでは、〈デジタル・スタディーズ〉と呼び、メディア研究から出発したデジタル・ヒューマニティーズの理論と方法を提示することをめざす。

 メディア批判の哲学的基礎とは何か、情報コミュニケーションテクノロジーと人文科学との界面とは何か、社会と文化の知のデジタルな書き換えはどのように行いうるのか、アジアという文明からの問いはメディアに関してどのように立てられるのか、私たちの世界の遍在化するメディア環境はどのような文化的社会的実践を可能にするのか。


二〇世紀のメディア哲学、メディア批判、表象美学、映像論、記号論、メディア社会学、文化研究、都市建築研究など複数領域の系譜を〈知のデジタル転回〉の文脈で受けとめ、その先端的な知を結集し、デジタル・テクノロジーの遍在する時代における、混成的だが根源的なメディア・スタディーズの新たな方向性を提示し、新しい知のパラダイムを展望する。


  二〇一五年六月

          シリーズ編者 石田英敬/吉見俊哉/マイク・フェザーストーン

 





























2016年7月25日月曜日

「座談会 デジタル・スタディーズへの道」(前編)『UP』No.524 June 2016東京大学出版会


「座談会 デジタル・スタディーズへの道」(前編)

石田英敬×マーク・スタインバーグ×中路武士×吉見俊哉『UPNo.524 June 2016東京大学出版会, pp. 1-12

東京大学出版会『UP』6月号の座談会を再掲します。後編「座談会 デジタル・スタディーズからの道」(『UP』7月号)は来月以降再掲します。


 (以下の文章は『デジタル・スタディーズ』シリーズ刊行のことばです。)

インターネット、モバイル・メディアからウェアラブル端末、ICタグまで、SNS、ブログから、動画サイト、デジタル・アーカイブ、電子図書館まで。二一世紀の人類文明は、時間と空間、行為と場所、ヒトとモノ、感性と心理、思考と判断のあらゆる次元においてデジタル・テクノロジーに媒介されて成り立つようになった。
 ルネッサンス以降の近代において、〈知〉は活字をベースとした人文知(ヒューマニティーズ)として成立してきた。そして、一九世紀後半以降、人類文化は二つの大きなメディア革命を経験した。アナログ革命とデジタル革命である。二〇世紀のメディア研究はアナログ革命を契機として生まれ、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に述べられたように、活字メディアに基礎づけられた近代以降の知を問い直す役割を担った。
 そして、二〇世紀後半のコンピュータの発達によるデジタル革命は知をこれまでとは別の形で問い直す認識論的衝迫をもたらしている。今日では世界のあらゆる情報がデジタル化されるにともなって、人文知も再定義へと向かい、世界の大学・研究機関では、いわゆるデジタル・ヒューマニティーズの動きが盛んである。
そこで、そうした世界的な動向を踏まえ、本シリーズ「デジタル・スタディーズ」は、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象とすると同時に、デジタル技術を認識の道具とすることで、知の成り立ちを根本的に問い直し、その枠組みの組み替えをめざす「デジタル転回」による、新しい知のパラダイムを見いだそうとするものである。
 
東京大学大学院情報学環では二〇〇七年に、メディア哲学のフリードリヒ・キットラー、映画批評の蓮實重彦、脳神経美学のバーバラ・マリア・スタフォード、技術哲学のベルナール・スティグレール、ニューメディア哲学のマーク・ハンセン、ポストヒューマン研究のN・キャサリン・ヘイルズ、メディア・アーティストの藤幡正樹らメディア・スタディーズの代表的な理論家たちを集めて大規模な国際シンポジウム「ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成(Ubiquitous Media Asian Transformation)」を開催した。この会議を契機に、東京やパリ、ロンドンなど欧米各地から集った研究者から、その後、デジタル・ヒューマニティーズの理論と実践を革新する動きが起こってきた。これらの動きは、ニューメディアの哲学、ポストヒューマン研究、ソフトウェア・スタディーズ、デジタル・カルチャー研究といった多様な呼称のもとに先進的な研究動向として国際的に繰り広げられている。さらに、スティグレール、石田英敬らは国際的に研究連携することで、新たな知のネットワークを形成するにいたっている。
 本シリーズでは、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象にしつつ、過去八年におよぶこのような国際的な研究協働の成果の体系化を試みる。そして、これらの研究をここでは、〈デジタル・スタディーズ〉と呼び、メディア研究から出発したデジタル・ヒューマニティーズの理論と方法を提示することをめざす。
メディア批判の哲学的基礎とは何か、情報コミュニケーションテクノロジーと人文科学との界面とは何か、社会と文化の知のデジタルな書き換えはどのように行いうるのか、アジアという文明からの問いはメディアに関してどのように立てられるのか、私たちの世界の遍在化するメディア環境はどのような文化的社会的実践を可能にするのか。
 二〇世紀のメディア哲学、メディア批判、表象美学、映像論、記号論、メディア社会学、文化研究、都市建築研究など複数領域の系譜を〈知のデジタル転回〉の文脈で受けとめ、その先端的な知を結集し、デジタル・テクノロジーの遍在する時代における、混成的だが根源的なメディア・スタディーズの新たな方向性を提示し、新しい知のパラダイムを展望する。


二〇一五年六月
シリーズ編者 石田英敬/吉見俊哉/マイク・フェザーストーン











2016年7月14日木曜日

「俺たちはできる!」2016.0714


 7.10参議院選挙の結果は、この国の立憲民主主義を守ろうとする人びとをついに正念場に立たせることになった。これからは、安倍自民党によって、さまざまなやり方で、改憲への策動が加速されていくだろう。私たちはそれに備えるのでなければならない。
 憲法改正が徹底的に争点から隠され、参議院選挙そのものについてさえ報道が極端に少ないなか、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(以下「市民連合」)が全国各地の市民の動きと連携しつつ実現した、全国32の1人区における野党統一・市民連合推薦候補のうち11名が当選を果たした。福島と沖縄という重要な選挙区において安倍政権の現職大臣2名を落選させた。これは野党共闘という新しい取り組みが一定の成果を上げたものといえる。さらにこれまで保守基盤の強かった一人区においても、当選まではいたらないまでも、善戦をはたした選挙区も少なくなかった。3年前の参議院選挙では、野党候補が当時31あった1人区でわずか2議席しか獲得できなかったことと比較すると明らかだ。また複数区や比例区においても、広汎な市民が自ら選挙に参加し、野党候補を押し上げ、一人区も含めて3年前の参議院選挙(野党4党で28名)と比較して一定の前進(野党4党で43名)を成し遂げた。
 「まず三分の二を取らせない」という目標はわずかに達成できなかったが、しかし、これからのこの国の政治の展開は、必ずしも、安倍自民党に有利というわけではない。
 「アベノミクス」がすでに崩壊していることは、すでに常識である。経済界をふくめて、多少とも日本経済の実態に知識をもつ者であれば、政権の金融・経済政策が壊滅的な局面に向かっていることを知らぬものはない。戦況が悪化して敗北を重ねているにもかかわらず、事実を覆い隠し戦況は好転していると強弁し続けた「大本営発表」とまったく同じことが、戦前と同じイデオロギーの持ち主たちにより繰り返されている。その現実が人びとに知れるより前に、「経済」を争点と偽って選挙キャンペーンをおこない、「改憲」策動を隠し、一定の支持のとりつけに成功したかに見えるのが今回の結果である。
 しかし、これからはアベノミクスの金融経済政策の破綻が明らかになっていく。矛盾が噴出して、人びとの経済社会生活が圧迫されていく。社会に不安や不満が拡がっていくことになる。私たちは今後近いうちに拡がっていくこの困難な状況に備えていく必要がある 。
 
 市民社会は再生と新しい原動力への芽を育てつつある。
 一年前と比較してみよう。
 一年前の春ようやく国会前に集まり始めた人びと。若者たち。そこから、安保法制に反対する巨大なうねりが拡がっていった。SEALDsを初めとする若者たちによる直接行動の文化の革新が起こった。人びとが普通にデモに出る社会が拡がっていった。何十年ぶりかの直接民主主義の文化の更新が起こったわけである。それは、グローバル化する世界のネオリベラルな秩序に対抗する、台湾「ひまわり学生運動」や香港「雨傘革命」やヨーロッパの「ポデモス」や「ニュイ・ドゥブー」やアメリカのサンダース現象などと呼応する民主主義の更新の新しい動きが、日本でも確実に拡がっていることを示した。
 今回の参議院選挙では、「市民連合」がアクターとなって、一人区の「野党統一候補」が実現したことも、市民社会の力が確実に育ってきていることを表している。そして繰り返すが、11の選挙区で野党候補を勝利させることに貢献した。
 東京地方区では、「俺たちはできる! Podemos!」と「選挙フェス」というイベントを定着させた「三宅洋平」が25万票を獲得した。まだ議席には届かなかったが、フェスには毎回数千から1万という多くの人びとが集まった。三宅候補の演説の言葉の力、「ベーシックインカム」、ピケティのいう「富裕税」をアジェンダ化しようという主張は、これまでにこの国では明らかに主張されてこなかった政治的な意見が拡がっていくことを予見させる。世界の政治潮流を見れば、そうした主張は一定の説得力をもって人びとに支持されつつある。その面でも、我が国の市民活動の政治文化の更新を確認することができた。

  だから、したがって、政治状況は決して後退局面にあるというわけではない。
いま新しい政治の革新の動きが、確実に拡がりつつある。
 このままファシズムに押し流されるのか、新たな力を付けつつある市民社会の動きが、民主主義の再生をもたらすのか。
 これからが立憲民主主義の未来にとって、真の正念場である。

2016.7.14 石田英敬

2016年7月3日日曜日

(再掲)「雄弁」は復権するか:なぜ三宅洋平は「民主主義」の「ど真ん中」の候補なのか?

(以下は、「雄弁は復権するか」『世界と議会』、尾崎行雄記念財団、2008年12月号、pp.9-14からの再掲です。いまから8年前、第一オバマ政権成立にいたる「オバマ現象」を解説した文章です。この旧い文章を再掲することを思い立ったのは、現在の参議院選挙での「三宅洋平」現象を考えてみる材料が、ここにまだあると考えるからです。)

参議委員議員選挙の公式「政見放送」のなんとも凍り付いた枠組み(経歴30秒、政見5分30秒)と、三宅洋平の選挙フェスでの45分の「演説」をYoutube動画を比べてみましょう。あるいは選挙街宣カーで候補名やキャッチを連呼する「サウンドバイト」と、「選挙フェス」での三宅洋平の圧倒的な「雄弁」を比べてみましょう。

いま拡がりつつある「三宅洋平」現象が、「民主主義」の復権をめざす「ど真ん中」の現象であることが分かります。「SEALDs革命」が「ど真ん中の民主革命」であったのと同じように、いまこの国には「希望」が拡がりつつある!



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「雄弁」は復権するか
—アメリカ大統領選挙にみるメディアと政治—

政治から、「雄弁」の価値の衰退が指摘されて久しい。とくに、わが国の政治においては、「演説」や「討論」を通した「言論による政治」が後退している、「政治の言葉」の力が落ちている、との感をぬぐえないのは、私だけであろうか。
 この現状には、政治とメディアとの関係が影響している。「政治の言葉」が、テレビに代表されるような、現代のメディアとの関係で大きく変化してきたからだ。テレビを中心としたメディアによって世論の動向が大きく左右される。行政権力はメディア広報に力をつくし、「個人化」した統治を演出することに力をつくし、メディアをとおして直接人びとから支持を集めようとする。他方、ややもすると「言論の府」である「議会」が、世論形成の過程において、ショートカットされ、日々行われる「世論調査」が「議会」をバイパスしてしまう。「代議制民主主義」の空洞化が指摘されて久しい。
 政治が議会のなかだけでなく、マスメディアを通じて広く国民の間に関心を集め、世の中に議論が共有され深められるとすれば、それ自体は決して悪いことではない。
 しかし、テレビ番組における「政治討論」のあり方も変質し、ワイドショー番組やバラエティー番組が、政治のアジェンダに影響を与えるようになってきている。
  とくに、小泉内閣時代に「劇場型政治」と呼ばれたメディア露出型の政治のやり方が、わが国においても一般化した。「サウンド・バイト」や「ワンフレーズ・ポリティック」と呼ばれる、「キャッチー」な言葉づかいがもてはやされ、「政治マーケティング」の技術を駆使して、まるでテレビ・コマーシャルで化粧品を売るような政治キャンペーンが行われるようにさえなった。「美しい国」などというキャンペーンが行われていたのはついこの間のことだ。そして、挙げ句の果てに、わが国では、「政治の根本」の「崩壊状態」にまで至ってしまっているように思われてならない。
 しかし、メディアは必ずしも政治を堕落させるわけではない。演説、弁論や討論は、それ自体が言葉や文章によるメディアをとおした説得の活動である。メディアを正しく使うことによって、政治もまた賦活する可能性が出てくるのである。
 そのような例を、最近行われたアメリカ大統領選挙におけるバラク・オバマ候補のメディア戦略に見て取ることができる。本稿では、この事例に取材して、メディアと政治との新しい関係を考えてみることにしよう。

アメリカ大統領選挙とメディア政治

アメリカ大統領選挙は、合衆国にとってばかりでなく世界の民主主義国にとって、「壮大な民主主義の実験」という性格をもっている。「実験」であるというのは、資金においても、テクノロジーにおいても、競争のルールにおいても、およそあらゆる制約を取り払った、全面的な競争が繰り広げられることを意味している。じっさい、今回の民主党候補指名選挙から大統領選挙にいたる選挙戦をつうじて、オバマ陣営は、インターネットを駆使した草の根の献金によって、八億ドル以上を集め、潤沢な資金をもとに、大規模なメディア選挙を展開した。まさに資本主義と民主主義が一体化した国の選挙である。
 しかし、さらに注目すべきなのは、あらゆるメディア・テクノロジーの使用が可能である点である。資金が続く限りテレビ・コマーシャルを打つことができる。そして、ネガティヴ・キャンペーンも許されている。政治コミュニケーションや政治マーケティングのノウハウが駆使されて、メディア戦略が戦わされる。
 4年ごとにおこなわれるこの壮大なメディア政治の実験のもたらす効果はアメリカにむろんとどまらない。そこから様々なメディア政治のノウハウが引き出され、それ以後の世界の政治における政治とメディアあり方を決定していくことになる。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。爾来、テレビが人びとの暮らしを全面的に覆うにつけ、政治的説得は、つねにテレビを主たる出口として立案され、それに合わせて、選挙戦略が決定されるように進化してきたのである。しかも、テレビのジャーナリズムは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンド・バイト」全盛の時代を迎える。
 統計によれば、1968年の大統領選では、アメリカテレビのニュースショー番組での候補者の「サウンド・バイト(短い発言)」の平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少、1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ(以下の記述は、”Welcome to the age of the sound blast” by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008による)。2004年にはわずかに改善して10・3秒となったが、現在にいたるまで大統領選挙キャンペーンをはじめとした現代政治はこうした時間短縮の現象に適応すべく、政治のメッセージづくりにいとまがない。テレビこそ何百万もの人びとにリアルタイムでメッセージをとどける唯一の道なのだから、テレビを活用しようとすれば、巨額の広告費を払って30秒単位でコマーシャル・タイムを買い取るか、人びとの記憶に残るような気の利いた短いフレーズを多用して電波にのせる以外にない。自分の政策の「ウリ」を的確に短い言葉で表現し、ライバルの弱点をシンプルに突く、失言やディテールにわたる長いおしゃべりは可能なかぎり避けるのが鉄則である。「サウンド・バイト」とは、そうした政治コミュニケーションのテクニックであるとされてきた。

「ユーチューブ選挙」の意味

しかし、今回の大統領選、とりわけオバマ陣営のメディア戦略をみると、政治コミュニケーションのあり方が大きく変化している。
 報道などでは、「ユーチューブ(YouTube)選挙」という言い方がされたが、オバマ陣営の勝利の原動力は、IT(情報技術)を駆使した「メディア政治の革命」にある。
 もともと市民社会運動出身のオバマは、現在急速に発達しつつある携帯電話やi-Podなどの情報端末網を活用して、グラスルーツ(草の根)の人びとをオーガナイズしてゆくことに成功した。毛細管状のネットワークが、あらゆる地域に社会に張り巡らされ、そこを通してリアルタイムで情報が流れ、膨大な数の小口の献金がサイトに集められる。ITが可能にした「草の根ネットワーク」なのである。
 オバマ陣営は、演説やテレビ討論などの模様を、巨大動画投稿サイトであるYouTubeにアップする。こうした動画サイトは四年前には存在していなかった。それと組み合わせるかたちで、オバマ氏の演説は自陣営サイト「バラク・オバマ・コム」(http://www.barackobama.com)に全文掲載する。テレビで報道された内容を確認することができる、上位の場がネット上に設けられたのである。こうすることで、論敵と論争になったときにも、「わたしが何を言ったのか(文字情報をふくめてすべてを)確認してください」と反論できる。ネットを活用することで、テレビを「メタ」な場所から相対化しうる、言論と説得の新しい場所が設定されたのである。

「演説」と「雄弁」の復権

この結果生じたのが、「演説」と「雄弁」という最もオーソドックスな政治コミュニケーションの復権であったことはまことに興味深い。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、その情報を拡げるように支持者たちに呼びかける。
 すでに予備選が行われていた6月の時点での数字だが(以下は、The Politicoの前掲記事による)、オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13・3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 この時点で民主党予備選の対抗馬であった、ヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示していた。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンド・バイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 このように、政治的説得のプラットフォームが、テレビを最終的な出口としたものではなく、それを相対化するメディアが登場したことが今回の特徴である。そのことによって、長い演説を視聴して人びとが政治的判断を下すということが、新たなメディア条件において視野に入ってきたのである。この事実をいち早く分析して見せた、新手の政治専門サイトThe Politicoの記事は、「サウンド・バイトからサウンド・ブラスト[「音の爆風」の意:息の長い、奥行きのある、多くの言葉を費やした説得:石田註]へ」ととらえ、「サウンド・バイトの時代はまだ死んでいないが、サウンド・ブラストの時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」と結んでいる。
 じっさい、今回の大統領選挙をとおしてオバマは幾つもの記憶に残る演説を残した。そして、多くの人びとに、J・F・ケネディやマルティン・ルーサー・キング牧師といった指導者の名演説を思い起こさせることになった。政治における演説と雄弁の価値が再び注目を浴びるようになったといえる。「弁論の力」、「言葉による説得の力」が、歴史的に回帰してきたとみることができるのである。

メディア政治の新しい段階

オバマのメディア戦略の実行で、「メディアと政治の関係」はこれまでとは異なる新しいステージに移行したといえるだろう。ある種の「革命」とさえいえるように私には見える。すべてがテレビを最終的ターゲットとして立案されていたテレビ政治の前提が過去のものになりつつある。ネットという情報環境の登場によって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる新しい「言論の政治空間」の胎動が見られるのである。
 それは必ずしもテレビ政治の終わりを意味しない。じっさい、オバマ陣営は、選挙戦の最終局面の10月29日、全米のテレビ主要ネットワークのゴールデンタイム枠三十分を豊富な資金力で買い取り、「アメリカの物語・アメリカの解決策 (American Stories, American Solutions) 」という「インフォマーシャル(情報広告番組)」を放送し、勝利を決定づけた。
 この番組は、キャスターもナレーションも、すべてオバマ自身が行い、ドキュメンタリに似た映像と証言による説得が行われる、非常に完成度の高いものだった。自分自身で、全米各地の複数の実在の家族やカップルの生活苦をリポートしながら、アメリカの中産階級が直面する問題と自己の政策や施策をかみ合わせていく構成となっている。
 オバマは、テレビにおける話し方、説得の仕方、表現のさまざまなテクニックなど、テレビ・コミュニケーションを完全にコントロールする能力をそなえた政治家である。
 これまでの政治家には、テレビとの「段差」が前提とされていた。そのギャップを前提とした上で、「政治とテレビ」の関係ができていた。政治家がテレビの物言いにどれだけ適応できるか、「適応型」のアプローチがこれまでの「テレビ政治」だった。テレビのほうがいわば政治の上位にあったのである。 
 オバマは、テレビの力を「利用」するのではなくて、テレビを完全に「使いこなし」ている。それは、彼がテレビ化した世界に生まれた世代の子であるという理由のほかに、以上述べたような、テレビのさらに上位にある新しい技術が生まれ、テレビを相対化してむしろ自由に使いこなす時代がやってきたことを意味している。映像を、言葉と同じように、言論のための「説得と検証の道具」として使いこなす時代がやってきたのである。
 

言論の「新しい時代」のために

「メディア政治」というと、宣伝やプロパガンダ、広告や広報、イメージ戦略といった言葉が思い浮かぶ。こうした連想を人びとがもつことには歴史的理由がある。二十世紀以降の大衆メディアの発達は、そのメディア技術が人びとに及ぼす「影響力」、一挙に人びとに働きかける「伝播力」、機械による視聴経験の「自動性」によって、「メディア政治」を「大衆操作技術」として位置づけさせるものだった。
 「メディア政治」とは、影響力が大きいが、ともすれば、政治の基本にとっては、人びとの判断力、自律した理性の行使を脅かす要因として、政治的「劇薬」としての位置づけられてきたといえるだろう。
 しかし、ここにその一端を紹介した、現代民主主義の実験は、あくまでまだ萌芽的な状態にあるとしても、政治がメディアを統御するとは何かを示唆しているのではないだろうか。
 確実に始まっている、活字、テレビ、ネットという政治空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化の実例を見ると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではないと思えてくる。
「サウンド・バイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」での言論にしても、「サウンド・ブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。様々なメディア技術を自由に使いこなすことで、人びとは議会での議論を検証したり、コメントしたり、批判を加えることにより議論に加わることができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」が再び政治の中央に呼び戻される時代がやってくるかもしれないのである。







2016年6月9日木曜日

 北海道新聞「各自核論」2016.06.04

「新しい直接民主主義」



世界各地で新しい直接民主主義の動きが活発である。具体的にはデモや集会のことだが、先進国でも従来見られなかった現象が拡がりつつある。
 フランスでは3月から社会党政権が提出した労働法の改正案に反対する運動が拡がったが、そのなかから、Nuit Deboutと呼ばれる大規模な直接民主主義の運動が拡がった。「ニュイ・ドゥブー」と読むのだが、「夜、立ち上がれ!」というような意味である。
 労働法案に反対するデモをきっかけに、パリのレピュブリック広場に集まった人びとが始めた占拠運動である。ソーシャルメディアで結びつき、夜になると、性別も年齢も人種も職業も多様な群集が広場に集まってきて、政治、政策、社会の課題について多種多様な議論を繰り広げる。教育制度や仕事のあり方を討議したり、ここを拠点に、デモが組織されて、役所や問題企業に押しかける。広場では、コンサートが開かれたり、古本市があったり、デモ集会とお祭りの中間のような雰囲気につつまれる。
 運動のカレンダーは広場占拠が始まった3月31日から起算されていて、二ヶ月をへて、「3月90日(5月29日)日曜日」現在、まだ続いている。パリだけではなく、フランス各地60都市以上、さらにはヨーロッパ各国やカナダにまで拡がり、各地で「ニュイ・ドゥブー」が開催されている。
 きっかけが労働法案撤回ではあっても、明確な政治的要求のみを掲げているわけではない。もっと包括的で持続的なかたちで、政治のあり方そのものを問おうという志向が顕著なのである。
 占拠を永く続けるというと、バリケード封鎖や革命的蜂起といった暴力的な行動を想像しがちだが、極左やアナーキストのグループを除けばそのような志向はなさそうである。
 占拠された広場の自主管理のために、委員会、広報案内、医療介護、食事提供、清掃などのチームが整然と組織されている。ただし指導者はおかない。いろいろな団体や政党関係者も出入りしているが、あくまで個人がベースのフラットな運動である。
 全体会に議されるテーマは、社会経済政策、資本主義による破壊、環境エコロジー問題、フェミニズム、性的マイノリティー、移民問題など多様だが、ユニークな議事の進め方を採用している。身ぶり・手ぶりによる独特な「サイン言語」を使って、集会の参加者全体が、「賛成」、「反対」、「話が長すぎ」、「差別的発言だ」など、サインを送り合って審議して採決する。
 面白いテーマは、例えば、「くじ引き民主制」。古代ギリシャのポリスでは、議員はくじ引きによって選出されていた。現代では、くじ引き制度は、裁判の陪審員等に限定される傾向があるが、ギリシャ的な直接民主制に立ち戻ろうというのである。重要議題として議されているのは、「新憲法」を制定しようというものだ。これまた、近代民主主義の原点を想い起こさせる。
 この運動のこれからの行方はもちろん誰にも分からない。革命の記憶が刻まれた、パリならでは政治文化と都市の歴史に支えられてもいる。フランス的特色はあったとしても、同時に、世界的な動きであることにも注目したい。2011年5月にスペインで起こった「15M」運動や、同年9月にアメリカで起こった「ウォール街を占拠せよ(オキュパイ)」運動、2014年の台湾の「ひまわり学連運動」も引き合いに出される。
 これらはいずれも、現在のグローバル世界に立ちこめている閉塞を打ち破ろうとする政治表現の動きである。
 政党政治の劣化と政権交代への幻滅、格差の拡大やエリート支配に対する不満、グローバル資本主義に対抗する政治の軸が見えない閉塞感など、共通の背景をもっている。既存の政治が答えきれない、多様な社会課題の浮上を前にして、 代議制民主主義が機能しないならば、直接民主主義の原点にもどって、政治をつくり直そうという動きの表れである。そしてこの問題は、もちろん、我が国にも共通している。
 

2016年5月1日日曜日

日本経済新聞 2016.05.01 書評



カルチャロミクス;文化をビッグデータで計測する

エレツ エイデン (), ジャン=バティースト ミシェル (), 高安 美佐子 (その他), 阪本 芳久 (翻訳) 草思社 (2016/2/18)ISBN-10: 4794221878

「肉体は悲しい、ああ、私は全ての書物を読んだ」と詠じたのは、十九世紀の詩人マラルメだった。現在では、グーグルがデジタル化した全世界の書籍を、誰でも検索をかけられる状態に近づきつつある。ヒトが本を読み書きすることで成立してきた人文科学は、マシンが数千万冊の書物を高速で「読む」時代にまだ有効なのか。それともこれは、新しい人文科学の時代の始まりなのか。
 本書は、グーグルがデジタル化した、過去、数世紀分、数百万件の書籍から、各年に発行された本に使われている任意の単語・フレーズの使用頻度をグラフ表示する「グーグル・Nグラム・ビューワー」を開発した二人の若い研究者による問題提起の書である。大量の文献をビッグデータとして計測し、ヒトでは見えなかった社会や文化の動態を研究する新しい学問「カルチャロミクス」(文化解析)を提唱している。
 英語の不規則動詞burnの活用はいつからburnt ではなくburnedが多用され始めたのか。言語学者のものだった言語変化の研究が一新する。歴史上の人物はいつからどのように言及頻度が増えて「有名」になる傾向があるのか。検閲と文化との関係はどのように立証されるのか。大量の文献データを一挙に統計処理できるようになると、数理統計的な「文化の法則」に、歴史社会の動態が貫かれていることが分かり、「文化の物理学」も射程に入ってくる。カルチャロミクスは、その後、ニュースメディアやソーシャル・メディアの解析へと急速に拡がり、マーケティングや世論動向の把握、株価予測にも応用が試みられるようになってきた。
 本書が明かしているのは、図書館や歴史文献をめぐる基礎的な研究の取り組みから出発して応用的技術が可能になった経緯である。そもそも、スタンフォード大の図書館計画があって現在の巨大企業グーグルがある。ハーバードを舞台に、人文科学の基礎的研究から産業的応用へといたる展開が、着実にスピーディに組み上げられていくさまが鮮やかに描き出されている。
 他方、哀しいかな、データ不足で、グーグル・Nグラム・ビューアに日本語版はない。これでは、自国の歴史文化のCTスキャン画像が撮れない状態なのである。株価や市場予測に役に立つとなれば色めき立つが、学問の基礎的な部分から始めて、イノベーションを起こそうという発想がこの国にはない。文系学部や人文科学は要らないとか議論しているうちに、これでは世界から取り残されていくばかりだ。


2016年4月30日土曜日

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:
 on the interpretation of dreams in the digital age

Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo)





http://caa-ins.org/index.php?title=做梦的权利:数码时代中梦的解析讲座


1  "Dream" and "Power" in the digital age


 Today, I would like to talk about the Dream, the Right to dream.
Two weeks ago, I was in Kyoto with jurists in a symposium. I told about this right to dream, I do not know what status has exactly the right to dream in legal doctrine. But this right seems now threatened. Until now the dream was preserved as belonging to the personal and private sphere, but it might not be the case today or tomorrow.

Here I’m with you specialists and/or practitioners of esthetic fields. I think the dreaming is a central domain of artistic activity, as well at individual level  as at collective level, because artists are “specialists of dream”  or “dreamers” for the society. And it is so important to know what is the situation of the dreaming in the digital age, what is now a technology of dreaming, what stakes for artistic activities, what could we say about the knowledge on the dream.

The legal and epistemological status of the dream is complicated, because it is beyond the responsibility of the conscious subject: the epistemologico-legal status of the unconscious or consciousness of the dream seems all the more interesting because it is problematic.
This legal issue concerns also the artists, since if a new technology goes toward a socialization or economization of the dreaming activity, that will directly concern artistic domains.

Furthermore this right to dream becomes more than more economic; it is invested with economic values, “economic” meaning here both “mercantile and libidinal” economy. The issue of the dream is really actual than ever, because we are at the age of development of technological exploitation of the dream.


I have just organized last March in Tokyo a symposium on the "Dream and Power for the digital age."
The "Dream" is not here a vague theme. It is indeed the 'sleep' and 'dream' as physiological and psychological activity. The aim was to reflect on the technologicization of the dream and to discuss about the crisis of the dream or the crisis of the dream culture in contemporary society.

For example, there may be mentioned Jonathan Crary’s book 24/7 Late capitanism and the Ends of sleep on which everyone speak in conferences worldwide. The importance of this book lies in the fact that the capitalism of the XXIst century assailed the field of sleep whose outcome would be the "End of sleeps". He pulls the alarm that " in affluent sectors of the globe, what was once consumerism has expanded to 24H activity of techniques of personalization, of individuation, of machinic interface, and of mandatory communication. " (p. 72)

Indeed, for the "attention economy" of contemporary cultural capitalism that has developed throughout the 20th century, sleep and dream remained the only areas preserved. But in capitalism 24/7 of the 21st century, while the user is asleep, the computer constantly connected is awake in sleep mode. So does go the life of information society or of the control society in the sense of the French philosopher Gilles Deleuze.

Furthermore, as shown by the development of technology of dream decoding, human sleep can be connected to the machine in sleep mode, can be technologically externalized. The human dream then can be scanned and decoded, it is already thing acquired technologically: its exploitation would be the order of the day.
   This means that the human psyche will be in permanent interface with the machinic dispositive. It is exactly at this stage that has evolved the society of control of 24/7 capitalism. It is in this sense that we speak here of a hyper-control society.

 There are also artificial intelligence beginning to “dream”, as the project Deep Dream by Google shows. “Yes, the Androids Dream of Electronic Sheep”, as title it the British newspaper The Guardian reporting this Google project.


2 The life in sleep mode and the question of the interpretation of dreams


  In hyper-control society of 24/7 capitalism, the "colonization of the lifeworld " (Habermas) by techno-capitalism that had developed in the last century as with "consciousness industry" or "memory industry" penetrates so in the realm of the unconscious that is sleep and dream. Another problem of "biopolitics" in the sense of Foucault appeared in this form.

  If we remember that at the beginning of last century, Freud formulated his thesis "the dream is a wish-fulfillment", what are the relationships one might imagine between dream decoding technology and different knowledge of the dream that existed in the history of mankind?

  That while the man dreams, the machine works in sleep mode coping and doubling dreams of the man, is no longer a funny dream story! The "desire" which was prepared during sleep and which formulates itself by dream would have been already decoded technologically in advance before the wake of the subject and the subject awaken will be introduced in another artificial psychic circuit ready made. This situation of the dream could generalize, it may short-circuit the interpretation of dream by the subject himself, the subjective work of interpretation will be replaced by machine decoding and automatic profiling.

  While I am not a Freudian, I recently have advocated a "return to Freud" in a somewhat specific sense. It is precisely because the 24/7 capitalism brings us closer to a society where comprehensive system of libidinal economy is technologically implemented. I have a premonition that this will generalize an epistemic conflict of interpretations of dreams. We will see return the issue of Traumdeutung but an entirely different way. Or in the terminology of C. S. Peirce, who will be interpretant of  the dream: the machine or the human?

3  «Introduction to Dream and existence » by Foucault (1953)


  Deviating somewhat from the line of my argument, I would add that in preparing this talk on the "Dream" I remembered the first work of Foucault. Usually we think that Foucault has become the true Foucault after the first edition of the History of Madness in 1960 and Foucault's work will evolve from there to the question of the clinic, psychiatry, of humanities, criminal law and disciplinary society, etc. problematizing Knowledge and Power.

However even before the History of Madness, there was a prehistory : the Introduction to the Dream and the existence of Binswanger published in 1953 is in fact his first book.

We must now put in another way and so probably more acute manner the question raised by Foucault. In the digital age we must question the knowledge, power and technology a more intense way. And especially we can no longer put the issue of the dream out of the question of power and its technology. A more powerful thought is required to be able to articulate issues of dreams with the technology of power and the government of psyche, power and capitalism.

4 The sleepless capitalism and the disruption


   I would mention yet another episode that will not be trivial. The book of Crary 24/7 starts with the evocation of the military exercise to not sleep.
   But the Shock Doctrine by Naomi Klein, also begins by evoking the development of technology of torture. The author discusses on the treatment of shock studied in a Canadian university in the 1950s which consists in destroying the distinction of day and night, abolishing the alternation causing a white-out of the world. And this technology aims to initialize the personality of the tortured. The book tells how the torture technology studied and developed in the 1950s will be invested and used by power military junta in Chile and Argentina and so had made possible the experiment of neoliberalism by Milton Friedman in the Conservative Revolution of 1970’s.

  Torture is thus not only an atrocious barbarism but at the same time a sophisticated technology of power that works on the psycho-somatic level. It was that which by "initializing" the society made it possible to integrate a neoliberal economic experience, reports the Klein’s book. Just as according Foucault the prison functioning as a model, the knowledge extracted from the praxis of torture could be distributed on the social body as like an invisible diagrams, which permeate the social body in sleep mode.

  The keyword of technological innovation in the world of today is by my friend the philosopher Bernard Stiegler disruption. This "destructive destruction" that is not the "creative destruction" of the economist Joseph  Schumpeter causes a "state of shock". This disruption casts its shadow more black on our world today. It is in the ends of sleep and the crisis of dream that the disruption of the neoliberal capitalism – the “late capitalism” in terms of Crary -- would have its root. This is to explain the background of problem form which we would start our reflection.
   Because the disruption in the 24/7 capitalism is destroying the sleep initializing the human psyche, if this capitalism is given a dream technology, it would be able to artificially hallucinate dreams, as shown in the case of Deep Dream project. As the Android of the SF novel of Philip K. Dick Do Androids Dream of Electric Sheep? , we might risk in near future to dream a nightmare produced by AI, this is today more than likely.

5 Dream Culture :  undecidability of dream and reality


 In contrast to the realization of dream-colonization and as inverse of this technological hallucination of metaphysics of presence, one might evoke another civilizational paradigm, that of the undecidability of dream and reality.

At a time when the capitalism 24/7 threaten to technologicize and so destroy the dream it would be necessary to return to the dream culture:  each civilization should have developed its own dream culture.

In the case of Japan, what is it?

And in the case of China ?

In the days following the events of the disaster of March 11, 2011, many Japanese have  remembered the impermanence of t world (Mujo) which comes from Buddhist ontological paradigm. In this view of the world deeply rooted in cultural memory, there is also a conception of the world for which the distinction between the real and the dream is uncertain and undecidable.

It will be necessary to go back into the semantic depth of the Japanese language to make return these archaic strata of culture and language. And this in order to operate a healing of culture against the technologicized world.

For example, the real is said in ancient language with the word Utsutsu. But soon it is contaminated semantically to get to designate a state indistinguishable between the real and the dream whose idiom Yume Utsutsu the rêve- reality. Utsutsu begins to designate a state of sleep and dream in the world. Utsutu also designate a Utsuro, empty, empty like a dream, before Utsurou derive a verb, move, float.

The literature abounds in this experience of mixing of dream and reality, a spatial and temporal floating half sleep half awake.
I think it is true also for the Chinese literary tradition, as we can read for example in Dream of the Red Chamber.

There is not distinction of the Western and the East.

As the A la recherché du temps perdu begins with the evocation of the experience of sleep, the world of Tale of Genji is full of beings indistinguishable from dreams with real: one reflecting the other and operating transfer times. Dream of the Red Chamber begins with the evocation of the non distinction of real and fiction, dream, illusion and reality. In Japanese case,  the modern writer Tanizaki paradigmatically revived this life indistinguishable universe of dream and reality.

Here is the translation by Tanizaki a waka poem in Tale of Genji.

見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな
“So few and scattered the nights, so few the dreams.
Would that the dream tonight might take me with it.”
  Transl. by Edward G. Seidensticker

Utsutsu rhymes with Utsuru - transfer - reflecting Utsusu also ephemeral worldly life Utsushsemi body, which is reflected in the universe of dreams and making beings apparently be transferred over each other.

  This universal existence of dream culture invite us to reflect on the function of the dream for human and even animal life.

6 Paradoxical sleep vs. hallucinatory technology: taking care of the dream


  We know thanks to Michel Jouvet, eminent French neurologist, that the paradoxal sleep - REM sleep - is the privileged period for the expression of dreams.

This is the sleep phase in which dreams we remember occur.

It is characterized by rapid eye movements, hence the name of this REM sleep stage for rapid eye movement, muscle weakness, irregular breathing and heart rate, body temperature is out of adjustment. There is an expansion of the pelvic organs and an erection which can be followed by ejaculation. The electrical activity of the brain is similar to that of awakening, as shown in the EEG trace. (Wikipedia)


  Perhaps, to cope with the crisis of the dream, it would be better to rehabilitate the dream its paradoxical status. While entirely dreaming, it is indistinguishable from the real.
  Hallucination is the opposite of the dream, although the dream is hallucinatory in its very mechanism of projection as Freud explain by his metapshycology :

In sleep, the junction with the motility is unplugged and the machine is running in reverse, the psychic apparatus begins to make the process "regredient" - this is the "dream process" according to Freud - and the machine begins the hallucinatory projection of  "images" on the dream screen.
Allan Hobson, another eminent neurologist of dream who is in many respects critical to Freudian psychoanalysis, nonetheless considers the function of the dream consisting of primary processes which reorganize in puissance the psyche by its  specific logic.


7 Artistic creation and criticism in Digital Media


We must ask therefore all an aesthetic problem: how to make a artistic hermeneutics of dream in digital technology environments.

Both the neural Network of Deep dream that dream of electronic sheep, and the dream decoding machine of ATR, submits the dream to the logic of presence of real images. And so they do lose the properly inconsequent dimension - the primary process in the sense of Freud or Hobson - of the dream.

Here hermeneutic distantiation appears to be important: oblivion, delays and misunderstanding of dreams are probably more essential than remembering and storytelling. The experience of the dream is so fundamentally fragmented and therefore is infinitely open to interpretation.

There are artistic uses of digital images that are distancing themselves from the logic of immersive realistic vision. I recently worked with Masaki Fujihata for his anarchive with use of AR technology. This artistic and critical use of AR seems close to YUME UTSuTSU. There are two attitudes face to the digital image: immersive and critical. YUME Utsutsu can be to criticize the dream with reality and the real with dream: this conception is familiar with the impermanence of the world. This is no doubt the wisdom of dreams in life, which make possible to relativize the dream by the reality and at the same time vice versa. The dream make possible to criticize the real and it make possible to open the world to a infinite shimmering of dream and real. This is undoubtedly the wisdom of dream and of Art that leaves open our life in its radical impermanence.

8 Taking care of the Dream

 The technology of presence - of the metaphysics of presence – tends to erases the paradoxical suspension of the real by the dream. But if this fundamental paradox is cleared, there is no dream. If the dream is awake and then there will be nothing but hallucination.

Care must be taken of the dream, dream that takes care of our daylife by its paradoxical function. Hence we must return to the inconsequence of our dream culture.

By starting perhaps with the proustian incipit:
Long time I went to bed early ...

Or by recitation a hymn of Nirvana Sutra

うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

Today crossing the heights of illusion,
neither hollow dreams
Nor charms


Which is an ABC of dream cultures both western and eastern. Must there perhaps we go back.